六畳ほどの小さな部屋には窓はなく、室内は薄暗い。部屋には小さく足のかけた小卓(つくえ)と薄く粗末な衾褥(ふとん)、それに部屋には不釣り合いな鏡が一つあるだけだった。鏡には十八にしては幼い顔立ちで煤け頬が痩けた少女が映っていた。ただその目は一際輝きを放っていた。

(忌々しい目……。こんな鏡もなければいいのに)

 自分自身の姿に嘆息をもらす。それでも(よう)春麗(しゅんれい)にとってここは唯一自分一人になれる空間だった。
 外が騒がしくなり、春麗は諦めたように卓の上に置いた麻布に手を伸ばした。それを目に当てると頭の後ろで固く結ぶ。辺りが見えないことを確認して、春蘭は扉を開けた。
 他の使用人達に混ざり春蘭は朝餉の支度をする。誰もここに春蘭がいることを不思議に思わない。それどころかここにいるのが当たり前だとさ思っている。例え春麗の出自を知っていたとしても。

「皇帝陛下が……」
「まあ恐ろしい……」

 噂話をする下女を尻目に、春麗は用意されていた朝餉の膳を手に取った。自分が食べるためではなく、運ぶために。
 
「失礼します」
 
 朝餉の載った膳を持ち、頭を垂れて部屋に入る。そこには父と義母、そして義妹の姿があった。まるで目が見えているかのように膳を運ぶ春麗に、父である楊俊明(しゅんみん)は訝しげに口を開いた。
 
「おい春麗」
「はい」
「本当は見えているのではないか?」
「いえ、私には何も見えておりません」
 
 そのやりとりを聞いた義妹の花琳(かりん)は嬉しそうに笑った。
 
「ではお父様、私が確かめて差し上げますわ」
 
 そう言ったかと思うと、花梨は椀に入った湯菜(しるもの)のを春麗へと投げつけた。
 瞬間、避けそうになるのを春蘭は必死に堪えた。避ければ本当はこちらが見えているだろうと余計に疑われることを知っていたから。
 熱々の汁は春麗の顔にかかり、辺りにも飛び散った。空になった椀は床を転がっていく。それを見て満足そうに頷く俊明と嘲笑う花琳の姿がそこにはあった。
 
「ああ、汚い。春麗、さっさとそれを拭きなさい」
「……はい」
 
 義母である白露(はくろ)の言葉に春麗は手巾(てぬぐい)を取ると床を必死で拭う。その間も、湯菜をかけられたところが酷く痛んだ。必死に声を押し殺す。一声でも上げればさらに罵倒されるのはわかっていたから。
「下がれ」という俊明の声に春麗は頭を下げ部屋を出た。そのまま裏の井戸へと向かい桶に水を汲むと何度も顔を洗った。ヒリヒリとしてはいるが水ぶくれにはなっていないようだった。
 
「ふっ……くっ……」
 
 頬を流れるのは水なのか涙なのかわからない。ただこれが春麗にとっての日常で、そして終わりのない地獄だった。
 麻布にも湯菜がかかってしまっているがここでこれを外すことはできない。
 春麗は急いで自室へと戻った。固く結んだそれを外すと、春麗の金色の目が開く。この目を父もそして義母も恐れているのだ。
 
「こんな目、なければよかったのに」
 
 呟く春麗の耳に、誰かの足音が聞こえた。慌てて近くにあった別の麻布を目に当てるのと同時に戸が開かれた。
 
「お姉様」
「花琳……」
「ようやく見つけましたわ」

 朝餉はもう終わったのだろうか。それに見つけたということは春麗を探していた……? まさか湯菜をかけるだけでは足りなかったとでも?
 春麗はこれから何をされるのかという恐怖で身を縮めた。そんな春麗を楽しげに見下ろしたあと、花琳は手に持った手巾を差し出した。手巾には何かが入っているのか膨らんで見えた。

「――差し上げますわ」
「え……?」

 どういう風の吹き回しだろう。そう思いつつも手ぬぐいを受け取ると中には蒸したてだろう、湯気が立つ饅頭があった。春麗は唾を飲む。今日はまだ何も食べておらず、いい匂いのする饅頭に腹の音が鳴るのがわかった。

「い、いの?」
「ええ。私、お姉様に今までしてきたことを悔いているのです。先程だってあのようなこと私はしたくなかったのですがお母様の手前……。お姉様、私を恨んでらっしゃいますか?」
「そんな……ことは……」
「ああ、嬉しい。さすがお姉様ですわ。さあ、召し上がってください。冷めないうちに」
「あ……あぁ……」

