その日、青藍は用事が立て込み珍しく春麗の部屋に顔を出すことはなかった。ここ数日、毎晩のように眠っていたはずの春麗の臥牀には膨らみは一つだけだった。
 真夜中、燭台の灯りが突然消え、そして――。

「死ねっ!」

 突然響いたその声とともに、臥牀へ刃物が突き立てられた。
 肉を貫いたような感触に男は口角を上げ、そして春麗の部屋をあとにした。


 男は回廊を進むと、後宮の奥にある宮へと向かった。見張りは見知った顔だったのか、そのまま通り抜けると一番奥の部屋へと向かった。

珠蘭(しゅらん)様」
「……浩然か。お入り」
「はっ」

 開かれた扉の奥、臥牀に寝そべるのは先の皇帝の妻であり、現皇太后である(しゃ)珠蘭だった。
 浩然は部屋に入り頭を垂れる。そして息を一つ吐くと口を開いた。

「完了いたしました」
「そう。死体は?」
「そのままに。朝には侍女が見つけるかと」
「よくやった。ああ、違うか。これも全て死の皇帝のせい、だからね」

 珠蘭が妖艶な笑みを浮かべたその瞬間――部屋の扉が蹴破られた。

「なっ」
「やはり、黒幕はあなたでしたか」
「お前は……!」

 突然現れた青藍の姿に珠蘭は一瞬戸惑いを隠せなかった。けれど、すぐに怪訝そうな表情を浮かべ青藍を一瞥した。

「なぜこのようなところにあたながいるのです? ここはあなたの来るところではございませんよ」
「申し訳ございません、母上。私の従者を追いかけておりましたらこちらにたどり着いてしまいました」
「ああ、そう。ならその者を連れてさっさとお帰りなさい」
「いえ、そういうわけにはいかないのです」
「何?」

 珠蘭の言葉に、青藍は笑いながらそう言うと浩然を指さした。

「こやつは私の妃に害をなそうとしました」
「それならなおのこと早くお戻りになればよろしいかと」
「ですが、こいつが単独でそんなことをするとは思わずこうやって跡をつけたのです。きっと黒幕の元に報告に行くと思いましたので。その先が母上、あなたのところだったのです」
「はっ、なにを。まさか私がこやつに指示を出したとでも言うのです? それにしても妃が死んだというのに犯人を追いかけるとは。最近入った妃に入れ込んでいるという話を聞いてましたが結局、その程度だったのですね」

 珠蘭の言葉に、青藍は腹を抱えて笑った。その姿に、珠蘭は青藍を睨みつけた。

「何を笑っているのです」
「いえね、まさか母上の元にまでそんな話が届いているとは思わず。ですが、不思議ですね。私があれに入れ込んでいるのを知っているのは妃の侍女と――浩然ぐらいなのですが」
「……噂というのはどこにでも届くものですよ」
「そうかもしれませんね。ああ、そうだ。先程の話、一つ間違いがあるのです」
「間違い?」
「ええ。――妃は死んでなどいませんよ」
「なっ……!」

 青藍の背後から、春麗はひょこっと顔を出した、本当はこの場に来てはいけないと言われていたが、自分自身も命を狙われたのだから話を聞く権利がある、と無理矢理ついてきたのだ。
 青藍は「急に我が侭が増えたな」と笑っていたけれど止めることはなかった。離れるより、そばにいる方が守りやすいとそう思ったのかも知れない。

「……そうですか。ご無事で何より。ところで私はそろそろ休もうかと思います。その男を連れて下がりなさい」
「母上の元に報告に来たこの男を連れて行ってもよろしいのですね」
「ええ。私には縁もゆかりもない者ですから」
「……そうですか」

 青藍は悔しそうに顔を歪めた。その後ろで春麗も掌を握りしめる。証拠も何もなく、皇太后という立場の珠蘭を裁けないことはわかっていた。わかっていたからこそ自白をさせたかったのだ。全てがわかれば今まで青藍の周りで死んだ人たちが、青藍のせいではなく青藍のせいに見せかけたかった皇太后の仕業だということがはっきりしたから。 
 けれど、これでは……。

「わかりました。まあ黒幕がいるとすればこいつが全てを吐いてくれることでしょう」

 青藍は珠蘭にそう告げると、浩然の手に縄をかけた。
 そうだ、あとは浩然が全てを話してくれれば。そして何か皇太后に繋がる証拠が見つかればなんとかなるかもしれない。

(……え?)

