六畳ほどの小さな部屋には窓はなく、室内は薄暗い。部屋には小さく足のかけた小卓(つくえ)と薄く粗末な衾褥(ふとん)、それに部屋には不釣り合いな鏡が一つあるだけだった。鏡には十八にしては幼い顔立ちで煤け頬が痩けた少女が映っていた。ただその目は一際輝きを放っていた。

(忌々しい目……。こんな鏡もなければいいのに)

 自分自身の姿に嘆息をもらす。それでも(よう)春麗(しゅんれい)にとってここは唯一自分一人になれる空間だった。
 外が騒がしくなり、春麗は諦めたように卓の上に置いた麻布に手を伸ばした。それを目に当てると頭の後ろで固く結ぶ。辺りが見えないことを確認して、春蘭は扉を開けた。
 他の使用人達に混ざり春蘭は朝餉の支度をする。誰もここに春蘭がいることを不思議に思わない。それどころかここにいるのが当たり前だとさ思っている。例え春麗の出自を知っていたとしても。

「皇帝陛下が……」
「まあ恐ろしい……」

 噂話をする下女を尻目に、春麗は用意されていた朝餉の膳を手に取った。自分が食べるためではなく、運ぶために。
 
「失礼します」
 
 朝餉の載った膳を持ち、頭を垂れて部屋に入る。そこには父と義母、そして義妹の姿があった。まるで目が見えているかのように膳を運ぶ春麗に、父である楊俊明(しゅんみん)は訝しげに口を開いた。
 
「おい春麗」
「はい」
「本当は見えているのではないか?」
「いえ、私には何も見えておりません」
 
 そのやりとりを聞いた義妹の花琳(かりん)は嬉しそうに笑った。
 
「ではお父様、私が確かめて差し上げますわ」
 
 そう言ったかと思うと、花梨は椀に入った湯菜(しるもの)のを春麗へと投げつけた。
 瞬間、避けそうになるのを春蘭は必死に堪えた。避ければ本当はこちらが見えているだろうと余計に疑われることを知っていたから。
 熱々の汁は春麗の顔にかかり、辺りにも飛び散った。空になった椀は床を転がっていく。それを見て満足そうに頷く俊明と嘲笑う花琳の姿がそこにはあった。
 
「ああ、汚い。春麗、さっさとそれを拭きなさい」
「……はい」
 
 義母である白露(はくろ)の言葉に春麗は手巾(てぬぐい)を取ると床を必死で拭う。その間も、湯菜をかけられたところが酷く痛んだ。必死に声を押し殺す。一声でも上げればさらに罵倒されるのはわかっていたから。
「下がれ」という俊明の声に春麗は頭を下げ部屋を出た。そのまま裏の井戸へと向かい桶に水を汲むと何度も顔を洗った。ヒリヒリとしてはいるが水ぶくれにはなっていないようだった。
 
「ふっ……くっ……」
 
 頬を流れるのは水なのか涙なのかわからない。ただこれが春麗にとっての日常で、そして終わりのない地獄だった。
 麻布にも湯菜がかかってしまっているがここでこれを外すことはできない。
 春麗は急いで自室へと戻った。固く結んだそれを外すと、春麗の金色の目が開く。この目を父もそして義母も恐れているのだ。
 
「こんな目、なければよかったのに」
 
 呟く春麗の耳に、誰かの足音が聞こえた。慌てて近くにあった別の麻布を目に当てるのと同時に戸が開かれた。
 
「お姉様」
「花琳……」
「ようやく見つけましたわ」

 朝餉はもう終わったのだろうか。それに見つけたということは春麗を探していた……? まさか湯菜をかけるだけでは足りなかったとでも?
 春麗はこれから何をされるのかという恐怖で身を縮めた。そんな春麗を楽しげに見下ろしたあと、花琳は手に持った手巾を差し出した。手巾には何かが入っているのか膨らんで見えた。

「――差し上げますわ」
「え……?」

 どういう風の吹き回しだろう。そう思いつつも手ぬぐいを受け取ると中には蒸したてだろう、湯気が立つ饅頭があった。春麗は唾を飲む。今日はまだ何も食べておらず、いい匂いのする饅頭に腹の音が鳴るのがわかった。

「い、いの?」
「ええ。私、お姉様に今までしてきたことを悔いているのです。先程だってあのようなこと私はしたくなかったのですがお母様の手前……。お姉様、私を恨んでらっしゃいますか?」
「そんな……ことは……」
「ああ、嬉しい。さすがお姉様ですわ。さあ、召し上がってください。冷めないうちに」
「あ……あぁ……」

 春麗は花琳の言葉に涙を流しながら頷くと、饅頭にかぶりついた。今の春麗を見て誰が良家の令嬢だと思うだろうか。そんなことが頭を過ったけれど、今はどうでもよかった。口の中に広がる肉の味、熱さ、そして舌が痺れるような感覚――。

「ぐっ……かはっ」

 強烈な吐き気に春麗は口に含んだ饅頭を吐き出した。嗚咽(おえつ)嘔吐(えづ)く音だけが狭い部屋に響く。胃液のようなものも同時に出たようで部屋の中には酸っぱい匂いが漂っていた。
 そんな春麗をまるで汚いものでも見るかのように花琳は一瞥した。

「あら、生きているのですね」
「か……り……ゲホッ」
「ああ、汚い。致死性が高いなんて言っていたけれど嘘だったのね。こんなものまで用意して損したわ」

 花琳のその一言に春麗は言葉を失った。

(致死性が高い? まさか毒が入っていたというのだろうか。そんな……)
 
 信じられなくて、信じたくなくて春麗は必死に顔を上げる。けれどそんな春麗を見下ろすと花琳は声を上げて嘲笑った。

「まさか、信じられないって顔をしているわね。馬鹿ね、これで何回目だと思っているの? 私があなたなんかに施すわけないでしょ。いい加減気づきなさいよ」

 鼻で笑うと花琳は部屋を出て行く。残されたのは春麗一人。汚れてしまった床を片付けなければ。そう思うけれどうまく身体が動かない。必死にもがくうちに固く結んだはずの麻布が取れ吐瀉物の中に沈んだ。
 前にもこういうことがあった。あのときは高熱が出て三日三晩寝込んだ春麗に「まだ死んでいなかったの」と花琳が言ったのを覚えている。
 疎まれていることは知っている。けれどそれでももしかしたらと期待してしまうのだ。今度こそ思い直して自分を受け入れようとしてくれているのではないか、と。そんなことあるわけがないのに。
 春麗は震える手で自分の瞳に触れた。呪われた金色の目に。
 春麗の瞳は父とも母とも異なる色をしていた。唯一、母方の曾祖母に春麗と同じく金色の目をしている者がいたらしい。そうでなければ春麗の母は貫通を疑われていただろう。いや、疑ってなどいないと口では言いながらも腹の内ではそうは思っていなかったのだ。
 春麗の父である俊明は自分とは似ても似つかぬ顔立ち、そして違う国の血でも混じっているかのような目を持つ春麗を疎んだ。そして不義の子を産んだと思い込み、秀麗の母であり、自らの妻である鈴玉(りんぎょく)を事故に見せかけて殺した。
 妹の花琳は後妻として入った白露の産んだ子だった。
 俊明によく似た花琳を可愛がり、そしてさらに春麗を疎むようになった。それならいっそ殺してくれれば、そう思うこともあったが俊明達は決して春麗を殺さなかった。いや、殺せなかった。それも春麗が持つ金色の目のせいであった。

「こんな目、なければよかったのに……」

 いっそのこと自分の手で抉り取ってしまいたかった。この呪われた金色の目を。
 この目が呪われていることに最初に気づいたのは今は亡き鈴玉だった。
 春麗が使用人の男を指さしてこう言うのを聞いたそうだ。

「あの人、もうすぐ病気で死んじゃう」

 それまで目の色は違うが、それでも楊家の一人娘ということで可愛がられていた。俊明も周りの手前、自分の娘だとそういう扱いをしていた。けれど、その使用人が死に、その後も似たようなことが続いたとき、誰かが言った。「呪われた目を持つ呪われた子だ」「その目に映されたものは死の宣告を受ける」と。
 実際、春麗の目には死が見えていた。ただそれは周りの言うようなものではなくその人の顔に書かれていたのだ。『病死』と。幼い春麗はただそれを読み上げただけだった。それがどんなことになるとも知らず。
 呪われた子を殺せばどんなことがあるかわからない。かといって、これ以上死の宣告をされるのはたまったものじゃない。そこで俊明は屋敷の離れに春麗を押し込んだ。誰の目にも触れさせぬよう、そして誰もその目に映させぬよう。春麗から母を奪い、綺麗な襦裙(きもの)を取り上げ、目を開けることを禁止した。許されたのは襤褸(ぼろのきもの)を纏うこと、そして目を隠し下女として生きることのみ。そんな生活を10年以上続けていた。あれ以来、周りの者も春麗を恐れていたけれど、春麗もまた怖かった。また誰かの死を見てしまうことが。

