◇◇◇
暫くこちらの顔を訝しげに眺めていた春霞だったが、青波だと確信した瞬間、満面の笑みを浮かべた。
『わあ! やっぱり、青波。瞬 青波じゃないか!』
「分かります……か?」
『そりゃあ、もちろん! 青波、全然変わってないね』
「誉めて下さっている?」
『相変わらず、可愛いってことだよ』
辛い過去ばかり記憶していた青波にとって、彼の気安さは怖いくらいだった。
……この人は、春霞本人なのか?
確かに、春霞の外見は変わった。微かに子供の頃の面影はあるものの、背は伸びて、手足も長くなった。虚弱だった昔に比べ、筋肉もついたみたいで、凛々しくなったが、それを上回るくらい、美しくなった。さらさらの長い髪は、女性よりも綺麗で、端正な顔立ちに浮かぶ微笑は、艶っぽい。
だけど、性格は……。
青波と別れた六年前と同じ。時間が止まったかのように、子供のままだった。
『苦節六年。青波とこうして会える日が来るなんて。感無量だよ』
「あの……。本当に六年前、燕州にいらした春霞様で?」
『酷いな。貴方がそれを疑うの?』
「あまりにも、気安い対応をされるので……」
『当然、貴方だからだよ。青波。私はね、ずっと貴方に会いたかったんだ。今も会いたいって念じていたら、目の前に貴方がいたんだ。想いが通じたってことだよね? 青波も私に会いたいと思ってくれたんでしょう。だって、ここって後宮みたいだし。青波は私のすぐ傍まで来てくれたんだよね?』
――軽い。まるで、昨日別れた友人と待ち合わせしたように、春霞は飄々と手を挙げた。
怜 春霞は、透国の皇帝……だ。
透国は大陸の中心である。圧倒的な広さを誇りながら、五百年続く大国である。
その大国の頂点に君臨している春霞は、先代皇帝の評判が頗る悪い分、市井の期待を大きく背負っていた。
皇帝となった彼の姿を、術を使い、青波も遠くから覗き見したことがある。
百官に傅かれ、玉座で号令を出す春霞には覇者の風格があり、余人が近づけない威厳があった。
どんなに旧知の仲であっても、春霞は青波を、警戒してしかるべき立場なのに……。
彼は子供の頃と同じように、にこやかに青波に近づいてくる。本来皇帝が絶対に立ち入ることはしないだろう、尚寝殿の庭を、無防備でしかない寝間着姿で駆けて来るのだ。
逆に、青波は一歩後退ってしまった。
「陛下は、一体、何をされたんですか?」
『何って? 貴方に会いたいなって、思っていただけだよ』
「会いたいだけで、こんなことに?」
『こんなこと?』
首を傾げている春霞に……。
「陛下」
改まって呼び掛けると、春霞はあからさまに眉間に皺を寄せた。
『何? 久々の再会で、ずっとその呼び方? 嫌な感じだな。名前呼びがいいよ』
「無理ですって」
暢気なものだと、怒鳴りつけたくなるのを堪えて、青波は叩頭した。
「畏れながら、陛下。危機的な状態ということに、お気づきですか?」
『どういうこと?』
目を丸くしている春霞は、やはり事態を把握していないようだった。青波は意を決して、現実を言葉にするしかなかった。
「幽体が抜け出ています」
『えっ?』
「放っておいたら、お命はないかと」
――幽体離脱。
青波には出来ない難易度の高い技を、春霞は成功させてしまったらしい。
しかし、無意識に幽体になっているということは、既に死んでいる可能性も高いということだ。
「まさか、陛下はすでに身罷って……」
『いやいや、私は死んでないよ』
さすがに、今の状況を理解したのか、春霞は全力で否定した。
「そうでしょうか」
『だってほら、足、あるし』
「私の経験上、足がある場合もあります」
『そうなんだ』
「はい」
『まあ、青波はこういうこと慣れているものね』
「不本意ながらですけど」
見つめ合っていると、春霞の完璧な容姿に気を取られてしまう。子供時代も愛らしかったが、上手く成長したものだ。
青波は照れを隠そうとして、必死に冷静を装った。
「ともかく、陛下が身罷われたとして」
『いや、だから、待って。殺さないで』
「しかし、ご病気と伺っていたので……」
『そう簡単に死なないって。他でもない、貴方なら知っているはずでしょう?』
「それを今、仰るのですか?」
意味深な春霞の問いかけに、青波は唇を噛みしめた。
(本物だな)
心半分、ここにいる春霞は偽者ではないかと疑っていた青波も、ようやく彼が本人であることを悟った。
