◇◇◇
『いや、まいったね。そう簡単には戻れないみたい』

 春霞は言いながら、艶々の己の黒髪を撫でた。幽体のくせして陰気さがない。華やかな外見のせいか、そこだけ後光でも射しているかのように、煌めいている。
 深刻な事態にも関わらず、彼はまるで楽しんでいるようだった。

「勘弁して下さい。貴方様がいると、仕事がしにくいんですよ」

 仕事中、青波は小声で非難するしかなかった。
 春霞が幽体となって青波のもとに現れてから、二日……。
 再会できたことは内心嬉しかったが、本当に死ぬかもしれない春霞には時間がない。青波は、必死に頭を働かせていた。しかし、いくら青波が焦ったところで、春霞は幽体で、誰にも視えないのだ。
 尚寝殿の女官の言い分なんて、後宮内部で揉み消されてしまうのが常だ。
 当面、仕事をこなしながら、協力者を見つけるしかなかった。
 幸い、一人の時間が多い仕事で助かったのだが、幽体の春霞は無駄に活発だった。
 後宮の仕事が珍しいのだろう。
 姿が視えないから、肉体に戻れたのかと思うと、女官達の働きぶりを観察していたりする。尚寝殿の仕事に関しては、色々と尋ねてくるくせして、自分のことは他人事だった。
 ……絶対に、おかしい。
 仕事を終えて、食堂で冷めた包子を一口で食べた青波は、そそくさと寝所に向かった。
 春霞と会話していても、人目につかない場所といったら、寝所くらいしかないということを青波もやっと気付いたのだ。
 明淑と二人部屋の辛うじて眠れる程度の広さしかない場所。だけど、明淑が食堂にいる間は、青波の一人部屋として使うことができる。
 寝台なんて豪華なものはなく、敷布代わりに使っている厚い布の上に、青波はちょこんと座った。
 一方の春霞は、青波の頭上を漂っている。随分と幽体生活に慣れたものだ。

「あ―。引き続き、陛下におかれましては、狭苦しい所で、申し訳ないのですが、今日こそ、きちんとお話を伺いたいと」
『気遣いは無用だよ。この二日は夢のようだったんだ。貴方の寝顔をずっと見ていることが出来たからね』
「見ていたんですか?」
『ふふふっ。幽体は便利だね。瞬きしなくて済むから、一瞬も逃さずに見ていることができる。正直、六年も経過して、貴方の見た目が大きく変わっていたら、すぐに私は受け入れることが出来るかって、心配していたんだけど、杞憂だったよ。貴方は相変わらず、美しい。誰にも嫁いでないのが奇跡だよ』

 恍惚としながら謎の告白をされたので、青波は背筋が寒くなった。

「昔から、陛下はそんなでしたっけ?」
『気づかなかったの?』

 弟のように思っていた春霞の印象が、一変してしまいそうだった。 
 大体、今まで着飾った経験もない。化粧すらしたことのない、青波の何処が美しいのか?
 春霞は見る目がない。そんなのだから、暗殺なんて企てられてしまうのだ。

「陛下はこの非常時に、随分と落ち着いていらっしゃいますよね? 政も気にならないのですか?」
『ああ、平気。どうせお飾りだからね。私がいなくても、どうにかなるんだ』

 ――終わったな。この国。
 唖然としている青波を宥めるように、春霞は喋り続けた。

『貴方にだけ姿が視えるのなら、私はそれで良いんだ。青波はいつも冷静で頼りになる』
「私は、顔には出ないだけですって」
『そう? 貴方は昔から常に落ち着いていた。私はずっと貴方のようになりたかったんだ』
「……まさかの遺言ですか?」
『どうせ死ぬのなら、もっと過激なことを、貴方にしておきたいんだけど』

 ふふふっと、痛ましい含み笑いに、月日の残酷さを青波は感じた。これでは、皇帝はおろか、ただの好色男だ。

「やはり、狂言なのでしょうか? それとも、陛下は死にたい願望をお持ちで」
『いや、だから、本当に殺されそうなんだって。困っているんだから』
「とても困っているようには、見えないのですが」

 この二日間、これの繰り返しだ。
 ずっと二人でいるのに、一向に話が進まなかったのは、青波が生真面目に春霞の相手をしてしまったからだ。
 犯人に心当たりがあるかと尋ねても、大勢いすぎて分からないと、のらりくらり。
 そのうち、昔の思い出話になって、話の方向が行方不明になる。負の連鎖だ。
 殺さると主張しながらも、殺されるのを望んでいるのではないかと、勘繰ってしまいそうだった。

「いっそ、もう、どうでも良くなりそうなんですが。でも、殺されそうだと聞いて、無視もできません。宜しければ、教えてください。陛下は、どんなふうにお命を狙われているのですか?」
『……冷たいな。青波』
「冷たくもなりますって」
『分かったよ』 