「いっそ殺してくれればいいのに」

 義妹である花琳は春麗のことを壊れてもいい玩具か何かだと思っているのか、時折ああやって食べ物を持ってやってくる。そして春麗の姿を見て嘲笑うのだ。なら食べなければいいと思うかもしれないが、食べなければ食べないで口を無理矢理開かされ、そして呼吸ができぬほど押し込まれる。
 ただ、それ以上に、春麗は縋ってしまうのかもしれない。もしかしたら今度こそ自分を受け入れてくれたのではないか、と。

「そんなことあるわけないのに」

 人を怖がるくせに心の奥底では人を求めてしまう。そんな自分が情けなくてみっともなくて、苦しい。苦しくて切なくて悔しくて仕方がない。
 思考が上手く回らないのは花琳に盛られた毒の制だろうか。落ち着かない呼吸に額からは脂汗。楽になりたい一心で、春麗は意識を手放した。
 こんな生活はもう嫌だ。逃げ出してしまいたい。けれど逃げ出す場所なんてどこにもない。死ぬまでこの場所で飼い殺されるだけ。そんな自分の人生に、一筋の涙を流しながら。


 春麗が目覚めたのは、とっくに日が落ちた頃だった。舌の痺れが治まっているところをみると大事には至らなかったようだった。春麗はホッと息を吐く。
 最初の頃は酷かった。花琳を信じ切って喜びそして食べきってしまったものだから、身体の中から毒が抜けきるまで三日三晩死地をさまよった。あのときばかりは本当に死ぬかと思った。と、言えば嘘になる。
 衾褥のそばの小卓に置いた鏡を見て自分が死ぬことはないと春麗は気づいていた。こんなに苦しくても死ねないのだと。
  暗闇の中、春麗は床の吐瀉物を片付けると戸を開けた。そこには冷えた、夕食というには粗末な包子が一つ。それを部屋の中に入れると、春麗は庭へと向かった。
 屋敷の隅にある井戸で水を汲み髪を、そして身体を洗う。風呂になんて入らせてもらえるわけがない。ここを使っているのだって見つかれば咎められる。そのため、普段は家人が寝静まったあとに身体を洗っていたのだけれど今日ばかりはそうはいかなかった。自分の吐瀉物で汚れてしまった身体を必死に洗う。暖かい季節にはほど遠く、指先が凍るような水で身体を洗うのは惨めで哀れだった。
 匂いは気になるもののようやく身体の汚れを落とし終わり、春麗は誰にも気づかれないように自室へと戻った。
 過廊(わたりろうか)の向こうにある母屋では楽しそうな声が聞こえてくる。
 けれど春麗には関係のないことだった。誰も呼びに来ないということはもう今日の仕事は終わりなのだろう。
 冷めてしまった包子をかじり、そして再び眠りについた。明日は今日よりもいい日であることを願って。


 饅頭の一件から数日が経った。この数日は花琳が何か仕掛けてくることもなく、春麗は平和に過ごしていた。このまま何事もなく日々が過ぎ去って欲しい。そう願う春麗の想いも空しく、騒がしい声とともに部屋の戸が開かれた。

「春麗様」
「……なに、か」

 そこにいたのは芙蓉(ふよう)という古くからこの屋敷に仕える侍女だ。蔑むような視線に春蘭は俯いた。この芙蓉は春麗の母である鈴玉を嫌っていた。そしてその子である春麗のことも。
 休んでいることを咎められるのか。けれど今は特に仕事もないはずだし。そんなことを考えていると芙蓉は冷たい声で告げた。

「旦那様がお呼びです」
「お父、様が?」

 何かの聞き間違えだろうかと春麗は思わず確認する。けれど芙蓉はそれ以上何も言わず真新しい麻布を差し出した。

「これを目に」
「すでに巻いているのがありますが……」
「もう一枚、とのお達しです」
「……わかりました」

 手渡された麻布を今巻いているものの上から巻く。元々見えることはなかったけれど、闇が一層深くなったような気がした。
 芙蓉は無言で春麗の背後に回ると、力を込めキツく縛り直した。瞼に食い込む麻布があまりに痛くて思わず声が漏れた。
 ズレないことを確認すると芙蓉はついてこいとばかりに先を歩く。春麗は芙蓉に連れられるままに母屋へと向かった。
 仕事以外で母屋に足を踏み入れるのは何年ぶりだろうか。そんなことを考えていると芙蓉は奥の部屋の前で立ち止まった。そこは確かに春麗の父の部屋だった。

「連れてきました」
「入れ」

 春明の声に春麗は背筋が震えるのを感じた。部屋に入ると父の前に座り春麗は頭を下げた。決して父の顔を見てはいけない。それは幼い頃から言われ続けたことだった。今は麻布で隠れているとは言え人の死を映す金色の目。万が一にも俊明の死を宣告するようなことがあってはいけない、と。
 頭を下げたままでいる春麗に俊明は冷たい声で言った。

「お前の輿入れが決まった」
「え……?」

 思わず顔を上げそうになるのを必死に堪えた。
 
(今、父は輿入れと言ったの? 誰の? 私の?)

 呆然とする春麗に俊明は淡々と告げる。

「三日後、迎えの者が来る。その日までにその汚い身体をなんとかしておけ」
「お、お父様!」
「話はそれだけだ。連れて行け」
「あっ」

 芙蓉は春麗の腕を掴み、引きずるように部屋をあとにした。春麗は何が何だかわからず、俊明から言われた言葉を反芻する。
 輿入れ、ということは結婚である。どこの誰に嫁がされるのかもわからないがこの目のことを知っていて結婚するというのだろうか。そんなことがあるのだろうか。
 答えのない問が春麗の頭の中で次々と浮かび上がる。
 それでももしかしたら、もしかしたら、と僅かな希望に縋ってしまうのだ。そんな希望などすぐに打ち砕かれるというのに。
 いつぶりだろうか、風呂に入り身体を流す。井戸の水で洗っていただけでは落ちきれなかった汚れが黒い水となって流れていった。
 風呂を出るといつもの襤褸ではなく真新しい襦裙が用意されていた。本当にこれを着てもいいのかと躊躇った。けれど今まで来ていた襤褸はいつの間にか片付けられていたので恐る恐る袖を通した。幼い頃着ていた襦裙を思い出させるような肌触りに

「あら、綺麗になりましたね」
「…花琳」
「まるでどこかいいところの娘のようよ。ああ、売女の娘だけれどお父様のおかげで出自だけはよかったわね」
「お母様を悪く言わないで!」
「おお、怖い。腰入りが決まったからって偉そうな口きくじゃない。その分じゃあ、自分がどこに嫁入りするか知らないようね」

 花琳は形のいい唇を意地悪く歪めた。

「花琳は何か知ってるっていうの……?」
「ええ。知りたい?」
「知り、たい」
「それが人に乞う態度?」

 花琳が春麗の為になることを言うことはない。そうわかってはいても、花琳の他に教えてくれる人もいない。春麗は縋るような気持ちで跪き花琳に頭を垂れた。

「教えて、ください」
「うふふ、惨めですね。誰にも相手にされない女って。でも、いいですわ。教えてさしあげる。お姉様が嫁ぐのは死の皇太子、いいえ。先帝が身罷られたから今は死の皇帝陛下。(りゅう)青藍(せいらん)様よ」
「皇帝、陛下……? 嘘……」
「ふふ、その様子じゃあお姉様も知ってらっしゃるみたいね。どうして死の皇帝陛下と呼ばれているか」

 その噂は下女として働いている春蘭の耳にも届いていた。けれど噂というのは尾ひれがつく。これもその類いの物だと思っていた。けれど。
 
「せっかくだから教えてあげる。新帝陛下の周りの人間はみんな死ぬの。母后、侍従、そして今度は先帝も……。あのお方は呪われてるのよ。ああ、死の目を持つあんたと似てるわね。あんたが妃となれば我が家には皇帝陛下との繋がりができる。皇帝陛下の呪いで死んでくれれば厄介払いもできる。ね、完璧でしょう?」