 春麗は花琳の言葉に涙を流しながら頷くと、饅頭にかぶりついた。今の春麗を見て誰が良家の令嬢だと思うだろうか。そんなことが頭を過ったけれど、今はどうでもよかった。口の中に広がる肉の味、熱さ、そして舌が痺れるような感覚――。

「ぐっ……かはっ」

 強烈な吐き気に春麗は口に含んだ饅頭を吐き出した。嗚咽(おえつ)嘔吐(えづ)く音だけが狭い部屋に響く。胃液のようなものも同時に出たようで部屋の中には酸っぱい匂いが漂っていた。
 そんな春麗をまるで汚いものでも見るかのように花琳は一瞥した。

「あら、生きているのですね」
「か……り……ゲホッ」
「ああ、汚い。致死性が高いなんて言っていたけれど嘘だったのね。こんなものまで用意して損したわ」

 花琳のその一言に春麗は言葉を失った。

(致死性が高い? まさか毒が入っていたというのだろうか。そんな……)
 
 信じられなくて、信じたくなくて春麗は必死に顔を上げる。けれどそんな春麗を見下ろすと花琳は声を上げて嘲笑った。

「まさか、信じられないって顔をしているわね。馬鹿ね、これで何回目だと思っているの? 私があなたなんかに施すわけないでしょ。いい加減気づきなさいよ」

 鼻で笑うと花琳は部屋を出て行く。残されたのは春麗一人。汚れてしまった床を片付けなければ。そう思うけれどうまく身体が動かない。必死にもがくうちに固く結んだはずの麻布が取れ吐瀉物の中に沈んだ。
 前にもこういうことがあった。あのときは高熱が出て三日三晩寝込んだ春麗に「まだ死んでいなかったの」と花琳が言ったのを覚えている。
 疎まれていることは知っている。けれどそれでももしかしたらと期待してしまうのだ。今度こそ思い直して自分を受け入れようとしてくれているのではないか、と。そんなことあるわけがないのに。
 春麗は震える手で自分の瞳に触れた。呪われた金色の目に。
 春麗の瞳は父とも母とも異なる色をしていた。唯一、母方の曾祖母に春麗と同じく金色の目をしている者がいたらしい。そうでなければ春麗の母は貫通を疑われていただろう。いや、疑ってなどいないと口では言いながらも腹の内ではそうは思っていなかったのだ。
 春麗の父である俊明は自分とは似ても似つかぬ顔立ち、そして違う国の血でも混じっているかのような目を持つ春麗を疎んだ。そして不義の子を産んだと思い込み、秀麗の母であり、自らの妻である鈴玉(りんぎょく)を事故に見せかけて殺した。
 妹の花琳は後妻として入った白露の産んだ子だった。
 俊明によく似た花琳を可愛がり、そしてさらに春麗を疎むようになった。それならいっそ殺してくれれば、そう思うこともあったが俊明達は決して春麗を殺さなかった。いや、殺せなかった。それも春麗が持つ金色の目のせいであった。

「こんな目、なければよかったのに……」

 いっそのこと自分の手で抉り取ってしまいたかった。この呪われた金色の目を。
 この目が呪われていることに最初に気づいたのは今は亡き鈴玉だった。
 春麗が使用人の男を指さしてこう言うのを聞いたそうだ。

「あの人、もうすぐ病気で死んじゃう」

 それまで目の色は違うが、それでも楊家の一人娘ということで可愛がられていた。俊明も周りの手前、自分の娘だとそういう扱いをしていた。けれど、その使用人が死に、その後も似たようなことが続いたとき、誰かが言った。「呪われた目を持つ呪われた子だ」「その目に映されたものは死の宣告を受ける」と。
 実際、春麗の目には死が見えていた。ただそれは周りの言うようなものではなくその人の顔に書かれていたのだ。『病死』と。幼い春麗はただそれを読み上げただけだった。それがどんなことになるとも知らず。
 呪われた子を殺せばどんなことがあるかわからない。かといって、これ以上死の宣告をされるのはたまったものじゃない。そこで俊明は屋敷の離れに春麗を押し込んだ。誰の目にも触れさせぬよう、そして誰もその目に映させぬよう。春麗から母を奪い、綺麗な襦裙(きもの)を取り上げ、目を開けることを禁止した。許されたのは襤褸(ぼろのきもの)を纏うこと、そして目を隠し下女として生きることのみ。そんな生活を10年以上続けていた。あれ以来、周りの者も春麗を恐れていたけれど、春麗もまた怖かった。また誰かの死を見てしまうことが。

