たしかに、私が芳賀先生の作品を知らなければ、記憶は消されていたかもしれない。そう思うと、とんでもない奇跡が重なっているように思える。
 『半透明のあなたへ』の作品解説ページを開くと、芳賀先生の変わらない想いがそこに記されていた。私はその言葉を、一文字一文字指でなぞりながら、心にしみこませていく。

 【私は、己のことを許していい日は来るのだろうかと、ずっとそのことだけを考えて生きていました。けれど、己のことを許せるのは己だけだと、亡き妻が再三言っていたことを思い出しました。消えたくなった夜を超えて、瞼の裏にある彼女の映像を思い出し、この絵は完成しています。私のようにならないように、君は、透明になる前に、自分の気持ちを叫びなさい】
 
 消えたくなった夜を超えて、という言葉に、芳賀先生の苦しみが見え隠れする。
 この作品は未来の私へ向けたメッセージだと思っていたけれど、それはもしかしたらとんでもない己惚れだったかもしれない。
 芳賀先生は、透明になりたいと思ってしまったことがある全ての人へ向けて、この作品を描いたのかもしれない。
 ……この世界から消えたいと思う前に、自分の心を叫べ、と。
 確かに、私にもそんな辛い時期があった。今もそのしこりは残っている。
 ――消えたいと生きていたいを繰り返すあの頃の私は、まるで半透明だった。
 パーン……と、グラウンドから、突然銃声が鳴り響く。
 その音にハッとして、一旦資料を閉じて美術室の窓から外を覗くと、次のレースに備え準備体操をしている成瀬君が見えた。今日の練習はすぐにタイム測定があると確か言っていた気がする。
 “成瀬慧”は、少し前まで、こうして窓越しにしか見たことのない存在だった。
 自分にとっては一生関わることのない、まぶしい人だと思っていた。
 窓のそばに咲いている桜が風に吹かれて、開けっ放しの窓から桜が教室の中に舞い降りてくる。 
 彼の番はもう少し先のようだけど、もう完全にスイッチを入れて、真剣な顔になっていた。
 ギラギラと輝く太陽が、成瀬君の色素の薄い髪を透かしている。

 今、君の目からは、この世はどんな風に見えているんだろう。
 人の感情が透けて見える透明な世界で、君の目に私はどう映っているんだろう。
 私の汚い感情も葛藤も全部知った上で、君は私に心から笑いかけてくれた。