この件について知っているのは、青波と春霞。そして、青波の祖父の三人しかいない。
反論できない青波に、春霞は更に言葉を重ねた。
『その辺りの話。貴方と別れるまでに、ちゃんと出来なかったよね。あの時はいろんなことが重なって、私はすぐ皇城に連行されてしまったから』
「陛下。そんなことより、今は……」
慌てて繕ったものの、無駄だった。
『ねえ、青波。貴方は六年前、私に術をかけたでしょう。そのおかげで、私は頑丈な身体を得ることになったんだ。だから、簡単には死なないって知っているはずだ』
「申し訳……」
『いいって! 謝らないで。責めているわけじゃないんだ』
膝をついて謝罪しようとしたら、ぴしゃりと春霞に止められた。
『むしろ感謝しているんだ。あの時、貴方は私を救ってくれた。まあ、少しばかり、普通と身体の作りがおかしいんじゃないかなって、思うことはあっても、貴方に対して怒るなんて、絶対に有り得ないよ。それに、六年も経ってしまったけど、私のことが気になって、貴方もわざわざ後宮まで会いに……』
「いいえ。私はただ、貴方様に渡してしまった家宝を……」
『えっ?』
「家宝を、回収に」
『何、それ?』
顔を上げたら、血走った目で睨まれていた。
……怖い。舌の根も乾かないうちから、怒っているではないか?
「陛下も覚えていらっしゃると思いますが、別れの時に、私が貴方様にお渡しした環首刀。あれ、祖父に訊いたら、我が家の家宝だったらしくて」
『へえ。……で? それを返せと。貴方は私に命令しに来たわけ?』
「滅相もない。うちの怪しげな家宝を、畏れ多くも皇帝陛下のお手元にいつまでも置いておくべきではないと」
『遠路遥々、後宮まで乗り込んできて、それが目的って。青波は私のこと、どうでも良かったの?』
「違いますよ。当然、心配しております。しかし、それが身近にある方が、陛下に禍が降りかかるのではないかと、気が気でなく……」
『今、まさに私が幽体になっている件とか?』
「そんなところです。もしかしたら、刀の効力かもしれません。刀に宿っている力が持ち主である私のところに導いた可能性もあります」
などと、もっともらしく、言い放ってみたが……。元々、あの刀は青波が持っていなければ、あまり意味のないものだ。
「天冩刀」と呼ぶらしい。
仰々しい名前だが、瞬家の血を継ぐ者でなければ、ただの鈍な剣だ。実際、青波も二か月前、祖父に話を聞くまでは、家宝という認識はなかった。正直に話すと、ややこしくなりそうなので、青波はもしも直接、春霞と話す機会があったら、絶対に誤魔化そうと決めていた。
「ちなみに、陛下。私のことは、誰かにお話ししたりしていませんよね?」
『はっ?』
「ほら、側近とか、お妃様とか。いらっしゃるじゃないですか」
『もしかして、青波。妃のことを気にしているの?』
「なぜ?」
春霞は現在、三人の妃を娶っている。
そのくらい後宮で働く前から、青波も知っていた。だけど、今、春霞が嬉しそうな理由が分からない。
「まさか。私はただ単に、こちらに私のような術者がいないか、気になっただけで。あの刀が術者とか、側近の方や、お妃様などに渡ってしまうと、面倒だな……と」
『……最低』
春霞はがくりと肩を落とした。
『青波。私はここにいる人間を誰も信用していないよ。妃なんてもっての他だ。元々、私は後宮なんて、大嫌いなんだから』
「いや、別に、陛下が後宮を好きでも、嫌いでも、私はどうでも……」
『大嫌いなんだって!』
「はあ」
そんな事情、知りたくもないから、青波は白けた気持ちで、流そうとした。きっと春霞は幼馴染に妻の存在が知れることが気恥ずかしくて、むきになって嘘を吐いているのだろう……と。
しかし、次の春霞の一言は強烈だった。
『……私ね、病気じゃなくて。誰かに殺されそうなんだよ』
暫くこちらの顔を訝しげに眺めていた春霞だったが、青波だと確信した瞬間、満面の笑みを浮かべた。
『わあ! やっぱり、青波。瞬 青波じゃないか!』
「分かります……か?」
『そりゃあ、もちろん! 青波、全然変わってないね』
「誉めて下さっている?」
『相変わらず、可愛いってことだよ』
辛い過去ばかり記憶していた青波にとって、彼の気安さは怖いくらいだった。
……この人は、春霞本人なのか?