「いっそ殺してくれればいいのに」

 義妹である花琳は春麗のことを壊れてもいい玩具か何かだと思っているのか、時折ああやって食べ物を持ってやってくる。そして春麗の姿を見て嘲笑うのだ。なら食べなければいいと思うかもしれないが、食べなければ食べないで口を無理矢理開かされ、そして呼吸ができぬほど押し込まれる。
 ただ、それ以上に、春麗は縋ってしまうのかもしれない。もしかしたら今度こそ自分を受け入れてくれたのではないか、と。

「そんなことあるわけないのに」

 人を怖がるくせに心の奥底では人を求めてしまう。そんな自分が情けなくてみっともなくて、苦しい。苦しくて切なくて悔しくて仕方がない。
 思考が上手く回らないのは花琳に盛られた毒の制だろうか。落ち着かない呼吸に額からは脂汗。楽になりたい一心で、春麗は意識を手放した。
 こんな生活はもう嫌だ。逃げ出してしまいたい。けれど逃げ出す場所なんてどこにもない。死ぬまでこの場所で飼い殺されるだけ。そんな自分の人生に、一筋の涙を流しながら。


 春麗が目覚めたのは、とっくに日が落ちた頃だった。舌の痺れが治まっているところをみると大事には至らなかったようだった。春麗はホッと息を吐く。
 最初の頃は酷かった。花琳を信じ切って喜びそして食べきってしまったものだから、身体の中から毒が抜けきるまで三日三晩死地をさまよった。あのときばかりは本当に死ぬかと思った。と、言えば嘘になる。
 衾褥のそばの小卓に置いた鏡を見て自分が死ぬことはないと春麗は気づいていた。こんなに苦しくても死ねないのだと。
  暗闇の中、春麗は床の吐瀉物を片付けると戸を開けた。そこには冷えた、夕食というには粗末な包子が一つ。それを部屋の中に入れると、春麗は庭へと向かった。
 屋敷の隅にある井戸で水を汲み髪を、そして身体を洗う。風呂になんて入らせてもらえるわけがない。ここを使っているのだって見つかれば咎められる。そのため、普段は家人が寝静まったあとに身体を洗っていたのだけれど今日ばかりはそうはいかなかった。自分の吐瀉物で汚れてしまった身体を必死に洗う。暖かい季節にはほど遠く、指先が凍るような水で身体を洗うのは惨めで哀れだった。
 匂いは気になるもののようやく身体の汚れを落とし終わり、春麗は誰にも気づかれないように自室へと戻った。
 過廊(わたりろうか)の向こうにある母屋では楽しそうな声が聞こえてくる。
 けれど春麗には関係のないことだった。誰も呼びに来ないということはもう今日の仕事は終わりなのだろう。
 冷めてしまった包子をかじり、そして再び眠りについた。明日は今日よりもいい日であることを願って。


 饅頭の一件から数日が経った。この数日は花琳が何か仕掛けてくることもなく、春麗は平和に過ごしていた。このまま何事もなく日々が過ぎ去って欲しい。そう願う春麗の想いも空しく、騒がしい声とともに部屋の戸が開かれた。

「春麗様」
「……なに、か」

 そこにいたのは芙蓉(ふよう)という古くからこの屋敷に仕える侍女だ。蔑むような視線に春蘭は俯いた。この芙蓉は春麗の母である鈴玉を嫌っていた。そしてその子である春麗のことも。
 休んでいることを咎められるのか。けれど今は特に仕事もないはずだし。そんなことを考えていると芙蓉は冷たい声で告げた。

「旦那様がお呼びです」
「お父、様が?」

 何かの聞き間違えだろうかと春麗は思わず確認する。けれど芙蓉はそれ以上何も言わず真新しい麻布を差し出した。

「これを目に」
「すでに巻いているのがありますが……」
「もう一枚、とのお達しです」
「……わかりました」

 手渡された麻布を今巻いているものの上から巻く。元々見えることはなかったけれど、闇が一層深くなったような気がした。
 芙蓉は無言で春麗の背後に回ると、力を込めキツく縛り直した。瞼に食い込む麻布があまりに痛くて思わず声が漏れた。
 ズレないことを確認すると芙蓉はついてこいとばかりに先を歩く。春麗は芙蓉に連れられるままに母屋へと向かった。
 仕事以外で母屋に足を踏み入れるのは何年ぶりだろうか。そんなことを考えていると芙蓉は奥の部屋の前で立ち止まった。そこは確かに春麗の父の部屋だった。

「連れてきました」
「入れ」

 春明の声に春麗は背筋が震えるのを感じた。部屋に入ると父の前に座り春麗は頭を下げた。決して父の顔を見てはいけない。それは幼い頃から言われ続けたことだった。今は麻布で隠れているとは言え人の死を映す金色の目。万が一にも俊明の死を宣告するようなことがあってはいけない、と。
 頭を下げたままでいる春麗に俊明は冷たい声で言った。

「お前の輿入れが決まった」
「え……?」

 思わず顔を上げそうになるのを必死に堪えた。
 
(今、父は輿入れと言ったの? 誰の? 私の?)

