成瀬君の指示に従い、南さんと男子生徒はすぐにお客さんにも状況を説明しに行く。
 まだ茫然としたままその場に立ち尽くしている私の手首を、成瀬君が掴んだ。
「行くぞ」
 そう言われて、彼に引っ張られるがままに教室から外へ出た。
 ……私の声になろうか、という、彼の言葉が再び頭の中に浮かんでくる。
 成瀬君は今、本当に、私の“声”になってくれたんだ。

 用務室に向かうのかと思ったら、人通りが少ない場所にある水道に連れてこられた。
 なんで水道に……と思っていると、突然成瀬君は私の腕を掴んで、蛇口から流れ出る冷水に強引に当てた。
 冷たい、と思わず心の中で叫んだが、彼は少し怖い顔をしたまま、私の腕を離してくれそうにはない。
 私が腕を火傷していたことに、気づいてくれていたのか……。
 驚きながらもされるがままにしていると、成瀬君が横で「痛い?」と聞いてきたので、私は再び心の声で会話を試みる。
『もう大丈夫、さっきは少しびっくりしただけで』
「熱いとか痛いとか、そういうときも……声は出せないんだな」
『え……』
 成瀬君があまりにも心配そうな声でそうつぶやくものだから、私は反応に少し困った。
 濡れた腕を放置して乾かしながら、成瀬君のその苦しそうな視線に、ひたすらどきまぎしながら耐える。
 おどおどしてないで、さっきのこと、ちゃんとお礼を伝えなきゃ……。そう思っていると、うしろを通りがかった女生徒が、成瀬君の背中を見てこそこそと話している声が聞こえてきた。
 何を言っているかは分からないが、芸能人的な意味で騒がれていることだけは分かる。隠し撮りされているのも何度か見かけたほどだ。
 成瀬君と一緒にいると、たくさんの人の視線が集まってくる。
 私が学校で声を出せなくなった理由のひとつは、皆からの“視線”がとても怖く感じたからだった。
「志倉……? 大丈夫か?」
 うしろを通った女生徒の視線で気持ちが一気に不安になり、私は少し成瀬君から離れた。
 さっき、タピオカが床に落ちてしまったときも、何十人もの視線が自分に集まっている気がして、心臓がドクンドクンと嫌な音をずっと立てていた。
 自意識過剰であることも、ただの被害妄想であることも、私は十分分かっているつもりなのに、体が言うことを聞かない。
 “お前が床に落としたんだろ”。
 そんな疑いの気持ちが皆の瞳の奥に見え隠れしている気がして、少しも顔をあげることができなかった。
 私は……、ゆっくりでも一歩進みたいと思って、今日この日を迎えたはずなのに。
 小中学生のころから、ずっと胸を縛り続けている呪いの言葉が、また浮かび上がってきてしまった。
 『人の視線が怖い。消えちゃいたい。いっそ――透明人間になりたい』
 誰も恥ずかしい私を見ないで。見つけないで。笑わないで。
 そう願ってばかりいた、幼いころの記憶が、私の喉を太い鎖で縛りつけている。
 そこまで回想して、私はようやくハッとした。
 隣にいる成瀬君には、今この感情も、全部読まれてしまっているのだ。
 面倒な人間だと、つまらなく暗い人間だと、思われただろうか。
 ……恥ずかしい。こんな感情、読まれたくない。聞かないでほしい。
 恐る恐る彼のほうを向くと、成瀬君は予想外の言葉を口にした。
「消えてもいい」
『え……』
 成瀬君は、何かを願うような切実な表情で一言そう言い放って、私の濡れた手を握りしめた。
 手を繋ぐというより、ほとんど掴むような形だけど、彼の体温が直接伝わってくる。
「たとえ志倉が透明人間になって消えても……、俺なら見つけられるから、いいよ」
『成瀬君……?』
「志倉の感情をたどって、見つけに行くから」
 そんなたとえ話を、どうしてそんなに苦しい声で言うの。
 見つけに行くだなんて、どうしてそんな言葉をくれるの。
『なんで、成瀬君はいつも……』
 動揺の中で、うっかり彼に語りかけてしまう。
 ずっと思っていたことなんだけど、どうして、彼はときどき私の前ではこんなに弱いのだろう。
 何もかも持っていて、学校中の憧れの人なのに。私が持っていないもの、彼は全部持っているのに。
 ときどき私と共鳴するように悲しんでくれるのは、ただ心が読めるから? それとも、私と似たような経験をしたことがあるから? 私と同じように、“消えてしまいたい”と思ったことがあるから……?
 答えてほしいよ、成瀬君。
 しかし、胸の中で唱えたその質問に、成瀬君は答えてくれなかった。
 どれも違うのかもしれないし、全部当たっていたかもしれない。
 彼の痛みは彼だけのものだから、私もそれ以上は深追いしなかった。
『成瀬君、お願いがあるの』
「ん? なに?」
『掃除が終わったら、タピオカの在庫、他クラスのタピオカ屋にないか聞きに行きたい。成瀬君に、それを手伝って欲しい』
「……わかった」
 どうしてか、成瀬君が少しも自分に自信がないように見えてしまい、気づいたら頼みごとをしていた。想像通り、私に頼みごとをされた成瀬君は、少しほっとしたような表情をした。
 足りない頭を必死に回転させて探した、今自分にできること。でも、ひとりじゃできないこと。
 このまま何もせずに逃げ出すことだけは、自分のためにしたくないと思えたんだ。それは、心が折れる前に、成瀬君が助けてくれたから。
「タピオカの在庫、あるといいな」
 彼の言葉にこくこくと頷く。繋いでいた手は自然と解かれ、水も乾いていた。
 さっき、クラスの半分の人から疑われていたとき、成瀬君だけは、心を読めても読めなくても、信じてくれたのかな。
 そんなおこがましいことを思ってしまうくらい、さっきの言葉が嬉しかったのだ。
 そう思っていることが伝わるのが恥ずかしくて、私はしばらく成瀬君と目を合わせることができなかった。

