「夏生っ!」
勢いよく、俺は跳ね起きた。心臓が大きく脈打っており、手や背中には尋常じゃないくらいの汗をかいている。
「あれ……? 夢?」
辺りを見渡すと、そこには自分以外、誰もいなかった。
明るい日光が室内に降り注ぎ、少し開かれた窓からはそよ風が吹き込んでいる。それにつられてカーテンが小さくなびき、車のエンジン音がどこからともなく運ばれてくる様子は、平和そのものだった。
夜の帳が下りた病室でもなければ、悲しげな顔の夏生もいない。
「……うん。多分、夢……だよな」
よくよく考えると、走り去った夏生がすぐに俺のところに戻ってきているのはおかしいし、何よりさっきの夏生は俺の声がまるで届いていないみたいだった。その前にも何か夢を見ていたような気がするし、多分その続きか何かだろう、と俺は無理矢理結論付けた。
そこでふと左手を見ると、点滴の管が目に入った。点滴なんて、入院したての頃に発作で倒れて以来だった。それが意味するところ、それは……
「そっか。俺、ショッピングモールで倒れて……」
夏生を、追いかけられなかったんだ。
安堵したのも束の間、今度は大きな後悔の念が押し寄せてきた。なんであのタイミングで発作が起きるのか。俺の高校生活だけでは飽き足らず、やっと見出した幸せを繋ぎとめる機会までも奪っていく。この発作が、病気が、たまらなく憎かった。
「っ! 霜谷!」
途端、重々しい扉の開閉音とともに、聞き馴染みのある声が室内に響いた。
「岡本……」
「霜谷! お前、目が覚めたんだな!」
岡本は俺のそばに駆け寄ると、「良かった、ほんと良かった……!」と何度も繰り返した。
目に涙を浮かべて喜んでくれる幼馴染。そんな彼に感謝の気持ちが込み上げつつも、それと同時に罪悪感も膨れ上がってきた。
俺は、こんなにも心配してくれてるやつに、ずっと夏生とのこと隠してたんだよな……。
夏生の正体、能力、病気好転のうそに、事実を隠した一緒の外出。岡本のことを信用してなかったわけじゃない。口止めされていなかったし、言おうかと思ったこともあった。それでも、俺は結局ずっと黙って、隠していた。また、日常が崩れ落ちていく気がして、怖かったから……。
「あ……! 霜谷くん、目を覚ましたんだ!」
遅れて、佐原さんも病室に入ってきた。今まで見たことがないにこやかな表情。あの屋上の一件で、少しは距離を縮めることができたのだろうか。
「ほんとに良かった! もう、心配させないでね」
……うん。多分、縮められた。
あの時とは違うその様子に、俺は嬉しさを感じた。
でも、そんな親友の彼女にも、夏生の一番の友達にも、俺は隠し事をしている。
「佳くん! いつまで泣いてるの。霜谷くんが困ってるよ?」
「いいじゃんか。嬉しいんだから」
「わっ。涙と鼻水でシーツがぐしょぐしょだよ。せめて拭いて!」
そっか。
仲直り、しっかりできたんだ。
前よりも親しげで、楽しそうな二人の様子がそれを物語っていた。嬉しかった。
……夏生が見たら、どんなに喜んだだろう。
「あ、私、先生と霜谷くんのお母さん呼んでくるね。さっきまで話してて、目が覚めてたら呼んでくださいって言われたから」
佐原さんはそう言うと、岡本に「私が帰ってくるまでに拭いておいてね!」とティッシュを渡し、病室を出て行った。
「拭いて拭いてって、そんなに酷くな……くもないな……。わ、悪い! すぐ拭くから!」
今初めて気づいたようで、わたわたしながら佐原さんからもらったティッシュでシーツを拭き出す岡本。その様子は……さっきの佐原さんの様子もそうだけど、夏生の話題を避けているように見えた。
「……なぁ。夏生とのこと、聞かないのか?」
そこで、ピタリと岡本が手を止めた。
なんで、俺はこんなことを聞くんだろう。自分でも、わからなかった。
「…………言いたくなったら、言ってくれ。俺たちは、大丈夫だから」
岡本は目を合わせずに、それだけ言った。
その優しさが、どうしようもなく痛く、苦しかった。
もうさっきから、俺の心の中はぐちゃぐちゃだった。
しばらくして、佐原さんが母親と先生を伴って戻ってきた。
「ほんとにもう、心配ばっかりかけて……。でも、本当に無事で良かった……」
と、母親からは岡本以上のくしゃくしゃ顔で心配され、
「佳生さん、無理はしないよう言ったでしょう? 体に負担をかける過度な運動は厳禁。それに――」
先生からは、たっぷり三十分以上のお叱りをもらった。
罰と経過観察を兼ねて、当分の間は外出禁止となった。すぐにでもショッピングモール裏の林の中に消えた夏生を探しに行きたかったが、今回は大人しく従うことにした。あの日は夏生と別行動していたこともあって、持たされていた三本の鎮静剤を全て使った挙句、実質四回目の発作が起こり、気を失ってしまったから。
「――それから、先ほど精密検査の結果が出ました。相変わらず、基礎体温が非常に高い数値を示していること以外は、これといって異常は見当たりませんでした。それと合わせて、今回発作が今までで最も多い四回も起こったことを踏まえると、状態はあまり芳しくありません」
「そうですか……」
ベッド脇の丸イスに座っている母親の手が、震えていた。
一緒に聞いていた岡本や佐原さんは思う節があるのか、俺と目を合わせようとしない。
「佳生さん。前みたいにまた回復する可能性もありますから、気を落とさないようにしてくださいね」
「……はい」
そんな可能性はないとわかっていながら、俺は返事をした。
これまでの好調は全て、夏生のおかげだ。夏生が発作を抑えてくれていたから、俺は外出許可が下りるまでに回復したのだと、先生に、家族に、岡本と佐原さんに、思わせることができていた。
でも、結局それは、うそでしかない。
先生や家族をいたずらに安心させ、大切な友達をぬか喜びさせているだけ。偽りに塗り固められた日常は脆く、容易に崩れ去っていく。
そしてそれは、夏生との日々も同じなのだ。
「それでは、私はこれで失礼します。佳生さん、くれぐれも、気をつけてくださいね」
「はい」
病室から出て行く先生を見送りつつ、俺はさらに思考にふける。
……でも、基礎体温が異常ってことは、まだ治ったわけじゃないんだよな。
――佳生の病気は私が治すから心配しないでね
夏生と契約を交わしたあの裏庭で、彼女が投げかけてくれた言葉が、不意に蘇った。
「佳生、私もそろそろ帰るわね。用もないのにベッドから離れたりしないのよ? それと、何か異変があったらすぐにナースコールしなさいね」
「うん」
おもむろに立ち上がる母親に、俺は生返事を返す。
「あ、じゃあ、面会時間も終わるし、俺たちもそろそろ行くか」
「そうだね。霜谷くん、お大事にね」
「ありがとう」
岡本たちも母に続いて病室を後にし、室内には俺一人になった。
きっと、夏生はまた来る。
あの夏生が、このままいなくなるはずがない。
次に来た時は、絶対離さない。
直後に来た軽い発作を我慢しながら、俺は心の中で呪文のように唱え続けた。病室に俺以外、誰もいないことを自覚したのは、発作がある程度収まってからだった。
***
――それから、僅か三日後のことだった。
「し、信じられません……! 基礎体温が、正常に戻っています!」
先生のそんな言葉とともに、発作が一度も起きなくなったのは――。