■幸せになって side成瀬慧

『そっか……。じゃあ、仕方ないね……』
 そう言って、彼女はぼろぼろ大粒の涙をこぼして、無理に笑おうとした。
 その姿を見たら、自分の感情を押し殺していたストッパーが、完全に外れてしまった。
 ダメだ。集中しろ。強く念じないと、少しでも気の迷いがあると、失敗する。
 あと少し。彼女が目を閉じるまで――耐えろ。
「じゃあな、柚葵……」
 一点に気を集中させて、柚葵の中の記憶の破壊を念じた。
 誰かの記憶を操作することはこれで二回目だったけれど、久々すぎて手が震えていることに気づく。
 だんだんと目が映ろになっていく柚葵が、どさっと自分の胸に倒れこむと、一気に景色がゆがんだ。
 堪えていた涙が、とめどなくあふれ出てくる。
 まるで降りやまない雨のように、水滴が彼女の白い肌にぽつぽつと落ちていく。彼女の頬に落とされたその涙をそっと拭うけれど、何度拭っても濡れていく。
「柚葵っ……」
 全部、なかったことになった。
 この手で、彼女との記憶を、全部消したんだ。
 声を奪ってしまったことも、高校で再会したことも、文化祭で同じ班になったことも、絵のモデルになったことも、電話で思いを伝えあったことも、全部。
「うっ……」
 柚葵。ごめんな、好きになって。
 許されたいわけじゃなかったけど、近づいてごめん。そばにいたいと思ってごめん。
 俺と柚葵の世界は、混ざりあってはいけないと最初から分かっていたのに、どうして思いあがってしまったんだろう。
 俺じゃ、絶対に柚葵を幸せにできないと、分かっていたのに。
 柚葵は、どんな声で話すんだっけ。記憶の中の君の声は、とてもとても遠い。
 声を奪われていなかったら、柚葵はどんな高校生になって、どんな友達をつくっていたんだろう。
 “もしも”の未来が、何通りでも浮かんでくる。その都度、自分の罪の重さを知る。
 俺は、俺自身を許さないことでしか、君への償い方がもう分からない。
 そんな世界に、巻き込みたくない。柚葵には、もっと違う世界で、自由に生きてほしい。
 俺と一緒にいる限り、柚葵の世界には“過去”が纏わりついてしまうのだから。
 小学生の時の柚葵が、頭の中に浮かんでくる。
 いつもいつも自分の感情を押し殺して、必死にこの世界に溶け込もうとしていた柚葵。