 私が透けて消えても、見つけ出してくれると彼は言ったけど、成瀬君が消えたいと思った日は、私が見つけてあげたい。私たちは、どこか同じ痛みを抱えている気がするから。
 皆の視線を集める、何もかも正反対な君の隣で、静かにそう、思ったんだ。

■消えるから side成瀬慧

 消えてしまいたい、という感情を、俺は痛いほど分かっていたから、志倉の痛みと共鳴して、思わずあんな言葉が口をついて出てしまった。
 死にたいとまではいかずとも、消えてしまいたいと思ったことは、何度もある。
 能力がバレることを恐れた父に、『透明人間になったと思って生きろ』と実際に何度も言われていたことで、いっそ消えたいという感情がずっと頭の片隅に住みついているのかもしれない。
 そんな感情を、俺のせいで彼女も抱えているのかと思ったら、胸がちぎれそうな想いになった。
 それなのに、志倉は一緒に代わりの食材を探してほしいと願い、本当にそのあと2クラスに頭を下げて食材をもらいに行くことになった。
 おかげで無事にお店も再開することができ、動揺に満ちていたクラスメイトも志倉の行動を見て何か陰口を言うことはなくなり、何事もなく文化祭初日は終えた。
 皆の視線にそんなに怯えながらも、どうして彼女は自分自身と立ち向かえるのか。
 強さと弱さ半々の状態で自分と戦っている志倉を見て、言葉では表せないような感情が浮かんできた。
 俺は、彼女と同じくらい、毎日をちゃんと生きているだろうか。



 文化祭が終わり、七月後半に入った。
 あっという間に真夏になり、少し歩いただけで汗でシャツが体に張り付くのを感じる。
 教室の窓から見える景色は、めまいがするほど鮮やかな新緑であふれ、ジーワジーワという蝉の声がリズムよく聞こえてくる。
 ここ最近は晴天続きで、原色の青い絵の具をそのまま使ったような青空が広がって見えた。
 夏は嫌いだ。暑さと虫の鳴き声と心の声が重なって、頭の中が常に沸騰しているようになるから。
 教室に入ると、相変わらず頭が割れそうなほどノイズが聞こえてくる。
 ただでさえ鬱陶しいというのに、ここ最近のノイズは、さらに自分の気持ちを不快にさせるものばかりだ。
 席に着くと、近くにいる生徒の心の声がはっきりと聞こえてきた。
『成瀬君と志倉さんが付き合っているって本当?』
『まさかそんなはずはない』
『成瀬君には空気感的に聞けないし……でも志倉さんに聞いても、話せないしな』
 くだらなさすぎる。どうして人は集団になると噂をせずにはいられないのか。
 あのとき志倉は、俺が助けたことで目立ってしまったことを相当嫌がっていたけれど、それはこの状況が容易に想像できたからなんだろう。
 自分のせいで志倉にいらぬ関心が集まってしまったことが、心底嫌だ。
 誰の関心も鬱陶しくて仕方ない。これがただの思い過ごしだと思えたら、どんなにいいことか。
 朝のHRが始まるまで机に突っ伏していると、やる気のなさそうな担任が時間ギリギリに教室に入ってきて、淡々と生徒に呼びかけた。
「明日から夏休みに入るが、課題はしっかりやってくるように。受験組は気を抜くなよ。以上」
 教師の号令を最後に、一学期が終わった。
 ちらっと志倉の方を見ると、彼女は誰かからメッセージが来ているのか、スマホをずっと触っていた。
 夏休みに入る前に、何か一言でも彼女に声をかけたいと思った自分がいる。
 バカだ。たった二か月見なくなるだけだというのに。
 それに、俺が彼女との距離を縮めるためにかけていい言葉なんて、ひとつもない。
「あ、成瀬ー。このあと何人かでカラオケ行くんだけど、こない?」
 帰ろうとリュックを肩にかけたところで、クラスメイトの南が話しかけてきた。
 モデルをやっているのかなんなのか知らないが、学校内で彼女のことが話題にあがることは多いらしい。
「いや、俺はいい」
「なんで? 部活もう辞めたんでしょ?」
 クラスの誰もが触れないようにしている話題に堂々と触れられるのは、南の性格の問題なのだろうか。
 何人かの動揺した心の声が聞こえてきたが、俺は表情を崩さずに「別に俺がいなくてもいいだろ」と答える。
「別によくないから誘ったんですけど?」
「そういうのいいから」
 俺は南の言葉をサラッと流して、教室から去った。
 彼女の俺に対する好意はずいぶんと前から漏れ聞こえていたけれど、それはたんに俺が靡かないからムキになっているだけだろう。