 青藍が浩然を連れ珠蘭に背を向けたその瞬間、浩然の顔にどす黒い文字で『他殺』と浮かび上がったのが見えた。その言葉の意味を考えるのと春麗の身体が動くのは同時だった。
 そして――。

「春麗!」

 痛みなのか熱さなのかわからない衝撃が春麗の腹に走り、薄れゆく意識の向こうで青藍が自分の名前を叫ぶのが聞こえた気がした。


 春麗が目覚めたのは、それから三日程経ってからだった。真っ赤に目を腫らした佳蓉が春麗のそばでずっと泣き続けていた。

「しゅん、れ……い様……」
「ごめんね、心配かけて」
「本当……ですよ……」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭ってやると、佳蓉は怒ったように笑っていた。

「それで、どうなったの?
「……皇太后様のことですね」
「うん」

 佳蓉は少し悩んだような表情を浮かべてから、話し始めた。
 珠蘭は自分の関与が発覚するのを恐れ、浩然の口を封じるために刃物で刺そうとしたらしい。

(それであのとき『他殺』って……)

「ですがその刃物には毒が塗ってあったようで……。春麗様はその毒の制で三日三晩眠り続けていらっしゃいました」
「そうだったの……。それで浩然は」
「春麗様のおかげで怪我はなく。皇太后様に殺されそうになったことで今までのことも全て話す気になったそうです」

 珠蘭は自分の息子である(りゅう)蒼晴(そうせい)を次期皇帝にするために青藍の周りの人間を一人また一人と手にかけていたらしい。その下手人が浩然だったそうだ。

「それで……」
 
 通りで他の人間が死んでいく中、浩然一人生きていたはずだ。そうやって自分一人が青藍のそばにいられるようにして信頼を得、周りの人間を削いでいく。
 結果、青藍は一人になり併せて流した噂のせいで誰も青藍に近づかなくなる。そんな中、形だけだった春麗に青藍が興味を持つようになり、夜も友にするようになった。二人の間に何もないことは本人達にしかわからない。毎晩のように春麗の元に通う姿を見て珠蘭は不安になったのだろう。子どもができれば自分の子である蒼晴が皇帝となれる可能性はぐっと低くなるのだから。

「でも春麗様のおかげで全ては解決したようです。実家に戻ってらした他の妃嬪も戻ってこられるようですし」
「……そう」

 後宮に人が戻ってくる。それはきっと青藍にとってはいいことだ。死の皇帝なんていう不名誉な二つ名が払拭されたのだから。
 けれど、春麗の胸には重く苦しいものがのしかかる。自分一人しかいなかったから青藍は春麗のことを気にかけてくれた。けれど……。

「大丈夫ですよ」
「え?」
「他の方々が戻っていらしたとしても主上の春麗様への想いは変わらないに決まっております」
「そう、かしら」
「ええ、きっとそうです」

 胸を張る佳蓉に、春麗は曖昧に微笑んだ。
 そして、その不安が現実のものとなるのはそう遠い日ではなかった。


 数日のうちに、後宮の中は騒がしくなった。戻ってくる妃嬪に先駆けて従者や侍女が後宮へと上がり、掃除などを始めたからだ。
 そんな中、春麗は一人だった。あの日から青藍は一度も春麗の元を訪れることはなかった。日に一度、体調に変わりはないかという確認が従者を通じて入るけれど、青藍本人が来てくれることはない。
 佳蓉曰く「色々な後処理で忙しい」らしい。
 けれど、春麗はなんとなくこのまま存在をなかったことにされてしまうのではないかと思っていた。
 死の皇帝の噂が嘘だったことがわかれば、空席となっている妃嬪の座に娘をつかせたい親はいくらでもいるだろう。自身が上がりたいと望む娘も多いはずだ。