 呆然とする春麗に俊明は淡々と告げる。

「三日後、迎えの者が来る。その日までにその汚い身体をなんとかしておけ」
「お、お父様!」
「話はそれだけだ。連れて行け」
「あっ」

 芙蓉は春麗の腕を掴み、引きずるように部屋をあとにした。春麗は何が何だかわからず、俊明から言われた言葉を反芻する。
 輿入れ、ということは結婚である。どこの誰に嫁がされるのかもわからないがこの目のことを知っていて結婚するというのだろうか。そんなことがあるのだろうか。
 答えのない問が春麗の頭の中で次々と浮かび上がる。
 それでももしかしたら、もしかしたら、と僅かな希望に縋ってしまうのだ。そんな希望などすぐに打ち砕かれるというのに。
 いつぶりだろうか、風呂に入り身体を流す。井戸の水で洗っていただけでは落ちきれなかった汚れが黒い水となって流れていった。
 風呂を出るといつもの襤褸ではなく真新しい襦裙が用意されていた。本当にこれを着てもいいのかと躊躇った。けれど今まで来ていた襤褸はいつの間にか片付けられていたので恐る恐る袖を通した。幼い頃着ていた襦裙を思い出させるような肌触りに

「あら、綺麗になりましたね」
「…花琳」
「まるでどこかいいところの娘のようよ。ああ、売女の娘だけれどお父様のおかげで出自だけはよかったわね」
「お母様を悪く言わないで!」
「おお、怖い。腰入りが決まったからって偉そうな口きくじゃない。その分じゃあ、自分がどこに嫁入りするか知らないようね」

 花琳は形のいい唇を意地悪く歪めた。

「花琳は何か知ってるっていうの……?」
「ええ。知りたい?」
「知り、たい」
「それが人に乞う態度?」

 花琳が春麗の為になることを言うことはない。そうわかってはいても、花琳の他に教えてくれる人もいない。春麗は縋るような気持ちで跪き花琳に頭を垂れた。

「教えて、ください」
「うふふ、惨めですね。誰にも相手にされない女って。でも、いいですわ。教えてさしあげる。お姉様が嫁ぐのは死の皇太子、いいえ。先帝が身罷られたから今は死の皇帝陛下。(りゅう)青藍(せいらん)様よ」
「皇帝、陛下……? 嘘……」
「ふふ、その様子じゃあお姉様も知ってらっしゃるみたいね。どうして死の皇帝陛下と呼ばれているか」

 その噂は下女として働いている春蘭の耳にも届いていた。けれど噂というのは尾ひれがつく。これもその類いの物だと思っていた。けれど。
 
「せっかくだから教えてあげる。新帝陛下の周りの人間はみんな死ぬの。母后、侍従、そして今度は先帝も……。あのお方は呪われてるのよ。ああ、死の目を持つあんたと似てるわね。あんたが妃となれば我が家には皇帝陛下との繋がりができる。皇帝陛下の呪いで死んでくれれば厄介払いもできる。ね、完璧でしょう?」

 花琳の口から紡がれる恐ろしい言葉に、春麗の手は震えていた。そんな春麗の姿に気分をよくしたのか花琳は楽しそうに笑った。

「まさか自分がどこかの旦那様に見初められたとでも思ってたの? そんな物好きいるはずがないでしょう? 代替わり直後とはいえ後宮に揃えられた妃が相次いで亡くなり、そんな状況に自分の娘を置いておけないと残っていた妃の大半が実家へ戻ってしまったってて話よ」
「それじゃあ後宮は……」
「行き場のない下働きの下女ばかりね。そんなの外聞が悪いからどこかの家が娘を出すってなったときにお父様が真っ先にお姉様を推したのよ。呪いなんて気にしないって言ってたけどみんなわかってるわ。うちの娘なら死んでも構わないからって思ってるってね」
「そん……な……」
「お姉様が死ぬところを見られないのは残念ですが、さっさと死んで我が家にいい知らせを届けてくださいね。うふふ、楽しみだわ」

 高笑いとともに花琳は春麗の部屋を出て行く。残された春麗は知らされた事実に愕然とする。
 けれど、春麗は抗う術を持たない。それに、このままこの部屋で一生を終えるのも後宮に入り、皇帝の呪いで死ぬのも大差ないのかも知れない。
 どこであろうと春麗が望まれぬ子であることに変わりはないのだから。