クラスの奴らはもうすっかり俺と柚葵の話題には飽きていたし、南からもあれから絡んできたりしない。
 もし何かが起きても、そいつの記憶を消せばいいだけのこと。
 鉛のように重たく感じる体を引きずって、あとは“転校”までの時間を過ごせばいい。
「慧、おはよう」
 振り返ると、そこには寝巻き姿の母親がいた。まだ全快ではなさそうな母親に、俺は目も合わせずに「まだ寝てればいいのに」とつぶやく。
「あんまりずっと寝てても体に悪いから。……それにしても、本当に受験前に転校する気でいるの?」
 俺の部屋の机に置きっぱなしにしていたはずの高校の資料が、バサッとダイニングテーブルに置かれた。
 いずれ自分から話すつもりでいたけれど、俺は高校三年生になったら北海道にある寮制度の高校に転校するつもりでいる。まさか母親に先に見つかるとは思っていなかったので、少しだけ動揺したが、俺は火を止めて顔色ひとつ変えずにダイニングチェアに座った。
「どうせ大学も北海道の予定だし、受験の移動も大変そうだから、今のうちに環境に慣れておこうと思って」
「そう……。本当に北海道へ行くのね。もう離婚するって決まったから、言いつけを守らなくてもいいのよ」
「いや、これは自分の意志だから」
「慧がいいなら、いいけど……」
 母親は心配した表情で向かい側の椅子に座ると、俺の顔をじっと見つめてきた。
 倒れた時よりはいくらか血色がよくなり、こけていた頬も少しだけふっくらとしている。
 ストレスが原因の体調不良だと聞いたけれど、ゆっくり回復に向かっているようで安心した。仕事のことも、なんとか信頼できる弁護士のおかげで、和解できそうらしい。
 よかった。これで心置きなく――忘れてもらうことができる。
「北海道って、遠いわね」
 高校のパンフレットをぱらぱらと開いて、少し寂しそうにつぶやく母親に、微かに胸が軋む。けれど、俺はある決意を持って、すっと椅子を立ち上がると、母親の額に手を差し伸べた。
「慧……?」
 これで、全部終わらせる。
 大切な人を全員解放してから、俺は北海道へ向かう。
 意識を一点に集中しようとすると、母親は予想外の行動を取った。
「何をしようとしてるの!」
 パシッと勢いよく頬を叩かれ、見ていた景色が一瞬で変わった。
 ゆっくりと顔を母親のほうへ視線を戻すと、母親は涙を流しながら、俺のことを見つめていた。