(もう私は……用なし、なのかな)

「春麗様……」
「あ……」

 気づけば春麗の頬を涙が伝っていた。
 不安そうに春麗を見る佳蓉になんとか微笑もうとする。けれど、笑おうとすればするほど、涙が溢れてくる。

「ふっ……うっ……うぅっ……」

 結局、泣き止むことができたのはしばらく経ってからだった。その間、佳蓉はずっとそばにいてくれた。
 泣きはらした目に濡れた手巾を当ててくれる。

「ありがとう……」
「いえ……。何か冷たい飲み物でも入れましょうか」
「そう……ね。お願いしてもいい?」
「ええ! ……あら?」

 扉を開けた佳蓉は何かに気づいたのか思わず声を上げた。

「佳蓉?」
「春麗様! 主上が、春麗様をお呼びとのことです!」
「え?」

 春麗は慌てて目の腫れを化粧で隠し、指定された謁見の間へと向かった。
 そこには久しぶりに見る青藍と――そしてもう二度と見たくなかった顔が並んでいた。

「お父様……それに……花琳……」

 椅子に座る青藍から少し離れた場所に、床に座った俊明と花琳の姿があった。春麗は動揺を必死に隠すと、青藍のすぐそばに用意されていた椅子に腰掛けた。
 そんな春麗の姿を花琳は怖いぐらいの笑みで見つめていた。

「それで、本日の要件とは」
「はい。我々は謝りたいことがございまして参りました」
「ほお? 謝りたいことと」

 俊明の言葉に、春麗は胸が高鳴るのを感じた。

(もしかして……)

 もしかして、今までの春麗にしてきた仕打ちを謝ってくれるのではないか、ようやく家族の一員だと認めてくれるのではないか。
 もしそうだとしても、きっとそれは春麗のことを思って、というよりは家とそしてこれからの政治的なことのためだろう。けれど、それでもよかった。それでも春麗は俊明に娘として、そして花琳に姉と思ってもらいたかった。
 けれどそんな春麗の想いは一瞬で打ち砕かれた。

「はい。主上には大変申し訳ないことを致しました」
「私に?」
「そうでございます。手違いかその者が仕組んだのか、本来後宮に上がるのはこの花琳の予定だったのです」
「な……」

 春麗は一瞬、何を言われているのか理解できなかった。

(私が、仕組んだ? 手違い? なんのこと?)

「その者は呪われた子。このようなところに出せるような子ではございません。出来損ないの下女以下の者にございます。陛下の妃となれるような者ではないのです」
「ふむ」
「主上、お初にお目にかかります。私が楊俊明の娘、花琳でございます。本来でしたら私が後宮に上がるところを、姉が……私を無理矢理閉じ込め自分が……。呪われたくなければ大人しくしていろと言われ……。ですがずっとお慕いしておりました」

 花琳は同情を引くように青藍へと話し始めた。あっけにとられる春麗とは裏腹に、涙まで流し始める。
 周りに控えていた侍従たちは気の毒そうに花琳を見つめていた。

「つきましては、主上。その娘の処分は私どもにお任せ頂き、改めて花琳を後宮に上がらせて頂ければと思うのですがいかがでしょうか」
「待って! そんなの、私!」
「お前は黙っていろ」

 思わず口を挟んだ春麗の言葉を、俊明は厳しい口調で遮った。その口調に、春麗は何も言えなくなってしまう。
 ずっとずっとこの口調に怯え続けてきた。そしてきっとこれからも。
 これまでが夢のような日々だったのだ。それが現実に戻るだけ。仕方がない。そう、仕方がないのだ。

(きっと主上も花琳を選ぶ。私なんて……)
 
「……話はわかった」

(ほら、ね……)

