……正確には、答えようとしたけれど、答えられなかったのだ。
 私は、この学校の中では、声を出すことができないから。
 “場面緘黙症”という、ある特定の場所や状況では話すことができなくなる症状を発症してから、もう七年が経とうとしている。
 家の中では普通に話すことができるけれど、学校では話すことができない。学校じゃない場所でも、家以外だと声を出しにくい。周囲にあまり理解してもらい難い症状であることは、この数年で何度も実感してきた。
 声を出せないことによって辛い経験もあったけれど、昨年までの保健室登校を辞めて、明日からは、普通のクラスに混ぜてもらうことになっている。
『今日は風が強い。もうそろそろ、桜全部散っちゃうなぁ……』
 この高校で桜を眺めるのは二度目。スケッチブックを胸に抱えながら、廊下から窓の外を眺めると、すでに雨や風で裸に近くなった桜の木が並んでいる。
 幹の周りに桜の絨毯ができている様子を上から眺めながら角を曲がろうとした次の瞬間、突然大きな衝撃が肩に走り、私はその場にスケッチブックを落としてしまった。
 ――ぶつかってきたその生徒を見て、私は心の底から“しまった”と思った。
 少しだけ茶色がかった色素の薄い髪と瞳に、陶器のように滑らかで透き通った肌、そして何より、シャツ越しでもわかる骨格の美しさ……そのどれもに見覚えがある。
 私が何度も窓から眺めてスケッチしていた、昨年のインターハイ優勝者である、同い年の成瀬慧(なるせけい)が、今目の前にいる。
 こんなに近くで彼を見たことなんてもちろん初めてで、私は一気に心拍数が上がった。校内でも芸能人級に有名で、実際にテレビでも何度か見たことがある選手だ。
 走る姿が風のように綺麗で、絵に描いてみたいと、初めて心の底から思った相手だった。絶対に彼と接触することはないと思って、こそこそとスケッチを続けていたというのに。
 思わず、間近で見る彼の美しさに驚き固まっていると、彼の妙に色気のある半月型の瞳とバチッと視線が合った。つい見過ぎてしまった。
 慌てて、見られるわけにはいかないスケッチブックを拾って立ち去ろうとするが、開けっ放しだった窓から吹き込んだ風が、そのスケッチブックをパラパラとめくってしまう。