 突き放されたのが応えたのだろう。春霞は沈んだ声で答えた。

『斬られたわけじゃないよ。それだったら、とっくに大騒ぎしているでしょう。少しずつ弱らせて、発覚しにくい』
「毒……ですか?」

 ――何者かが春霞に、毒を盛っている。

『毒ならば、私の寝所に入ることが出来る人物だろうね。薬師か、近従か、妃か。さて、誰だと思う?』
「まるで、余興のようですね?」
「そんなもんだよ。皇帝なんて」

 膝を抱えながら、春霞は力なく笑った。
 簡易な寝間着姿に、下ろした長い髪。無防備な姿はどこか幼くて、孤独感が漂っていた。
 昔の青波だったら、そんな彼を抱きしめることに、何の躊躇もなかった。けれど、今は手を伸ばしたところで、春霞の身体をすり抜けてしまうだろう。

「まだ、特定するには材料が足りません。確かに、毒が一番、てっとり早い方法と思いますが。気になるのは、昔、陛下にお見せした私の術「護神法」。あれが二か月前から皇城で使えないことです。今回の件と関わりがあるのではないでしょうか?」
『ああ。初めて会った時、私に見せてくれた「あれ」か。瞬家の祖父さん仕込みの術。でも、青波さ。二ヶ月前から皇城で使えないってことは、貴方はそれまで、私のことを覗いてたってことだよね?』
「……そ、それは!」
『いいよ。知ってたから』
「へっ」

 さらっと流された言葉に、青波は愕然となった。
 知ってたのか!?
 再会してから、春霞と感情を交えないように接していたのに、彼は初めから青波の未練に気付いていたのだ。
 羞恥心で、青波は顔を真っ赤に染めた。しかし、春霞は何事もなかったように

『そう。じゃあ、暗殺者は術者ってこと? そんな人、私の近くにいたかな』

 ……しれっと、言葉を繋いでみせる。
 余裕綽々だ。

(絶対、勝ったとか思ってそう……)

 もやもやするが、仕方ない。
 青波も頭を切り替えるしかなかった。

「陛下。たとえば、自分が死んで得する人物などに、心当たりは?」
『残念ながら、得する人間しかいないんだけど?』
「では、金目当てでも、何でも、貴方様と一緒に犯人を探してくれるような方はいないのですか?」
『あまり、一緒にいたくない連中ばかりだな』
「真面目にお考え下さい。命が懸かっているんでしょう?」
『そうだね。だけど、ここは、私の母を死に追いやった元凶の嘉栄が六年前まで頂点にいた場所だ。未だにあいつが遺した負の遺産だらけなんだよ。人も制度もすべて。皆、私の敵ばかりだ』
「……春」

 思わず、名前を呼びそうになって、自制した。
 子供の頃、敵ばかりの皇帝になんてなりたくないと、春霞はよく泣いていたのだ。

『大丈夫。分かっているよ、青波。私は嘉栄と同じにはならない。あいつは父親に対する恨みから、皇族同士潰し合いをさせて、結果、流行り病でころっと死んでしまった。おかげで、この世で一番憎んでいた私に、帝位が転がりこんでくる格好となった。余計な因縁を生むなって、貴方は言うだろうって思ったから。私は耐えたんだよ。六年も。皇城に連行されていく私に、貴方は生きろとも言ったからね』
「………言いましたね」

 それも、鮮明に覚えている。
 半強制的に、皇城の使者に連れて行かれる春霞の嫌がる姿を……。

『生きていればいつか貴方に会えるって。それを希望に私は皇帝という役を演じた。私は即位してからも無力で、表立って貴方を捜すことすら出来なかったけど。……でも』

 春霞は正座したままの青波と同じ目線になって、切実に訴えた。

『貴方は違う。私に情があったのなら、貴方は護神法で、私に言伝することも可能だったはずだ。何か特別に話せない事情さえなければ……』
「私を恨んでいらっしゃる?」
『なぜ、そう思うの?」

 結局、またこの流れだ。
 彼はどうしても、禁術のことが知りたいらしい。

「陛下の悪いようにはなりませんから、ご安心下さい」

 小声で呟いた青波は気まずくて、顔を逸らした。
 しかし、春霞は諦めず、身体ごと青波の視線を追いかけてくる。整った目鼻立ち、天女の如く透き通った白皙が、すぐ眼前に迫ってくる。幽体に、どきどきしてしまう、自分が痛かった。
 こちらに伸びてくる手は繊細で、女性のように嫋やかなのに、しかし、爪が伸びていた。 
 ――まるで、獣のように鋭い爪の形状。
 青波が彼と会えなかった理由がそこにあった。

『青波。もちろん、私を殺そうとしている犯人探しも重要だよ。だけど、私はまず、貴方と自分の身体のことを知りたい。どうせ、今も一人で抱えこんでいるんでしょう? その家宝の刀とやらも関係しているとか?』
「刀は、あまり関係ありません」
「ふーん。じゃあ、刀も少しは関係があるということだね?」
「あっ」 

 ――やられた。
 さすがに、自分の身の上のことだ。皇帝であれば、様々な文献を取り寄せることも可能だろう。発覚しないはずがない。
 話すしかない……か?
 葛藤している青波に、真顔の春霞が更に近づいて来る。最早、騙すことは不可能だと、真実を口にしようとした瞬間……。

「あっー! 腹が立つ!」

 大声を張り上げ、明淑が青波と春霞の間に飛び込んで来たのだった。