「あ、はーい」
 難解な文章に思考が停止しかけたが、ドア越しに巴の可愛い声が聞こえて、私は顔をあげた。
 部屋から出ると巴は嬉しそうに抱きついてきて、「今日はグラタンだって」とウキウキな様子だ。
 階段を一緒に降りてダイニングルームに向かうと、机の上には温かい料理が並べられていた。
「巴、柚葵、飲み物の準備手伝ってちょうだい。お父さんももうすぐ帰ってくるって」
 母親のお願いに素直に従って、巴と一緒にグラスを取りに行く。
「巴、りんごジュースがいいなあ」
「お母さんにジュース飲みすぎって怒られてなかった?」
「しーっ、お姉ちゃんお願い」
「もう、しょうがないなあー」
 苦笑しながらこっそりとりんごジュースを妹のグラスにだけ注ぐと、彼女はとても嬉しそうに笑った。
 その様子を見て、私の気持ちもすっかり晴れ渡ってしまう。
 他の人から見たら大変そうに見えてしまうのかもしれないけれど、私は十分、幸せを感じている。
 大好きな家族がいて、桐という親友がいて、水彩画という向き合うべきものがある。
 他の人と違うことは、「自分の世界はこれ以上広がらないかもしれない」という、ただ、それだけのこと。
 『俺が柚葵の声になってやろうか』という、成瀬君の言葉がふとよみがえる。彼の存在は、ずっと同じだった景色に突如現れた彗星みたいなものだ。
 眺めているだけでよかった星が、目の前まで急に近づいてきた……そんな感じだ。
 彼のことが分からなくて少し怖いけど、でもきっと、悪い人ではないんだろう。
 最初は戸惑ったけれど、私のことを助けようとしてくれた気持ちは、素直に嬉しい気がするから。
 誰かの痛みを想像できる人は、皆等しく、自分も傷ついた経験があるということを、私は知っている。



 文化祭に参加したのは今年が初めてのことだ。
 去年はずっと保健室登校で、文化祭がいつだったかも意識していなかった。
 自分が参加することで皆に当日迷惑をかけるのではと心配になったけれど、担任の先生にさらっと配役を決められてしまい、引くに引けなくなった。
 そして今日、あっという間に文化祭当日を迎えた。
 大きな文化祭があることで有名な高校だったけれど、ここまで人が多いとは驚いた。
 混雑で広い廊下も上手く歩くことができない。