 青藍の言葉に、春麗は俯き必死に涙を堪えた。そんな春麗とは裏腹に、俊明は嬉々とした声を上げた。
 
「では――!」
「お前はどうしたい?」
「え……?」

 その言葉は、そして青藍の視線は春麗に向けられていた。

「この者達曰く、お前がここにいるのは間違いだと言う。それでお前はどうしたいのだ」
「わた……し……」
「主上、その者の言うことなど……」
「私は春麗に聞いておるのだ。それとも何か。お前は私の問に答えさせないつもりか」
「い、いえ。そういうわけでは……。春麗、早く答えなさい。お前は家に戻る。それでいいだろう?」

 笑顔を浮かべているが、俊明のその目は一切笑っていなかった。春麗に「わかっているだろうな」とでも言うかのような視線で睨みつけていた。

(このまま、後宮から追い出されてまた家に戻るの……? もう二度と、主上と会えずまたあの日々に……)

  わかっている。自分ではなく花琳の方が妃という立場にふさわしいことも、青藍の隣に経つべきなのも。
 なのに、なのに……。

「わた……しは……」

 俯いたままだった春麗は、顔を上げた。金色の目で、前を見据えて。

「私は、ここにいたいです」
「お前……!」
「お姉様!? 何をふざけたことを!」

 春麗の言葉に、俊明と花琳は憤る。けれど、そんな二人に見向きもせず、青藍は椅子から立ち上がると、春麗の方へと向かった。
 そしてその身体を逞しい腕で抱きしめた。

「きゃっ」
「よく言った」
「主上……?」
「と、いうことだ」
「主上! ですが!」
「うるさい」

 食い下がろうとする俊明を青藍は一喝すると、侍従に視線を向け俊明たちを押さえつけた。

「私はこれがいいと言っているのだ。まだ何かあるのか」
「主上……!」
「返れ。そなたらが今までこれに何をしてきたか、私が知らぬとでも思っているのか。本当であれば相応の処罰をすることもできるのだ」
「ひっ」
「だがこれがそれを望まん。だから金輪際、私や春麗の前に姿を見せるな。それがそなたらへの罰だ。……連れて行け」

 引きずられるようにして俊明と花琳は姿を消した。
 そして残ったのは、青藍と春麗の二人だけ。

「主上……わた、私……」
「ん?」
「私……ここにいても……いいのですか?」
「お前は私の妃だろう? 私のそば以外、どこに行くというのだ」

 青藍は春麗を抱きしめる腕に力を込めた。もう離さないとでもいうかのように。
 そのぬくもりは目覚めてからずっと春麗が欲しくて欲しくてたまらなかったものだった。

「ずっと……会いに来てくださらなかったから……もう、私……」
「ああ、事後処理が立て込んでいてな。やっと全て片付いた」
「では……」
「今日はもうこの謁見以外全て断った。このあとはずっとお前と一緒だ」
「主上……」
「早く春麗の部屋に行こう。今日はお前の隣で眠りたい。いや、今日だけじゃない。これからずっとだ」

 春麗の身体を抱きしめ直すと、青藍は春麗に口づけた。
 まるで壊れ物のように優しく抱きしめてくれるる青藍のぬくもりは、あたたかくて優しくて、幸せなぬくもりだった。

「では行くぞ」

 春麗は青藍に連れられるまま回廊を歩く。けれど向かう先は、春麗の部屋ではなかった。

「あ、あの……」
「全てが片付いたと申しただろう」

 たどり着いたのは日桜宮と対をなす、皇后のための宮殿、月桜宮だった。
 その扉を開けると、青藍はそっと春麗の背を押した。

「これからはここがお前の居場所だ」
「私、の……」
「どうした?」

 青藍の言葉に、春麗は小さく首を振った。

「違います」
「違う?」
「はい、私の居場所はここではありません」
「では、どこだと言うのだ」
「主上の――隣です」

 春麗の言葉に、青藍は満足そうに笑う。その隣で、春麗も恥ずかしそうに微笑むと一歩を踏み出した。この部屋の主となるために。



 これは呪われた目を持ち、家族にすら疎まれ虐げられ続けた少女が、死の皇帝を愛し、愛され、誰よりも幸せな皇后となるための物語――。