桜が窓から流れる。成瀬君は笑っている私を優しい瞳で見つめると、名前を呼んでからふっと顔を近づけてきた。
 お互いしゃがみこんだ状態のまま、顔と顔の距離が縮み、花びらが触れるかのような軽いキスを、唇に落とされる。それはとても一瞬の出来事で、理解したときには彼の唇は離れていた。
「……北海道の美大、絶対受かれよ」
 思考が停止してしまっている私に、成瀬君は何事もなかったかのように話しかける。
 さっきのは夢だったのかなと思うほど、彼は平然としているので、私もとりあえず言葉を返した。
『え! う、うん……。なんか、成瀬君は絶対受かるみたいな言い方だね……?』
「いや、俺は絶対受かるからな」
 同じ大学ではないけれど、成瀬君は北海道内で一番偏差値が高い大学を受験することになっている。私よりも受験の難易度は高いはずなのに、彼は余裕そうだ。
『す、すごい自信だね』
「はは、顔、赤い」
 また急に会話を遮られ、成瀬君に頬を撫でられた。キスをされたという事実はやっぱりあったのだと再認識し、ますます顔に熱が集まる。
 そんな私の頭をぽんと手を置いて、成瀬君は「じゃあまたあとでな」と言って立ち上がる。
『今日も第二グラウンド?』
「そうだけど、見るなよ。まだブランクあって遅ぇから」
『インターハイ予選、頑張って』
「サンキュー。あ、そうだ、これ渡しはぐってたやつ」
 その場を去ろうとした成瀬君が、もう一度こっちを振り返って、何やらリュックから本を取り出す。それは絶版になっていた芳賀義春先生の作品集だった。
「柚葵が持ってるのと、書いてあることだいたい同じだと思うけど」
『う、嬉しい……! これどの古本屋でも売ってなかったから』
「ていうか、柚葵が芳賀義春のこと知ってたの、奇跡に近いけどな。知ってないとあの伝言も受け取れなかったわけだし」
『うん、たしかに全部奇跡かも……』
 そう言うと、成瀬君は再び目を細めて静かに笑った。そして「じゃあまた」と言って、今度こそ去っていった。成瀬君の横を通り過ぎた新入生の集団が、「成瀬先輩だー!」騒いでいたけれど、彼はそれをサラッと無視して一階へと消えていったのだ。

 最後の美術室に入ると、絵の具の匂いがむわっと鼻孔をくすぐる。
 私はそっとイーゼルを窓際に用意してから、成瀬君が持ってきてくれた資料を開いた。