 花琳の口から紡がれる恐ろしい言葉に、春麗の手は震えていた。そんな春麗の姿に気分をよくしたのか花琳は楽しそうに笑った。

「まさか自分がどこかの旦那様に見初められたとでも思ってたの? そんな物好きいるはずがないでしょう? 代替わり直後とはいえ後宮に揃えられた妃が相次いで亡くなり、そんな状況に自分の娘を置いておけないと残っていた妃の大半が実家へ戻ってしまったってて話よ」
「それじゃあ後宮は……」
「行き場のない下働きの下女ばかりね。そんなの外聞が悪いからどこかの家が娘を出すってなったときにお父様が真っ先にお姉様を推したのよ。呪いなんて気にしないって言ってたけどみんなわかってるわ。うちの娘なら死んでも構わないからって思ってるってね」
「そん……な……」
「お姉様が死ぬところを見られないのは残念ですが、さっさと死んで我が家にいい知らせを届けてくださいね。うふふ、楽しみだわ」

 高笑いとともに花琳は春麗の部屋を出て行く。残された春麗は知らされた事実に愕然とする。
 けれど、春麗は抗う術を持たない。それに、このままこの部屋で一生を終えるのも後宮に入り、皇帝の呪いで死ぬのも大差ないのかも知れない。
 どこであろうと春麗が望まれぬ子であることに変わりはないのだから。
 俊明の話から三日後、春麗は今まで着たことのないような豪華な襦裙を身に纏い、後宮へと向かった。見送りには誰も来ず、荷物も小さな風呂敷が一つあるのみ。これには迎えに来た侍従も驚いていたが春麗は気にならなかった。
 目を隠すための麻布は屋敷を出るときに外すよう俊明から命じられていた。
 不安を抱えたまま麻布を外し、そして俯いたまま後宮へと上がることとなった。春麗はせめてと、前髪をなるべく前に下ろした。目が隠れるように。
 後宮では春麗がいた物置のような部屋と比べることが失礼なほど広い部屋が与えられ、侍女もつけられた。
 食事もきちんと出る。咎める者もいない。生まれて初めて、春麗はこんなにも平和な日々を過ごした。けれど春麗の気が休まることはなかった。いつ皇帝陛下から呼び出されるか、そればかりが気がかりだった。
 花琳や屋敷の侍女たちの言うことがどこまで本当かはわからない。けれど、後宮だというのに人気(ひとけ)がなく、寒々とした空気が流れている。何かあると言われても仕方ないのかも知れない。
 ただ……。
 
(誰も死にそうな人はいない、よね)

 春麗は侍女やここまで案内してくれた宦官の姿を思い出す。見ようと思ったわけではない。けれど必要に駆られ顔を上げた際に見たその顔には死の文字は出ていなかった。花琳は妃が次々と死んだと言っていたし周りの人間も同様だと言っていたからもっと死相が蔓延しているのかと思っていたけれど。
 それとも皇帝陛下に近づかなければ大丈夫ということなのだろうか。
 春麗に与えられた部屋は後宮の奥にある一室だった。皇帝陛下の日桜宮からは随分と遠い場所にある。皇后となるのであればそれ相応の部屋が用意されても不思議ではない。なのになぜか。答えは簡単だ。誰も春麗が本当の皇后となるとは思っていない。ただそこに皇后となる妃がいるというだけでいい。なので死んでしまう春麗を皇后の部屋に入れることを嫌ったのだ。穢れがついてしまうから。そのせいで、未だに春麗は後宮における位すら与えられていなかった。
 とはいえ、今の春麗に死相はない。今までいたたくさんの妃は死んだというのに。
 真相はわからない。けれど死ねるのならそれはそれでよかった。こんな目を持って生きていてもそこに幸せなどありはしないのだから。
 そんなことを思いながら後宮で過ごして早10日。どれだけ待っても皇帝陛下からの呼び出しはないままだった。
 さすがにご挨拶ぐらいしなくてもいいのだろうかと思うけれど、侍女に尋ねてみても「この部屋でお過ごしください」と言われるだけだった。
 そんな生活をしばらく続けていた春麗に、ある日侍女の(しゅう)佳蓉(かよう)が声をかけた。
 本来であれば屋敷から侍女を連れてくることもできた。けれど誰も春麗に付き従いたくなかったこと、何より春麗へ何かを与えることを嫌った白露の意向で後宮に残っていた下級貴族の娘である佳蓉を侍女とすることになった。
 けれどこれは春麗にとって居心地の悪いものだった。佳蓉は春麗を妃として扱う。まるでどこかの令嬢のように扱われることに未だになれずそして戸惑うばかりだった。

「春麗様、少し外に出てみませんか?」
「いいの、ですか?」
「ええ。ようやく許可が下りました。それから何度もお伝えしましたが私に敬語はおやめください」
「あ、えっと……わかった、わ」

 躊躇いながらも春麗は頷く。そもそも人とこんなふうに誰かと長時間一緒にいる、ということが春麗にとっては十数年ぶりのことなのだ。戸惑い緊張するなと言う方が無理だ。
 佳蓉は春麗の身支度を調えると、与えられた部屋の扉を開けた。
 その花々に、思わず春麗は顔を上げた。
 後宮に上がったその日も思ったけれど、庭にはたくさんの花が咲き誇っていた。春麗の屋敷にも手入れされた花がたくさんあったはずだ。春麗が見たことがあるのは井戸の周りだけだがそれでも数え切れないほどの花があった。が、今の時期はどこか殺風景だった。それなのにここは。

「綺麗……。あれはなんという花ですか? ……花、なの?」
蝋梅(ろうばい)でございます」

 教えられた花の名を口の中で何度か呟くと春麗は微笑んだ。花を見て綺麗だと思うこともその花の名を知りたいと思うことも初めてだった。
 それと同時に自分自身がこんなことを思っていいのかという不安に襲われる、呪われた目を持つ自分がこんな風に何かに心を動かされることがあってもいいのだろうか、と。

「春麗様?」
「……部屋に戻るわ」
「かしこまりました」

 佳蓉に告げると春麗は与えられた部屋へと戻った。
 ただその日から、日に何度か庭に出ては蝋梅を見上げるようになった。寒い中でも咲き誇るその花から春蘭はなぜか目が離せなかった。


 そんな日々を送っていたある日、いつものように春蘭が庭へ出て蝋梅を見上げていると、足下がおそろかになっていたようで、気づくと体勢を崩していた。転ぶ、と思ったときにはすでに遅く春麗の身体は地面に倒れ込んでいた。

「っ……」
「春麗様!」

 真っ青になった佳蓉が慌てて駆けつけ春麗を起こす。大丈夫だと伝えようとした春麗の掌には血が滲んでいた。

「お、お怪我を……!」
「これぐらい平気よ」
「そんなわけにはいきません! 誰か! 誰か春麗様が!」

 佳蓉の声に慌てて人が集まる。その様子を春麗はどうすることもできず見ていることしかできなかった。
 結局、春麗の怪我は掌を軽く切っただけだった。けれど医者が薬を塗りそして包帯を大げさなほど巻いた。
 こんなにしなくても、と思う春麗とは裏腹にそれらは行われていく。

「傷が治るまでは手を使うことはお控えください」
「わかりました」

 医者の言葉に春麗は素直に頷いた。不便はあるけれど仕方がない。何よりも自分の不注意のせいで佳蓉が身体を震わせ真っ青な顔をしていることのほうが春麗は気になっていた。

「佳蓉のせいじゃないのだからそんな顔しないで」
「いえ、私のせいです。私がついていながら春麗様に怪我を」
「私が足下を見ていなかったのが悪いのだから、本当に気にしないで」

 まだ食い下がろうとする佳蓉に「この話はこれでおしまい」と話を終えようとする。そんな春麗の耳に、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
 どうやら部屋の外からのようだけれど一体何が……。
 佳蓉もその声に気づいたようで「少し様子を見てきます」と部屋の外へと向かった。そして――。

「しゅ、春麗様!」
「佳蓉?」
「い、今外に……!」
「佳蓉、どうしたの? 落ち着いて」
「ですから!」

 佳蓉が言い終わらないうちに扉が再び開きそして、一人の男性が部屋に入ってきた。大きな音につられ春麗は真正面からその人を見た。
 真っ白の襦裙を身に纏ったその人は黒い髪を背に垂らし、形のいい眉を歪め春麗を見下ろしていた。整った顔立ちのその人は、翡翠色の目をしていた。この人は、まさか。春麗の思考が追いつくよりも早く、佳蓉が頭を下げた。