確かに、春霞の外見は変わった。微かに子供の頃の面影はあるものの、背は伸びて、手足も長くなった。虚弱だった昔に比べ、筋肉もついたみたいで、凛々しくなったが、それを上回るくらい、美しくなった。さらさらの長い髪は、女性よりも綺麗で、端正な顔立ちに浮かぶ微笑は、艶っぽい。
だけど、性格は……。
青波と別れた六年前と同じ。時間が止まったかのように、子供のままだった。
『苦節六年。青波とこうして会える日が来るなんて。感無量だよ』
「あの……。本当に六年前、燕州にいらした春霞様で?」
『酷いな。貴方がそれを疑うの?』
「あまりにも、気安い対応をされるので……」
『当然、貴方だからだよ。青波。私はね、ずっと貴方に会いたかったんだ。今も会いたいって念じていたら、目の前に貴方がいたんだ。想いが通じたってことだよね? 青波も私に会いたいと思ってくれたんでしょう。だって、ここって後宮みたいだし。青波は私のすぐ傍まで来てくれたんだよね?』
――軽い。まるで、昨日別れた友人と待ち合わせしたように、春霞は飄々と手を挙げた。
怜 春霞は、透国の皇帝……だ。
透国は大陸の中心である。圧倒的な広さを誇りながら、五百年続く大国である。
その大国の頂点に君臨している春霞は、先代皇帝の評判が頗る悪い分、市井の期待を大きく背負っていた。
皇帝となった彼の姿を、術を使い、青波も遠くから覗き見したことがある。
百官に傅かれ、玉座で号令を出す春霞には覇者の風格があり、余人が近づけない威厳があった。
どんなに旧知の仲であっても、春霞は青波を、警戒してしかるべき立場なのに……。
彼は子供の頃と同じように、にこやかに青波に近づいてくる。本来皇帝が絶対に立ち入ることはしないだろう、尚寝殿の庭を、無防備でしかない寝間着姿で駆けて来るのだ。
逆に、青波は一歩後退ってしまった。
「陛下は、一体、何をされたんですか?」
『何って? 貴方に会いたいなって、思っていただけだよ』
「会いたいだけで、こんなことに?」
『こんなこと?』
首を傾げている春霞に……。
「陛下」
改まって呼び掛けると、春霞はあからさまに眉間に皺を寄せた。
『何? 久々の再会で、ずっとその呼び方? 嫌な感じだな。名前呼びがいいよ』
「無理ですって」
暢気なものだと、怒鳴りつけたくなるのを堪えて、青波は叩頭した。
「畏れながら、陛下。危機的な状態ということに、お気づきですか?」
『どういうこと?』
目を丸くしている春霞は、やはり事態を把握していないようだった。青波は意を決して、現実を言葉にするしかなかった。
「幽体が抜け出ています」
『えっ?』
「放っておいたら、お命はないかと」
――幽体離脱。
青波には出来ない難易度の高い技を、春霞は成功させてしまったらしい。
しかし、無意識に幽体になっているということは、既に死んでいる可能性も高いということだ。
「まさか、陛下はすでに身罷って……」
『いやいや、私は死んでないよ』
さすがに、今の状況を理解したのか、春霞は全力で否定した。
「そうでしょうか」
『だってほら、足、あるし』
「私の経験上、足がある場合もあります」
『そうなんだ』
「はい」
『まあ、青波はこういうこと慣れているものね』
「不本意ながらですけど」
見つめ合っていると、春霞の完璧な容姿に気を取られてしまう。子供時代も愛らしかったが、上手く成長したものだ。
青波は照れを隠そうとして、必死に冷静を装った。
「ともかく、陛下が身罷われたとして」
『いや、だから、待って。殺さないで』
「しかし、ご病気と伺っていたので……」
『そう簡単に死なないって。他でもない、貴方なら知っているはずでしょう?』
「それを今、仰るのですか?」
意味深な春霞の問いかけに、青波は唇を噛みしめた。
(本物だな)
心半分、ここにいる春霞は偽者ではないかと疑っていた青波も、ようやく彼が本人であることを悟った。
