コートを羽織って屋上にたどり着くと、まず深く呼吸をした。白い吐息が視界の前に雲をつくる。
 柚葵の進歩に、記憶の操作は少しでも貢献できたのだろうか。だったらよかった。
 嬉しい気持ちと同時に、声を失った原因はやはり自分だったということが証明され、苦しい気持ちにもなる。
 記憶を消した甲斐があったと、思ってもいいのだろうか。自分の決断が正しかったと、もう、そう思っていいのだろうか。
 俺との記憶が抜けた彼女の脳内では、俺の存在はクラスメイトのモブってとこだろう。恐らく名前も覚えていないはずだ。こんな人いたっけ、という意識程度だろう。
 でも、それでいい。柚葵が、トラウマを忘れたことで、声を取り戻せたのなら。

「成瀬君」
 そう思っていると、“成瀬君”と、自分の名前を呼ぶ心の声が、突然聞こえてきた。
 ――いや、心の声じゃない。本当の、人の声だ。
 慌てて振り返ると、そこには予想外の声の主……柚葵がいた。
「は、なんで……俺の名前……」
 ありえない光景に、俺は絶句したまま、屋上のドアの前に立っている、白いコート姿のままの彼女を見つめる。
 柚葵が俺の名前を呼ぶ声を、今、生まれて初めて、聞いた。鈴の鳴るような、透明感のある声を。
 頭の中が、雪のように真っ白になって、思考が停止していく。
「な……るせ……くん」
「なんで、話せてんの……、まだ学校では無理だってさっき」
 どうして俺のことを追いかけてきたのか。
 どうして学校内なのに声が出せているのか。
 二重で驚く俺に、柚葵はゆっくりゆっくり話しだす。
「屋上なら……外だから……教室より……す、少しリラックスして話せるみたい……。まだ慣れてなくて……つっかえる感じがするけど」
「そうなの……か」
 とてもゆっくりだけれど、彼女は確かに話せている。外で話せる理由は分かったとしても、俺のことを追ってきた理由が分からない。記憶を消してから俺と柚葵は一度も関わっていないというのに。
 パニック状態になった俺は、思わず頭を抱える。
 そんな俺に、柚葵はさらに追い打ちをかけるように衝撃的なことを言い放ったのだ。
「わ、私……、忘れてないよ、成瀬君との、今までのこと……」
「は……? 何、言ってんの」
「忘れてない、全部覚えてる……」
 柚葵の記憶から俺の記憶はなくなっていない? どうして? 催眠術が効かなかったのか? いや、しっかり意識を集中して、以前と同じように行えたはずだ。