「主上!」

 その人の後ろから侍従だろうか、男性が慌てて追いかけてくる。主上、という言葉に春麗は慌てて佳蓉に倣い頭を下げた。

「頭を上げよ」
「……はい」

 恐る恐る顔を上げると、青藍は春麗をジッと見つめていた。突然どうしたというのだろうか。今の状況が理解できない春麗に皇帝陛下は口を開いた。

「怪我をしたと聞いたが」
「え、あ、その」
「大事はないのか」
「は、はい。その石に躓いて……」
「石?」

 少し考え込んだあと、皇帝陛下はそばに控えていた男性に声をかけた。

浩然(こうねん)
「はっ」

 名前を呼ばれただけで全てを理解したのか、浩然は部屋を出てどこかへと向かった。

「あの……」
「後宮の庭の石は全て片付けさせておく」
「へ?」
「大事がないのであれば問題ない。では」

 そう言ったかと思うと、皇帝陛下は春麗の部屋を出て行った。残された春麗は佳蓉の方を向いた。佳蓉はそんな春麗に小さく微笑む。

「心配しておいでだったのだと思います」
「心配……? 陛下が、私を……?」

 今までお目通りもなく後宮の一室に押し込んでいた春麗を皇帝陛下が心配する、なんていうことがあるのだろうか。
 けれど嬉しそうに笑う佳蓉に春麗はそういうことにしておこうと思った。先程まで自分のせいで春麗が怪我をしたと真っ青になっていた佳蓉が今は皇帝陛下がいらっしゃったことでこんなにも嬉しそうな顔をしているのだから。

「またいらしてくださるといいですね」
「そう、ね」

 佳蓉にはそう返事をしたけれど、こんなことはもうないだろうと春麗は思っていた。春麗を見下ろす皇帝陛下の目は冷たく、一切の興味も関心も感じられなかったから。
 今回の訪れもきっと気まぐれだろう。春麗はそう思っていた。
 けれど、その気まぐれが二度三度と続くことをこのとき春麗はまだ知らなかった。


 その日から春麗が怪我をする度に皇帝陛下は春麗の元を訪れるようになった。怪我だけでなく、咳をしただけで風邪を引いたのではと薬師を連れてくる程だった。

「どうしてこんなにもよくしてくださるのですか?」

 一度、あまりにも度々訪れてくれる皇帝陛下に春麗がそう尋ねたことがある。けれど皇帝陛下はその問には答えてはくれなかった。
 そのうち、一日に一度、陛下が春麗の様子を見るために部屋を訪れるのが日常となってしまった。

「主上」
「どうした?」

 皇帝陛下、ではなく主上と呼ぶことに春麗が慣れた頃には庭に咲いていた蝋梅は散り、代わりに梅桃(ゆすらうめ)が見頃となっていた。
 今日は庭の木に手を伸ばそうとした春麗の手首に枝が当たり、薄らと切り傷ができてしまった。切り傷といってもよく見なければ傷があることすらわからない程だ。にもかかわらず、青藍は本気で心配しているように春麗には見える。

「主上は優しい方ですね」
「……何を唐突に」
「私のようなものをこのように心配してくださるので……」
「……優しくなどはない」

 青藍は春麗から視線をそらすと佳蓉に入れさせた茶碗を手に取った。それを口につけようとし、何かを考え込むかのようにもう一度小卓へとそれを戻した。

「主上?」
「……私を優しいなどと言う者はいない。お前も私のことを知ればそのようなことを言えなくなる」
「ええ、私は主上のことを何も存じ上げません」
「噂ぐらいは聞いたことがあろう」
「噂は、噂です」

 言い切る春麗へ物珍しそうな視線を青藍は向けた。どちらかというとおどおどしていて自分の意見をハッキリ言わない春麗が、こんなふうに言い切る姿を見たことがなかったからだろう。
 春麗はその視線をそらすことなく真っ直ぐ見据えた。

「噂が真実だとは限りません」
「噂が出るには何か理由があるとは考えないのか」
「理由を知らない私にとっては目の前にあること以外、真実ではありません」
「では、お前には私はどう映る。その金色の目には」
「……私には心配性で優しくて、そして何かに怯えているように見えます」
「なっ」
「――よい」

 春麗の言葉に、そばに控えていた浩然が立ち上がろうとした。おそらく不敬であると思ったのであろう。けれど、青藍はそれを制した。

「怯えている、か」

 青藍はそう呟くと声を上げて笑った。その様子に、春麗を初め周りの人間は驚きを隠せなかった。ひとしきり笑うと、青藍は先程置いた茶碗を手に取り、その中身を飲み干した。

「噂は全て本当だ」
「主上! それは……」
「浩然、黙れ」
「……はっ」

 何か言いたそうな浩然の口を再び塞ぐと、青藍は春麗に顔を近づけた。まるでわざと怖がらせようとしているかのように。

「母は私を産んだ直後に死んだ。側近も、父上も、そして妃たちもだ。この後宮だけで何人死んだと思う? 両の手では足りぬほどだ。全て私が死に魅入られているせいだ。死の呪いが私にはかけられている。それでもお前は私のせいではないと言うのか?」
「ええ。その証拠に、私は死んではおりません」
「明日死ぬかもしれん。いや、今日このあとかもしれんぞ。私がお前のそばにいる時間が長くなればきっとお前も」
「いえ、私は死にません」
「なぜそう言い切れるのだ」

 あまりにもきっぱりと言い切る春麗に、青藍は眉をひそめた。春麗は一瞬の迷いのあと、前髪を上げた。そこにある金色の目に、息をのむ音が聞こえた。けれどそれは青藍の者ではなかった。青藍は春麗の目をマジマジと見た後、興味深げに呟いた。

「ほう? お前は藍旺国の血を引いているのか」
「……はい。母方の祖先が」
「そうか」
「主上は、この目が気味が悪くはないのですか?」
「なぜだ。異国の血が混じるものなどどこにでもいよう。それが今は滅びた国であるというだけだ。それよりその目がどうしたというのだ。異国の血が混じっているから死なないとでも言いたいのか?」

 本当のことを話したとして、信じてもらえるのだろうか。そんな躊躇いを覚えたことに春麗は戸惑った。
 信じてもらいたいと、思っているのだろうか。目の前のこの人に。自分の言うことを

(なぜ……? どうして、私は……)
 
 その疑問に答えが出るより早く、青藍はもう一度春麗の名を呼んだ。その声に、春麗は覚悟を決めた。
 信じてもらえようがもらえなかろうが、関係ない。本当のことを話すだけだ。
 でも……。

(信じて、ほしい……)

 春麗は自分自身の掌をギュッと握りしめ、口を開いた。
 
「この目は……死を映します」
「死を?」
「はい。そのせいで、私は忌み嫌われてきました。呪われた目を持つ子だと。この目に映された人は……死ぬ、と」
「……だからここに送られたのか」

 春麗の言葉で、青藍は全てを悟ったようだった。
 春麗は後宮に送られることになったことが決まったときから考えていたことがあった。もしかすると俊明は青藍を……。考えたくはないけれど、俊明がこの目を、人を死に至らしめるとそう思っていたとするならば、利用しない手はなかったと思う。
 その相手が、例え青藍であろうとも――。
 そしておそらく、青藍も同じことを考えたのだろう。俯く春麗に青藍は少し考え込むと、口を開いた。

「死を映すというのはどういうことだ」
「そのままの意味です。私の目にはその人の死が見えるのです。家の者は私の目に映ると死ぬとそう思っていたようですが、事実ではありません。ただ死ぬ者の顔にそれが浮かんで見えるだけなのです」
「では、この部屋に死にそうなものは」
「おりません。私自身にもそして主上にも死の文字は見えておりません。もちろん、浩然様や佳蓉にも」
「……そうか」
「ただ……」

 言うべきか、一瞬迷った。そんな春麗の迷いを読み取ったように青藍は人払いをする。部屋には春麗と青藍の二人だけが残った。

「この部屋にいないものに死の色が見えたのか」
「……ええ」

 春麗は青藍が部屋にやってきたとき、扉のそばに控えていた人のことを思い出していた。どんな顔をしていたかはもうわからない。ただ顔に書かれた文字。あれは。

「自死を、するのだと思います」
「呪いではなく、か?」
「呪いでしたらそう書かれているはずです。ですがあの人の顔には黒い文字で『自死』と書かれておりました。自死、すなわち自らの手で命を絶つ、と」
「そうか……。わかった。こちらで対処しよう」
「……信じてくださるのですか?」
「何をだ」
「この目に見えるもののことです」

 人の死を映す、など滑稽無稽なことを言っている自覚はある。さらにその死の方法が浮かび上がって見えるなど、嘘をつくならもっとマシな嘘をつけと言われても不思議ではない、なのに青藍はすんなりと信じた上、対処をするとまで言ってくれる。いったいどうして。
 春麗の疑問に、青藍はふっと微笑んだ。

