「母さんから、勝手に慧の記憶を奪わないでっ」
「え……?」
 なんで、俺が今から記憶を消そうとしていたことを知っているんだ。
 思いがけないことが起こり、俺は茫然自失としたままその場に固まる。
 母親は俺を赤い目で睨んだまま、今まで一度も聞いたことのない憤った声で、俺を責める。
「慧が人の記憶を操作できることなんか、母さんとっくに知ってる」
「いつから……」
「どうだっていいでしょう、そんなこと!」
 怒りと同時に込み上げる涙を拭いもせず、母親は俺の手を握りしめる。
 その震えた手から、母親の怒りや悲しみの感情が土石流のように激しく流れ込んできて、俺はさらに動揺した。
 あの、いつも大人しい母親が、こんなにも激しい感情を抱くことがあるだなんて、知らなかった。
 俺の記憶を消せば、母親の苦しみは全てなくなるんじゃないのか。全部丸く収まるんじゃないのかよ。
「どうして、止めんだよ……」
 少しの苛立ちと、やるせない気持ちでそうこぼすと、母親は、再び俺の頬を叩こうとして振りかざした手を寸前で止めて、そのまま机の上に置く。そして、力なく机に額を押し付けて、こみあげる涙でひくひくと肩を震わせた。
「あなたを忘れて、良い人生なんて送れるわけない……」
「忘れたことすら忘れられるから、問題ない」
「頼りなくても、この世界にひとりくらい、慧の味方がいたっていいでしょう。味方でいさせてちょうだい……お願い」
 嘘偽りのない言葉が、水のように心にしみわたっていく。
 記憶を消そうとしていた右手を、母親が両手で強く強く握りしめている。
 机に額をつけた母親の細い首筋を茫然と見つめていると、どうしようもなく胸が痛くなった。
 たった今自らの手で断ち切ろうとした縁を、母親が泣きながら繋ぎとめてくれた。
 そんな簡単なことで、固い決意が粉々に打ち砕かれてしまった。
 もう、俺のことなんか誰も知らない場所で、今度こそ本当に透明人間のように、生きていこうと思っていたのに。
「なんだよ、それ……」
 なんだよ。なんでだよ。優しくなんかするな。情なんか持つな。
 人を傷つけてばっかりの俺なんかに、そんなものはいらない。いらないのに……。
「分かった。消さねぇよ……。でも、転校はするから」
 振り絞った声は、母親の手と同じくらい震えていた。