 足早に校舎を出ると、じりじりと頭皮を焦がすような太陽の光に照らされた。
 ……暑くて、頭が朦朧とする。
 南と話している間に、志倉はいつの間にか帰ってしまっていた。
 最後に見たのは、いつも通り儚げなうしろ姿だけだった。
「あ……」
 しまった。ぼうっとしたまま歩いていたら、体が勝手に部活動の場所に向かっていた。
 第二グラウンドは、裏門の近くにある校内でも一番大きいグラウンドだ。
 最近新しく整備されたタータンに、真剣に走り込みの準備をしている生徒があふれている。
 皆がアップしている中、練習が始まる前にジョギングをしている三島を見かけた。今は、インターハイ本番に向けて最終調整をしている時期だろう。
 俺が部活を辞めると言ったとき、一番感情が激しく乱れていたのは彼だった。
 ……三島の走りはとてもまっすぐで、無駄なノイズがなくて、いい意味で周りを気にしていない空気感が漂っている。とてつもなく精神が安定している彼の強さに、俺はいつも密かに感心していたが、部活を辞めるといったあのときだけは、感情の振れ幅がぐんと大きくなっていた。
 そして今の彼も、不安や焦りの感情がぐるぐると渦巻いているのが分かる。どうやら右膝の痛みが日々増しているようだった。
 偶然俺の近くにある水飲み場に三島がやってきて、聞いてはいけない彼の感情が聞こえてきてしまう。
『成瀬だったら……もっと期待されていたはずだ』
 そんな感情がひしひしと伝わってきて、俺はどんな顔をしていいか分からなくなった。
 こんな気持ちは、他人がのぞいていいものではない。
 俺はそっと一歩退き、そのまま正門へ向かおうとした。
「おい、成瀬」
 しかし、去ろうとしたギリギリのところで、三島に見つかってしまった。
 俺は立ち去ろうとした足を止め、ゆっくりと彼のほうを振り返る。
 三島の針のようにまっすぐな短髪には汗が光り、釣り目がちな鋭い眼光は目の前の俺だけを射貫いている。
「早々に帰宅かよ。いいもんだな暇人は」
「……そうだな」
「恋愛にうつつ抜かせるもんな」
 ……こいつも、そんなくだらない噂を聞いてしまったのか。
 俺と志倉は、決してそんな関係性なんかじゃない。ありえてはいけない。
 話す気力もなくなり、俺はそれ以上何も返さずに再び去ろうとしたが、三島の攻撃的な言葉は止まらない。
「怪我が原因ってコーチは言ってたけど、見た限りピンピンしてんじゃねぇか」
「…………」
「結局お前は逃げたんだ。どれだけチームに迷惑かけたと思ってる」
「そうだな……。じゃあ責任取って、お前の右足と俺の足、取り替えてやろうか?」
 あざ笑うようにそう伝えると、三島はぴきっと表情を固まらせた。
 俺のことなんかに構わずに、三島は走ることに集中すべきだ。
 そのまっすぐすぎる瞳に自分が映ると、何かずっと責められているような気持ちになる。俺はそれから逃げたくて、わざと三島を傷つけるような言葉を放った。
 三島は心の中では俺に対する怒りに燃えていたが、出てきた言葉は冷静だった。
「お前……本当に人の心がねぇよな」
 まっすぐな憎悪の感情が響いてくる。彼の瞳には、怒りの感情と、失望の感情、そのどちらもが混ざりあっている。
 ――人の心がない。それはまさに、俺の人間性を的確に言い表した言葉だと思った。
 俺は、人の心が読めるからと言って、人に優しく生きてきたわけじゃない。
 どんなことを言ったら一番相手が傷つくのか。距離を置けるのか。そんなことばかり考えて、生きてきたのだから。
「……お前の大会記録なんか、ゴミにしてやるよ」
 三島は最後にそう吐き捨てて、右足を若干引きずりながらグラウンドに戻っていった。
 真夏の茹だるような熱気が、セミの鳴き声とともに脳内を侵食してくる。
 去っていく彼のうしろ姿を、空っぽの気持ちのまま見つめていた。