「私はこれでも人を見る目はあるつもりだ。お前は嘘をついているように見えない。それにもしもついていたとしても」
「……いたと、しても?」
「騙された私が阿呆なだけだ。人が死なないのであればそれでいい」

 その言葉に春麗はもしかしてと思う。青藍が怯えているように見えたその理由は、自分のせいで人が死んだと、そう思っているからなのではないか。だから春麗に対してもちょっとした怪我や咳一つで心配して春麗の元へと駆けつけてくれていたのだと。
 春麗が見た限りでは、青藍の周りに呪いで死にそうになっている人はいない。浩然は以前から青藍に仕えていると聞いたことがある。もしも呪いが本当にあるのだとしたら今一番可能性があるのは唯一、後宮で妃として残っている春麗そして春麗に仕える佳蓉だけだ。

「また来る」
「主上!」

 春麗の部屋を出ようとする。そんな青藍の背中に、春麗は声をかけた。

「……なんだ」
「主上は呪われてなどいません」
「…………」
「その証拠に私は死にません。お約束致します」

 春麗の言葉に返事をすることなく、青藍は部屋をあとにした。
 本当の青藍はきっと、とても優しい人なのだ。だからこそ、自分のせいで誰かが死んでいるかもしれないということに心を痛めていたのかもしれない。自分のせいだと、自分自身を責めて、そして周りから人を遠ざけた。これ以上死者を出さないために。

「呪い……」

 春麗は一度だけ呪いで死んだ人間を見たことがある。あれはまだ母である玉林が生きていたころだ。呪殺と顔に書かれたその人は屋敷に出入りする呪術師だった。そんな文字を見たことがなかった春麗は何が起きるのか怖くて仕方がなかった。数日の後、呪術師が呪いを受けて死んだと聞いたときはあれはそういうことだったのだとわかり臥牀(べっど)の中で泣いたのを今でも覚えている。
 けれど少なくとも今日見たあの人は呪いではない。青藍の手はずが上手くいき、あの人の命が助かれば青藍の自分を責める気持ちも少しは和らぐかもしれない。

(死なないでほしい……。主上のために……)

 自ら死にたいと願っている人に対してそう望むのは勝手なことだとわかっている。でも、それでも春麗はそう願わずにいられなかった。心優しき青藍が、これ以上胸を痛めることが亡いように。


 それから数日は特に変わりのない日々を過ごした。なんだかんだ理由をつけて青藍は春麗のことを気にかけてくれた。そして五日が経った頃――。

「この間、言っていた男が自殺をした」
「なっ……。そ、それで……その方は……」
「お前のおかげで発見が早く助かった。礼を言う」
「い、いえ。ですが助かったのであればよかったです」

 自殺しようとするほど追い込まれていたその人は助かってよかったと思っているかどうかはわからない。けれど助けられたことで青藍は安堵の表情を浮かべていた。きっとその人の今後も青藍がなんとかしてくれるはずだ。

「春麗」
「は、はい」

 青藍は春麗の名を呼びその目をジッと見つめる。そしてそっと手を伸ばした。

「今もお前には死の文字は見えてはいないか」
「はい。主上に死の文字は見えておりません」

 春麗の言葉に青藍は眉をひそめ、そして首を振った。

「私ではない」
「え?」
「お前自身に死の文字は見えてないかと聞いているのだ」
「え、あ、はい。私にも見えてはおりませんが」

 質問の意図がわからず、春麗は首をかしげてしまう。けれど青藍は春麗の言葉に息を吐くと、躊躇いがちに口を開いた。
 
「……では、触れてもよいか」
「え? え、ええ?」

 戸惑いながらも頷く春麗の手に、青藍は自分の掌を重ねた。まるで春の日だまりのようなあたたかい掌。そのぬくもりは掌を通じて春麗の心をもあたためてくれるかのようだった。

「……あたたかいな」
「そうで、しょうか」
「ああ。……それに、小さな手だ」

 春麗は自分のかさつきあかぎれた手を思い出し慌てて引っ込めようとした。けれどしっかりと握りしめた青藍の手は春麗の手が逃げるのを許さなかった。
 それどころか逃がすまいと指先を春麗の手へと絡める。

「しゅ、主上」
「なんだ」
「い、いえ。その……」

 ジッと春麗を見つめるその視線から逃げることはできず、それでも何か言わなくてはと春麗は必死に考えた。けれど心臓の音がうるさくて頭の中がまとまらない。指先から伝わる熱は春麗の手をどんどん温めていく。これは春麗の熱なのかそれとも――。
 
「主上の手も、その、あたたかい、です……」
「……そうか」
「はい……」

 一瞬、面食らったような表情を青藍は浮かべ、それでもどこか嬉しそうに微笑んだ。その笑みに春麗は目を奪われる。
 掌から伝わってくるぬくもりはあたたかくて心地いい。それは春麗にとって物心ついて初めて触れる人のぬくもりだった。
 そしてまた、青藍にとっても――。


 相変わらず春麗は庭で花を愛でるか、もしくは部屋の中で一日を過ごしていた。ただ一つ変わったことがあった。

「綺麗だな」
「ええ」

 梅桃を見る春麗の隣には青藍の姿があった。一日に一度、春麗の様子を確認に来るだけだったのが、今では時間ができると春麗の元を訪れる。二人で花を見たり、庭を散歩したり、部屋の中で二人和やかな時間を過ごしたりと、二人で過ごす時間が増えていた。

「春麗、これを知っているか」

 そう言って青藍が差し出す砂糖菓子はどれも春麗が食べたことのないものばかりだった。

「存じません」
「そうか。ならば口を開けよ」
「え?」

 意図がわからず思わず口を開けた春麗の口内に甘味が広がる。初めて味わう菓子の甘さに春麗は動きを止めた。

「どうだ?」
「ふ……あ……」
「美味いか?」

 美味しいという言葉さえ出ず、首を必死に縦に振る春麗に青藍は微笑むと一つもう一つと口に入れる。飲み込みきれず頬を膨れさせて頬張る春麗に、青藍は噴き出した。

「ふっ……くっ……くくっ」
()ほはみ(おかみ)!」
「すまん……くっ……ふは……」
「酷いです……!」

 春麗はお返しとばかりに青藍の手にあった砂糖菓子を取ると、そのまま青藍の顔の前に持って行った。

「ん?」
「口、開けてください」
「ほお? 食べさせてくれるのか? ほら」
「なっ……!」

 口を開けて待たれてしまうと春麗は自分のしようとしたことの恥ずかしさに耐えきれず腕を上げたまま固まってしまう。そんな春麗の態度に青藍は笑うと、挙げたままになっていた腕をそっと掴んだ。

「え?」
「食べさせてくれるのだろう?」
「まっ……」

 春麗の手首を持ったままその手を自身の口に運び、そして砂糖菓子を口に入れた。ご丁寧に春麗の指先についたものまで舐め取り、青藍は口角を上げて笑った。

「甘いな」
「な、な、なにをするのですか!」
「食べさせてくれるのではなかったのか?」
「そ、それはそうですけど! でも、それは……!」
「春麗が食べさせてくれると美味いな。これからも頼もうか」
「やめてください!」

 喉を鳴らし笑う青藍に、春麗はからかわれたことに気づく。頬を膨らませる春麗に青藍はもう一度笑った。その笑顔に目を奪われる。そして気づけば春麗自身も笑っていた。
 こんなふうに誰かと笑い合える日が来るなんて思ってもいなかった。
 もしかしたら幸せとはこういう時間のことをいうのかもしれない。だとしたら。

(ずっと、こんな時間が続けばいいのに)

 そう願わずにはいられなかった。
 けれど、幸せとは儚いものだ。こうであればいい、そう願えば願うほどその想いとは裏腹に砕け散っていく。
 春麗が自分自身の異変に気づいたのは、梅桃が散り始め白い小さな花弁より葉の緑が多くなり始めた頃だった。

「嘘……」

 鏡に映る自分自身の顔に真っ黒の文字が浮かび上がっていた。自分自身にこの文字が見えるのは初めてで、後宮に上がってからは初めてのことだった。

(他殺……。私は、誰かに殺されるのね)

 誰かの悪意が詰まったようなその二文字に、春麗は身を震わせる。このままでは自分は数日のうちに死んでしまうだろう。それは後宮に上がる前の、いや上がった直後の春麗なら喜んだかも知れない。けれど、今は。

(怖い……死んでしまうのが、そしてまた主上を一人にしてしまうのが……怖くて怖くて仕方がない)

 震える身体を抑えようと春麗は両手で自分自身を抱きしめた。今、春麗が死んでしまえば青藍は自分自身を責めるだろう。それだけは嫌だ。

「春麗?」
「あ……」

 どうすればいいか、そればかりを考えていた春麗は青藍が部屋に来てもボーッとしてしまっていた。返事をしない春麗に、青藍は眉をひそめるとそっと額に手を当てた。

「熱はないようだが」
「も、申し訳ございません」
「具合が悪いのか?」
「いえ、その少し考え事を」
「……気に入らん」

 一言呟くと、青藍は隣に座る春麗の膝に頭を乗せ長椅子に寝転んだ。さらりと流れる髪の毛が春麗の襦裙を滑り落ちる。

「しゅ、主上!?」
「何かあったのならきちんと話せ。そんな顔、お前には似合わない」
「……私は、普段どんな顔をしていますか?」
「お前は梅桃に似ている。小さく頼りなさげに見えるのに空に向かって咲き誇る梅桃。可憐な花を咲かせるその花弁はお前の笑った顔のようだ」
「ゆすら、うめ……」

 思いも寄らない言葉に、春麗は戸惑い、そして後宮の庭に咲く梅桃を思い出す。あれに自分が似ていると青藍は言った。

(あの小さく可愛い花に、私が?)

