彼女……志倉(しくら)柚葵も、俺の顔を見たまま、驚いたように固まっている。
 彼女は、俺が胸の奥にしまっていた、“唯一”だった。
 もし明日死ぬと言われて、走ることと彼女のことを天秤にかけろと言われたら、俺は間違いなく彼女を選択するだろう。
 それほど、胸の奥にずっとずっと痞えていた存在。でもそれは、どこかの少女漫画のように、甘ったるい理由では決してない。もっとどろどろとした、扱いづらい感情だ。
 どうして今、こんなタイミングで再会するんだ。どうして、この学校の生徒になっているんだ。こんな偶然って、ありなのかよ、神様。
 ふと風が吹いて下に目をやると、何やら焦ったような心の声が流れてきた。
 真っ白なスケッチブックには、なぜか俺の走る姿が、素人目にも分かるくらい綺麗に、優しいタッチで、描かれていた。
 その絵を見た瞬間、信じられないことに、涙が溢れた。
「なんでだよ……」
 なんで、お前はこんな俺のことを、こんなに綺麗に描くんだよ。
 彼女は心の中で『絵を見られた、どうしよう』と慌てるだけで、俺のことには気づいていない様子だ。
 無理もない、昔の俺は、見た目も何もかも両親に管理されていたから。
 涙を流す俺を見て、彼女はただひたすら心の中で動揺の言葉を並べている。
 俺が分からないのか。そりゃ……、分かるわけないか。
 なあ、志倉。今目の前に、お前にとって一番憎い人間がいるんだぞ。
 ――お前のその声を奪った相手が、こんなにのうのうと生きてんだ。
 志倉が手に持っているそのバッグで、何度思い切り叩きつけても足りないくらいだ。
 まさかこんなタイミングで再会するだなんて……神様に、生きる理由という名目の、“贖罪”があるだろと言われているようだった。
 心を読んでも、志倉の心は驚くほど澄んでいて、怒りの感情なんて一ミリもない。
『はじめてこんなに近くで見たけど……綺麗な人』
 志倉のそんな心の声に、俺は何も言えなくなる。
 なんでだよ。綺麗なわけないだろ。
 お前が今、一番憎むべき相手が目の前にいるんだぞ。理由不明な涙が出てくる。
 混乱した俺は、そのまま逃げるようにその場を立ち去った。
 志倉の描いた俺の走る姿は、とてもまっすぐで、優しい絵だった。