この件について知っているのは、青波と春霞。そして、青波の祖父の三人しかいない。
反論できない青波に、春霞は更に言葉を重ねた。
『その辺りの話。貴方と別れるまでに、ちゃんと出来なかったよね。あの時はいろんなことが重なって、私はすぐ皇城に連行されてしまったから』
「陛下。そんなことより、今は……」
慌てて繕ったものの、無駄だった。
『ねえ、青波。貴方は六年前、私に術をかけたでしょう。そのおかげで、私は頑丈な身体を得ることになったんだ。だから、簡単には死なないって知っているはずだ』
「申し訳……」
『いいって! 謝らないで。責めているわけじゃないんだ』
膝をついて謝罪しようとしたら、ぴしゃりと春霞に止められた。
『むしろ感謝しているんだ。あの時、貴方は私を救ってくれた。まあ、少しばかり、普通と身体の作りがおかしいんじゃないかなって、思うことはあっても、貴方に対して怒るなんて、絶対に有り得ないよ。それに、六年も経ってしまったけど、私のことが気になって、貴方もわざわざ後宮まで会いに……』
「いいえ。私はただ、貴方様に渡してしまった家宝を……」
『えっ?』
「家宝を、回収に」
『何、それ?』
顔を上げたら、血走った目で睨まれていた。
……怖い。舌の根も乾かないうちから、怒っているではないか?
「陛下も覚えていらっしゃると思いますが、別れの時に、私が貴方様にお渡しした環首刀。あれ、祖父に訊いたら、我が家の家宝だったらしくて」
『へえ。……で? それを返せと。貴方は私に命令しに来たわけ?』
「滅相もない。うちの怪しげな家宝を、畏れ多くも皇帝陛下のお手元にいつまでも置いておくべきではないと」
『遠路遥々、後宮まで乗り込んできて、それが目的って。青波は私のこと、どうでも良かったの?』
「違いますよ。当然、心配しております。しかし、それが身近にある方が、陛下に禍が降りかかるのではないかと、気が気でなく……」
『今、まさに私が幽体になっている件とか?』
「そんなところです。もしかしたら、刀の効力かもしれません。刀に宿っている力が持ち主である私のところに導いた可能性もあります」
などと、もっともらしく、言い放ってみたが……。元々、あの刀は青波が持っていなければ、あまり意味のないものだ。
「天冩刀」と呼ぶらしい。
仰々しい名前だが、瞬家の血を継ぐ者でなければ、ただの鈍な剣だ。実際、青波も二か月前、祖父に話を聞くまでは、家宝という認識はなかった。正直に話すと、ややこしくなりそうなので、青波はもしも直接、春霞と話す機会があったら、絶対に誤魔化そうと決めていた。
「ちなみに、陛下。私のことは、誰かにお話ししたりしていませんよね?」
『はっ?』
「ほら、側近とか、お妃様とか。いらっしゃるじゃないですか」
『もしかして、青波。妃のことを気にしているの?』
「なぜ?」
春霞は現在、三人の妃を娶っている。
そのくらい後宮で働く前から、青波も知っていた。だけど、今、春霞が嬉しそうな理由が分からない。
「まさか。私はただ単に、こちらに私のような術者がいないか、気になっただけで。あの刀が術者とか、側近の方や、お妃様などに渡ってしまうと、面倒だな……と」
『……最低』
春霞はがくりと肩を落とした。
『青波。私はここにいる人間を誰も信用していないよ。妃なんてもっての他だ。元々、私は後宮なんて、大嫌いなんだから』
「いや、別に、陛下が後宮を好きでも、嫌いでも、私はどうでも……」
『大嫌いなんだって!』
「はあ」
そんな事情、知りたくもないから、青波は白けた気持ちで、流そうとした。きっと春霞は幼馴染に妻の存在が知れることが気恥ずかしくて、むきになって嘘を吐いているのだろう……と。
しかし、次の春霞の一言は強烈だった。
『……私ね、病気じゃなくて。誰かに殺されそうなんだよ』