 言葉に詰まる春麗に、青藍はふっと笑った。

「そんなことないと言いたげな顔をしているな。私の言葉を否定するか?」
「そ、そういう訳ではありませんが……ですが、私など花にたとえられるのもおこがましく……」
「お前は自分を卑下しすぎだ。お前は私の唯一の妃だ。違うか?」
「それ……は……そう、ですが」

 唯一の妃だと言われたところで、それが形だけのものでしかないことは誰でもない春麗が一番よく知っていた。青藍が春麗の元を訪れるのもその身に危険がないか、それを確認しに来ているだけだと。
 それを自分が本当の妃になっただなどと勘違いするほど春麗は愚かではない。それに本当に妃であれば、位が与えられるはずがそれすら春麗にはないのだ。なのに……。

「仕方ないな」

 微笑みながら青藍は春麗の頬に手を伸ばす。その表情に春麗の胸は酷く痛んだ。
 出会った頃とは違う、優しくてあたたかい表情。こんなに優しい人が自分のせいでまた辛い想いをしてしまう。春麗だから、なんて思い上がるわけではない。でも、それでもきっと春麗が死ねば、青藍は自分のせめるだろう。傷つき、胸を痛めるだろう。

(そんなの……嫌だ)

「っ……」
「――よし、決めたぞ」
「え?」
「浩然」
「はっ」

 扉の向こうで控えていた浩然は、青藍の呼びかけにそっと扉を開けた。青藍は身体を起こすと、扉のそばで頭を下げる浩然へ視線を向けた。

「どうされましたか」
「今日は春麗の部屋で休むことにする」
「承知致しました」
「えぇっ!?」

 青藍と浩然の会話を聞きながら、春麗は思わず声を上げた。聞き間違いかと青藍の方を見ると、口角を上げて笑っていた。

「なんだ? 何か問題でも?」
「も、問題というか」
「皇帝が妃の部屋に泊まって何が悪い?」
「何も……悪くございません」

 春麗に青藍の言葉を否定することも拒否することもできない。そのまま準備が整えられ、普段一人で眠っている臥牀に二人で眠ることとなった。

「なぜ、そのように離れるのだ」
「な、なぜって……」
「こっちに来い」

 臥牀の落ちそうなぐらい端で眠ろうとする春麗の手を引き、青藍は自分の腕の中へと引き寄せた。春麗に抗えるわけがなく、為す術もないまますっぽりと腕の中に包まれた。
 まるで全身が心臓になってしまったかのように鳴り響きうるさい。こんな状態で本当に眠れるのだろうか。そんなことを考えていると頭上からふっと漏れるような笑い声が聞こえた。

「主上?」
「ああ、いや。心臓の音が凄いなと思ってな」
「それは……このような状態では仕方がないかと……」
「そうか。そうだな」

(あ……)

 春麗の心臓の音とは別に、心地よい響きで鳴るもう一つの音に気づく。それはすぐそばから聞こえてくるもので。
 春麗のもののように早くはないけれど、とくんとくんと脈打つ音が聞こえる。
 どこか心地のよいその音に、気づけば春麗は微睡んでいた。


 ふと気づいたのは日が昇るにはまだ随分と時間のある頃だった。まるで包み込むように春麗の身体を抱きしめたその腕の持ち主は、小さく寝息を立てていた。
 その頬に、春麗はそっと手を伸ばす。
 こんなふうに人と眠ることは春麗にとっては初めてのことだった。人と一緒に眠るというのは、その人を信頼していないとできない行為だ。本来であればこんなふうに青藍が誰かのそばで眠るなんてことはないのかもしれないし、好ましくないのだろう。
 青藍がこの部屋で眠ると伝えたとき、浩然の表情が一瞬曇ったのを春麗は見逃さなかった。それは浩然にとって春麗が信頼に値する人物ではないから、というだけでなく青藍が誰かと眠りを共にすることがあまりよろしくないのだと、そう思う。そしてそれをわかっていない青藍ではない。

(つまり、私のため……)

 春麗はふいに泣きそうになった。目の前のこの人が再び一人になり、冷たい臥牀で眠るところを想像すると胸が苦しくて涙が溢れそうになる。
 思い上がるなと笑われるかもしれない。けれど、今この人は春麗を求めている。そう思うと、今まで感じたことのない感情が身体中を駆け巡る。
 この感情を人は、何と呼ぶのだろう。胸の奥が熱くて苦しくて切なくて愛しくて涙がこぼれそうなこの感情を――。

「泣くな」
「っ……しゅ、じょ……」
「泣くな、春麗」

 青藍の指先は春麗の瞳に触れると、溢れだした涙を優しく拭った。
 そして身じろぎすれば鼻先が触れあいそうな距離で、青藍は春麗を見つめた。

「何があった」
「な、にも……」
「こんな顔で、何も亡いと(うそぶ)く気か」
「それは……」
「……気づいてないと思っていたのか」

 その言葉は、あまりにも優しく、春麗の胸を揺さぶった。

「何があったか、話せ」
「ですが……」
「春麗」

 名を呼ばれ、真っ直ぐに瞳を射貫かれ、春麗にはもう抗えなかった。

「……死の文字が見えました」
「私に、か」
「いえ。……私に、です」

 青藍の瞳が揺れた。けれどその同様の色をすぐに隠すと、青藍は少しだけこわばった声で春麗に尋ねた。

「なぜだ」
「他殺とありますので、誰かが私を、殺すようです」
「いつかはわからぬのか」
「……はい」
「くそっ」

 声を荒らげた青藍に、春麗は慌てて口を開いた。

「わ、私が死んだとしても主上のせいではございません。ですので、主上の呪いなどやはり存在は――」
「そのようなことを言っているのではない!」
「え?」

 けれど、春麗の言葉は的外れだったようで、青藍は声を遮るようにそう言うと身体を起こした。春麗もつられるようにして臥牀の上に身体を起こす。そして春麗を見つめる青藍を恐る恐る見返した。

「で、ではいったい……」
「お前は! どうしてそんな大事なことを黙っていたのだ! まさか自分一人で死ぬ気だったのか!?」
「い、いえ。もしも私が死んでしまったとしても犯人の手がかり一つでも掴めたらとは思っておりましたが……」
「っ……そんなことはどうだっていい! 犯人などどうだっていいんだ……それよりもお前が死なないことの方が大事だろう!?」
「え……?」

(私が、死なないことの、方が……?)