 空虚な状態のまま正門に向かうと、もう帰ったと思っていた志倉が、珍しく誰かと待ち合わせていることに気づいた。
 鞄を持ったまま、チラチラと周りの様子をうかがっては、何やら楽しそうな雰囲気を出している。
 あらぬ噂を立てられていることもあり、なんとなく彼女に近づかないように門から出ようとしたが、志倉が待ち合わせている人物を見て固まった。
「柚葵! お待たせ、暑かったでしょう」
 ショートカットでボーイッシュな姿は、小学校のころから変わっていない。
 名前は思い出せないけれど、彼女を見た瞬間、ドクンと胸の中がざわつくのを感じた。
 人の顔は一度見たら忘れない質なので、彼女が小学生の頃の同級生だということは確実だった。
 志倉といまだに連絡を取り合っている同級生がいたのか……。
 そのことに驚きながらも、不審に思われないように、俺はふたりのうしろを静かに通り抜けようとした。
 しかし、ふと待ち合わせていた彼女と一瞬目が合ってしまい、その瞬間相手の中で憎しみの感情が一気に燃え上がるのをひしひしと感じた。
『まただ。“アイツ”にどこか似ている男』
『名前はクラスメイトの成瀬だと聞いたけど、名前も全く違うから、他人の空似かしら』
『もし、“アイツ”本人だったら――殺してやりたい』
 漏れ出る殺意に、俺は心の中で「そうだよな」と静かに納得する。
 半径数メートル以内に、ふたりから殺意を向けられているだなんて、笑える。
 人に嫌われることには、慣れすぎているから、今さらどうってことないけれど。

 ……だけど、お願いだ。
 この罪を償ったら、俺は志倉の世界から消えるから。
 だからあと少しだけ、彼女が俺を思い出すまで――時間がほしい。
 俺の自己中心的な“罪滅ぼし”を、どうか見逃してほしい。
 こんな風に切実に何かを願うことなんて、きっともう、人生で一度もないはずだから。

■君と夏休み side志倉柚葵

 夏休みに入ると、美大受験をするにあたり予備校に通うことになった。
 授業は週にニ回だけど課題が多く、しかも夏休み期間は部室は解放されないためどうしても絵を描く場所と時間が足りない。
 家では描くスペースがないと桐にこぼしたら、彼女のおじいちゃんが気まぐれで建てたアトリエが離れにあるから自由に使ってくれていいと言われた。
 さすが学園長を務めるおじいちゃんだ。どうやら一時期だけ油絵にはまったけれど、今はすっかり飽きて使わなくなってしまったらしい。
 最初は断ったけれど、『代わりにアトリエの掃除をするってことでいつでも使ってよ』と合鍵まで渡してもらった。戸惑いつつも、夏休みの間だけそのお言葉に甘えることになったのだ。
 そして今、強い日差しの中、桐の家から少し離れた場所にあるアトリエに向かっている。
 この辺は高級住宅街ばかりで、歩道も整備され美しい並木道が続いている。
 私は真夏の日差しに透ける新緑の美しさに目を奪われながら、通り慣れていない道を進んだ。
 講師から『人物画』というざっくりした課題を与えられたけれど、誰を描こうかな……。
 実際の試験にも人物のスケッチが出る可能性は十分あるので、桐にモデルを頼みたいけれど、彼女は今日も習い事で忙しそうだったから、頼むに頼めない。
 人物画といえば……、今までひっそり描いていた成瀬君が部活を辞めて走らなくなってから、もう絵を描き進めることができなくなってしまった。
 成瀬君の骨格は本当に見れば見るほど美しくて、ものすごく描き甲斐があったのに。
 残念に思いながら歩いていると、何やら前方からとても美しいフォームで走っている男性が近づいてきた。
 あれ、なんだかあの人、成瀬君とフォームが似てる……。
 それに、首から肩にかけてのシャープな骨格も、足の長さもそっくりだ。
 そんなことを思ってつい見つめてしまうと、黒いキャップの下からのぞく鋭い眼光とバチッと目が合ってしまった。
『あ……!』
 思わず心の中で大声をあげてしまう。
 走っていた彼は私の目の前で止まり、キャップをすっと外した。
 それから、少し呆れた口調で言い放つ。
「骨格で人のこと見つけんの、やめてくんない?」
『な、成瀬君! 家この辺なの……?』
「いや、そんなに近くないけど、この辺走りやすいから」