目の前にいた生徒はすぐに俺の記憶だけを失い、うつろな瞳で俺を見つめ、教室へと戻っていく。そのときの映像は、今でも忘れられない。
 記憶操作もできるだなんて、いよいよ自分は化け物だと確信したあの日。
 もう二度と誰にも使うべきではないと、誓ったけれど……。
「どうせ遠くへ行くなら、全部失って行くのもありだな」
 そうつぶやいたとき、丁度ドアがノックされる音が響いた。
 父親が風呂に入っている間に、母親がフォローをしにきたのだろう。いつものことだ。
「慧、話があるの」
 想像通り、ドアを開けると、そこにはやつれた様子の母親がいた。
 しかし、今日は俯かずに、まっすぐ俺の瞳を見つめている。
「お母さんたち、正式に離婚することになったから。学費は全部出してもらえるから、安心してね」
「は……離婚? 会社はどうなんの」
「叔父が今の仕事を辞めて、継ぐことになったわ。私もこの歳だけど、事務を手伝うことにしたの。庄司さんは、もう違う会社で取締役を頼まれているらしいわ」
 ずっと二人の仲が悪いことは、分かっていた。離婚を考えていることも。
 しかし、母親は絶対に決めきれないと思っていた。この家から出られないと思っていた。
 驚いた様子の俺に、母親は無理に笑ってみせる。
「大学のこと……ごめんね。慧が行きたいところに行っていいから」
「なんだよ、それ……」
「お母さん、庄司さんには何も逆らえなくて、いつもごめんね」
 目じりにしわを寄せて笑顔をつくり、母親はそれだけ言い残して部屋を出ていった。
 残された俺は、曾祖父の部屋の中で、茫然とその場に立ち尽くす。
 ……自分の能力に関わった人たちは、皆不幸になっていく。
 だから、こんな“リセット治療法”が残されていたのだろう。
 曾祖父は……、“芳賀義春”は、いったいどんな想いで、毎日を生きていたのか。
 能力を知ってしまった人は、皆不幸になっていくというのに。
 こんな能力がある限り、大切な人なんて作れやしない。作ってはいけない。
「くそ……」
 力ない言葉が、ただの空気みたいに喉を通り過ぎる。
 志倉の『許してあげる』という言葉が、最後の灯のように、胸の中で揺れていた。