 それは春麗にとって思いも寄らない言葉だった。

「で、ですが犯人がわかればもしかすると今まで主上の呪いだと言われていたことの真実がわかるかもしれません」
「だがその最中に、お前が命を落としたらどうする」
「私などの命なんて、主上の前ではたいしたことでは――」
「お前はもっと自分自身を大事にしろ!」

 青藍の言葉は、春麗にとって戸惑うばかりでどうしていいかわからなかった。
 そんなふうに大事に育てられてなどこなかった。それどころか、こんな命、いつなくなってもいいとその方がいいとさえ思っていた。なのに、目の前のこと人は自分の恐ろしい噂よりも春麗の命の方が大事だと言ってくれる。これは夢だろうか。都合のいい夢を見ているのではないだろうか……。


 その日から、青藍は春麗の部屋で眠るようになった。朝が来ると、春麗の部屋から自分の宮へと戻っていく。
 朝が来る度に「今日は変わりはないか」と春麗に尋ねるのが日課となった。春麗は曖昧に頷いて見せるけれど、本当は鏡の中の文字はどんどんと濃くなっていっていた。
 そろそろ最後の日が来るのも近い。春麗は、くっきりと見える文字に、一つの考えを思いついた。

「今、なんと言った?」

 青藍が春麗の部屋で眠るようになって5日が経ったころ、臥牀の中で春麗は青藍に提案した。

「ですから……囮に、なろうと思います」
「囮だと? そんな馬鹿なこと……」
「ですが」
「そんなことさせられるわけがないだろう。万が一があったらどうする」
「……ですが、それしか方法はないのです」

 春麗としてもいつ襲われるかわからない状態で日々を過ごすのは限界が来ていた。それよりはいっそ囮になり、片付けてしまえればと思ったのだ。
 万が一、自分の命は助からなかったとしてもそれなら犯人は確実に捕まえられるだろうから。
 そんな春麗の考えを読んだかのように、青藍はジッと春麗の金色の目を見つめた。

「死ぬ気か」
「……いえ」
「嘘じゃないだろうな?」
「はい。……それに、万が一のときは、守ってくださるのでしょう? 私は――あなたの妃ですから」

 春麗の言葉に、青藍はあっけにとられたような表情を浮かべ、口角を上げた。

「初めて言った我が侭がこれか」
「嫌いになられますか?」
「……いや? ますますお前を死なせたくなくなった」

 青藍は春麗の顎を上に向かせると、そっと口づけた。

「必ず死なせない。約束だ」

 初めて触れた唇は、指先と同じぐらいに熱かった。
 その日、青藍は用事が立て込み珍しく春麗の部屋に顔を出すことはなかった。ここ数日、毎晩のように眠っていたはずの春麗の臥牀には膨らみは一つだけだった。
 真夜中、燭台の灯りが突然消え、そして――。

「死ねっ!」

 突然響いたその声とともに、臥牀へ刃物が突き立てられた。
 肉を貫いたような感触に男は口角を上げ、そして春麗の部屋をあとにした。


 男は回廊を進むと、後宮の奥にある宮へと向かった。見張りは見知った顔だったのか、そのまま通り抜けると一番奥の部屋へと向かった。

珠蘭(しゅらん)様」
「……浩然か。お入り」
「はっ」

 開かれた扉の奥、臥牀に寝そべるのは先の皇帝の妻であり、現皇太后である(しゃ)珠蘭だった。
 浩然は部屋に入り頭を垂れる。そして息を一つ吐くと口を開いた。

「完了いたしました」
「そう。死体は?」
「そのままに。朝には侍女が見つけるかと」
「よくやった。ああ、違うか。これも全て死の皇帝のせい、だからね」

 珠蘭が妖艶な笑みを浮かべたその瞬間――部屋の扉が蹴破られた。

「なっ」
「やはり、黒幕はあなたでしたか」
「お前は……!」

 突然現れた青藍の姿に珠蘭は一瞬戸惑いを隠せなかった。けれど、すぐに怪訝そうな表情を浮かべ青藍を一瞥した。

「なぜこのようなところにあたながいるのです? ここはあなたの来るところではございませんよ」
「申し訳ございません、母上。私の従者を追いかけておりましたらこちらにたどり着いてしまいました」
「ああ、そう。ならその者を連れてさっさとお帰りなさい」
「いえ、そういうわけにはいかないのです」
「何?」

 珠蘭の言葉に、青藍は笑いながらそう言うと浩然を指さした。

「こやつは私の妃に害をなそうとしました」
「それならなおのこと早くお戻りになればよろしいかと」
「ですが、こいつが単独でそんなことをするとは思わずこうやって跡をつけたのです。きっと黒幕の元に報告に行くと思いましたので。その先が母上、あなたのところだったのです」
「はっ、なにを。まさか私がこやつに指示を出したとでも言うのです? それにしても妃が死んだというのに犯人を追いかけるとは。最近入った妃に入れ込んでいるという話を聞いてましたが結局、その程度だったのですね」

 珠蘭の言葉に、青藍は腹を抱えて笑った。その姿に、珠蘭は青藍を睨みつけた。

「何を笑っているのです」
「いえね、まさか母上の元にまでそんな話が届いているとは思わず。ですが、不思議ですね。私があれに入れ込んでいるのを知っているのは妃の侍女と――浩然ぐらいなのですが」
「……噂というのはどこにでも届くものですよ」
「そうかもしれませんね。ああ、そうだ。先程の話、一つ間違いがあるのです」
「間違い?」
「ええ。――妃は死んでなどいませんよ」
「なっ……!」

 青藍の背後から、春麗はひょこっと顔を出した、本当はこの場に来てはいけないと言われていたが、自分自身も命を狙われたのだから話を聞く権利がある、と無理矢理ついてきたのだ。
 青藍は「急に我が侭が増えたな」と笑っていたけれど止めることはなかった。離れるより、そばにいる方が守りやすいとそう思ったのかも知れない。

「……そうですか。ご無事で何より。ところで私はそろそろ休もうかと思います。その男を連れて下がりなさい」
「母上の元に報告に来たこの男を連れて行ってもよろしいのですね」
「ええ。私には縁もゆかりもない者ですから」
「……そうですか」

 青藍は悔しそうに顔を歪めた。その後ろで春麗も掌を握りしめる。証拠も何もなく、皇太后という立場の珠蘭を裁けないことはわかっていた。わかっていたからこそ自白をさせたかったのだ。全てがわかれば今まで青藍の周りで死んだ人たちが、青藍のせいではなく青藍のせいに見せかけたかった皇太后の仕業だということがはっきりしたから。 
 けれど、これでは……。

「わかりました。まあ黒幕がいるとすればこいつが全てを吐いてくれることでしょう」

 青藍は珠蘭にそう告げると、浩然の手に縄をかけた。
 そうだ、あとは浩然が全てを話してくれれば。そして何か皇太后に繋がる証拠が見つかればなんとかなるかもしれない。

(……え?)

 青藍が浩然を連れ珠蘭に背を向けたその瞬間、浩然の顔にどす黒い文字で『他殺』と浮かび上がったのが見えた。その言葉の意味を考えるのと春麗の身体が動くのは同時だった。
 そして――。

「春麗!」

 痛みなのか熱さなのかわからない衝撃が春麗の腹に走り、薄れゆく意識の向こうで青藍が自分の名前を叫ぶのが聞こえた気がした。


 春麗が目覚めたのは、それから三日程経ってからだった。真っ赤に目を腫らした佳蓉が春麗のそばでずっと泣き続けていた。

「しゅん、れ……い様……」
「ごめんね、心配かけて」
「本当……ですよ……」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭ってやると、佳蓉は怒ったように笑っていた。

「それで、どうなったの?
「……皇太后様のことですね」
「うん」

 佳蓉は少し悩んだような表情を浮かべてから、話し始めた。
 珠蘭は自分の関与が発覚するのを恐れ、浩然の口を封じるために刃物で刺そうとしたらしい。

(それであのとき『他殺』って……)

「ですがその刃物には毒が塗ってあったようで……。春麗様はその毒の制で三日三晩眠り続けていらっしゃいました」
「そうだったの……。それで浩然は」
「春麗様のおかげで怪我はなく。皇太后様に殺されそうになったことで今までのことも全て話す気になったそうです」

 珠蘭は自分の息子である(りゅう)蒼晴(そうせい)を次期皇帝にするために青藍の周りの人間を一人また一人と手にかけていたらしい。その下手人が浩然だったそうだ。

「それで……」
 
 通りで他の人間が死んでいく中、浩然一人生きていたはずだ。そうやって自分一人が青藍のそばにいられるようにして信頼を得、周りの人間を削いでいく。
 結果、青藍は一人になり併せて流した噂のせいで誰も青藍に近づかなくなる。そんな中、形だけだった春麗に青藍が興味を持つようになり、夜も友にするようになった。二人の間に何もないことは本人達にしかわからない。毎晩のように春麗の元に通う姿を見て珠蘭は不安になったのだろう。子どもができれば自分の子である蒼晴が皇帝となれる可能性はぐっと低くなるのだから。

「でも春麗様のおかげで全ては解決したようです。実家に戻ってらした他の妃嬪も戻ってこられるようですし」
「……そう」

 後宮に人が戻ってくる。それはきっと青藍にとってはいいことだ。死の皇帝なんていう不名誉な二つ名が払拭されたのだから。
 けれど、春麗の胸には重く苦しいものがのしかかる。自分一人しかいなかったから青藍は春麗のことを気にかけてくれた。けれど……。

