昨年から両親は不安定な心境であることは分かっていたけれど、まさか昨日の放課後、突然部活を強制的に辞めさせられるよう、顧問に依頼しにきていただなんて――。
 今朝両親と顔を合わせたときに、言われなくてもすべてを悟った。両親も気まずそうな顔をしていた。
 インターハイ予選が始まる前に、強制的に辞めさせ、俺がこれ以上活躍して目立つのを阻止するために、俺が本当は心臓病だと嘘をついて無理やり辞めさせたようだった。
 走ることは俺の“唯一”だった。風と一体化する瞬間だけ、世界が美しく見えた。
 その“唯一”ですら、この奇妙な能力のせいで、奪い取られてしまうというのか。
 もう、両親に反抗する気力も、残っていなかった。
 幼い頃から父に何度も言われていた言葉が蘇る。
 『自分は透明人間だと思って、目立たず生きろ』
 『お前は普通じゃ無いのだから』
 それは、まるで呪いの言葉のように、自分の感情のすべてを殺してしまう。
 そしてついさっき、HRが終わると陸上部の顧問から呼び出され、『君の両親のお願いで、退部させなければならない。君のためだ』と説明された。
 俺が心臓病であるとすっかり信じ切った顧問は、練習中に何か起きたら学校の責任にされる、という両親の脅しを鵜呑みにし、すっかり保身に走っていて、笑えた。
 もう、何もかもどうでもいい。この先の人生、どうなったっていい。
 こんなに汚い感情に囲まれて、いったい何に希望を持って生きていけばいいと言うんだ。

 そうして、俺は今、顧問に『お世話になりました』と形式上の挨拶だけ済ませて、誰もいない放課後の廊下を歩いている。
 本当に透明人間になって消えてしまいたい、と今まで何度思ったことだろう。そんな能力を持っている人間がもしこの世にいたら、今すぐ取り換えてほしい。
 ふらふらと教室に向かっていると、何か廊下の先から心の声が聞こえてきた。
 こんな遅い時間帯に、まだ生徒がいたのか。
 驚いたのも束の間、心の声の相手は思ったよりも近くにいたようで、角を曲がった瞬間思い切りぶつかってしまった。それと同時に、バサッと音を立てて何かが下に落ちる。
 ――「悪い」、そう謝る前に、俺はぶつかった相手を見て、呼吸の仕方を忘れた。
 腰まで伸びた透明感のある細い髪の毛、太陽の光を一切浴びていないかのような真っ白な肌に、自信なさげに揺れる黒い瞳。