教室の端から、その小さな背中をいつももどかしい気持ちで眺めていた。
 透明人間になってしまいたいと願う柚葵のことが、どうしても許せなかった。
 だって、自分よりはるかに自由に見えたから。そんな身勝手な理由で、柚葵のことを傷つけた。
 なんて愚かだったんだろう。
 人の心が読めたって、人の心を測ることはできないのに。
「ごめんな……」
 絶対に忘れない。俺が、全部背負って、生きていくから。
 だから、神様、世界一大切なこの人に、声を戻してあげてください。
 その為なら、なんだってする。本当だ。心からそう思っている。
 俺の何を奪われてもいいから、もう柚葵から何も奪わないでください。
 この世界全部の優しさが、君に惜しみなく降り注ぎますように。
 それだけを願って、生きていく。
 
 指紋認証を使って、彼女のスマホから俺の情報をすべて削除しようとすると、あるメッセージ上で指が止まった。
 それは、芳賀義春の美術館に関する情報と、数枚の写真。
 つい最近彼女と交わした会話が、雪が降り積もるようにふわりふわりと降りてくる。
『成瀬君、あのね、ひとつお願いがあるの」
『ん?』
『いつか一緒に、芳賀先生の美術館に行きたいな』
『分かった。……必ず行こう』
 そこまで前の会話じゃないのに、どこか遠い国で交わした約束のように思える。
 守れない約束をして、ごめんな、柚葵。ごめん……。
 心の中で謝りながら、俺はすべてのメッセージを削除した。
 “必ず”なんて言葉を、あの時の俺はどうして使ってしまったんだろう。



 今年の冬は異常なほど早く訪れる予想になっていて、札幌や旭川では初雪が観測されたと、今朝のニュースで聞いた。
 この無駄に広い家では、誰もいない早朝のキッチンはとても肌寒い。
 俺は昨日の涙の跡をそのままに、ぼうっとした気持ちのまま、ただ目の前のやかんの水が沸騰する瞬間を待つ。
 昨日は、眠った柚葵を学校までタクシーで送り、体調が悪そうだったと適当に理由をつけて、校内の保険医に柚葵を任せた。
 家電に残されていた美園の番号を辿り、留守電に『もう柚葵とは一切関わらないので、俺の話題も出さないでほしい』と頼んだ。もし美園が俺の話題に触れたとしても、柚葵は俺のことを覚えていないので、何も話せない。美園も、その様子で何かを察して、それ以上俺のことは話題に出さないだろう。