「大丈夫ですよ」
「え?」
「他の方々が戻っていらしたとしても主上の春麗様への想いは変わらないに決まっております」
「そう、かしら」
「ええ、きっとそうです」

 胸を張る佳蓉に、春麗は曖昧に微笑んだ。
 そして、その不安が現実のものとなるのはそう遠い日ではなかった。


 数日のうちに、後宮の中は騒がしくなった。戻ってくる妃嬪に先駆けて従者や侍女が後宮へと上がり、掃除などを始めたからだ。
 そんな中、春麗は一人だった。あの日から青藍は一度も春麗の元を訪れることはなかった。日に一度、体調に変わりはないかという確認が従者を通じて入るけれど、青藍本人が来てくれることはない。
 佳蓉曰く「色々な後処理で忙しい」らしい。
 けれど、春麗はなんとなくこのまま存在をなかったことにされてしまうのではないかと思っていた。
 死の皇帝の噂が嘘だったことがわかれば、空席となっている妃嬪の座に娘をつかせたい親はいくらでもいるだろう。自身が上がりたいと望む娘も多いはずだ。

(もう私は……用なし、なのかな)

「春麗様……」
「あ……」

 気づけば春麗の頬を涙が伝っていた。
 不安そうに春麗を見る佳蓉になんとか微笑もうとする。けれど、笑おうとすればするほど、涙が溢れてくる。

「ふっ……うっ……うぅっ……」

 結局、泣き止むことができたのはしばらく経ってからだった。その間、佳蓉はずっとそばにいてくれた。
 泣きはらした目に濡れた手巾を当ててくれる。

「ありがとう……」
「いえ……。何か冷たい飲み物でも入れましょうか」
「そう……ね。お願いしてもいい?」
「ええ! ……あら?」

 扉を開けた佳蓉は何かに気づいたのか思わず声を上げた。

「佳蓉?」
「春麗様! 主上が、春麗様をお呼びとのことです!」
「え?」

 春麗は慌てて目の腫れを化粧で隠し、指定された謁見の間へと向かった。
 そこには久しぶりに見る青藍と――そしてもう二度と見たくなかった顔が並んでいた。

「お父様……それに……花琳……」

 椅子に座る青藍から少し離れた場所に、床に座った俊明と花琳の姿があった。春麗は動揺を必死に隠すと、青藍のすぐそばに用意されていた椅子に腰掛けた。
 そんな春麗の姿を花琳は怖いぐらいの笑みで見つめていた。

「それで、本日の要件とは」
「はい。我々は謝りたいことがございまして参りました」
「ほお? 謝りたいことと」

 俊明の言葉に、春麗は胸が高鳴るのを感じた。

(もしかして……)

 もしかして、今までの春麗にしてきた仕打ちを謝ってくれるのではないか、ようやく家族の一員だと認めてくれるのではないか。
 もしそうだとしても、きっとそれは春麗のことを思って、というよりは家とそしてこれからの政治的なことのためだろう。けれど、それでもよかった。それでも春麗は俊明に娘として、そして花琳に姉と思ってもらいたかった。
 けれどそんな春麗の想いは一瞬で打ち砕かれた。

「はい。主上には大変申し訳ないことを致しました」
「私に?」
「そうでございます。手違いかその者が仕組んだのか、本来後宮に上がるのはこの花琳の予定だったのです」
「な……」

 春麗は一瞬、何を言われているのか理解できなかった。

(私が、仕組んだ? 手違い? なんのこと?)

「その者は呪われた子。このようなところに出せるような子ではございません。出来損ないの下女以下の者にございます。陛下の妃となれるような者ではないのです」
「ふむ」
「主上、お初にお目にかかります。私が楊俊明の娘、花琳でございます。本来でしたら私が後宮に上がるところを、姉が……私を無理矢理閉じ込め自分が……。呪われたくなければ大人しくしていろと言われ……。ですがずっとお慕いしておりました」

 花琳は同情を引くように青藍へと話し始めた。あっけにとられる春麗とは裏腹に、涙まで流し始める。
 周りに控えていた侍従たちは気の毒そうに花琳を見つめていた。

「つきましては、主上。その娘の処分は私どもにお任せ頂き、改めて花琳を後宮に上がらせて頂ければと思うのですがいかがでしょうか」
「待って! そんなの、私!」
「お前は黙っていろ」

 思わず口を挟んだ春麗の言葉を、俊明は厳しい口調で遮った。その口調に、春麗は何も言えなくなってしまう。
 ずっとずっとこの口調に怯え続けてきた。そしてきっとこれからも。
 これまでが夢のような日々だったのだ。それが現実に戻るだけ。仕方がない。そう、仕方がないのだ。

(きっと主上も花琳を選ぶ。私なんて……)
 
「……話はわかった」

(ほら、ね……)

 青藍の言葉に、春麗は俯き必死に涙を堪えた。そんな春麗とは裏腹に、俊明は嬉々とした声を上げた。
 
「では――!」
「お前はどうしたい?」
「え……?」

 その言葉は、そして青藍の視線は春麗に向けられていた。

「この者達曰く、お前がここにいるのは間違いだと言う。それでお前はどうしたいのだ」
「わた……し……」
「主上、その者の言うことなど……」
「私は春麗に聞いておるのだ。それとも何か。お前は私の問に答えさせないつもりか」
「い、いえ。そういうわけでは……。春麗、早く答えなさい。お前は家に戻る。それでいいだろう?」

 笑顔を浮かべているが、俊明のその目は一切笑っていなかった。春麗に「わかっているだろうな」とでも言うかのような視線で睨みつけていた。

(このまま、後宮から追い出されてまた家に戻るの……? もう二度と、主上と会えずまたあの日々に……)

  わかっている。自分ではなく花琳の方が妃という立場にふさわしいことも、青藍の隣に経つべきなのも。
 なのに、なのに……。

「わた……しは……」

 俯いたままだった春麗は、顔を上げた。金色の目で、前を見据えて。

「私は、ここにいたいです」
「お前……!」
「お姉様!? 何をふざけたことを!」

 春麗の言葉に、俊明と花琳は憤る。けれど、そんな二人に見向きもせず、青藍は椅子から立ち上がると、春麗の方へと向かった。
 そしてその身体を逞しい腕で抱きしめた。

「きゃっ」
「よく言った」
「主上……?」
「と、いうことだ」
「主上! ですが!」
「うるさい」

 食い下がろうとする俊明を青藍は一喝すると、侍従に視線を向け俊明たちを押さえつけた。

「私はこれがいいと言っているのだ。まだ何かあるのか」
「主上……!」
「返れ。そなたらが今までこれに何をしてきたか、私が知らぬとでも思っているのか。本当であれば相応の処罰をすることもできるのだ」
「ひっ」
「だがこれがそれを望まん。だから金輪際、私や春麗の前に姿を見せるな。それがそなたらへの罰だ。……連れて行け」

 引きずられるようにして俊明と花琳は姿を消した。
 そして残ったのは、青藍と春麗の二人だけ。

「主上……わた、私……」
「ん?」
「私……ここにいても……いいのですか?」
「お前は私の妃だろう? 私のそば以外、どこに行くというのだ」

 青藍は春麗を抱きしめる腕に力を込めた。もう離さないとでもいうかのように。
 そのぬくもりは目覚めてからずっと春麗が欲しくて欲しくてたまらなかったものだった。

「ずっと……会いに来てくださらなかったから……もう、私……」
「ああ、事後処理が立て込んでいてな。やっと全て片付いた」
「では……」
「今日はもうこの謁見以外全て断った。このあとはずっとお前と一緒だ」
「主上……」
「早く春麗の部屋に行こう。今日はお前の隣で眠りたい。いや、今日だけじゃない。これからずっとだ」

 春麗の身体を抱きしめ直すと、青藍は春麗に口づけた。
 まるで壊れ物のように優しく抱きしめてくれるる青藍のぬくもりは、あたたかくて優しくて、幸せなぬくもりだった。

「では行くぞ」

 春麗は青藍に連れられるまま回廊を歩く。けれど向かう先は、春麗の部屋ではなかった。

「あ、あの……」
「全てが片付いたと申しただろう」

 たどり着いたのは日桜宮と対をなす、皇后のための宮殿、月桜宮だった。
 その扉を開けると、青藍はそっと春麗の背を押した。

「これからはここがお前の居場所だ」
「私、の……」
「どうした?」

 青藍の言葉に、春麗は小さく首を振った。

「違います」
「違う?」
「はい、私の居場所はここではありません」
「では、どこだと言うのだ」
「主上の――隣です」

 春麗の言葉に、青藍は満足そうに笑う。その隣で、春麗も恥ずかしそうに微笑むと一歩を踏み出した。この部屋の主となるために。



 これは呪われた目を持ち、家族にすら疎まれ虐げられ続けた少女が、死の皇帝を愛し、愛され、誰よりも幸せな皇后となるための物語――。

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