夢を、見ていた。
 いつか見たような、懐かしい夢。
 セミがうるさく合唱を奏で、新緑の深い香りが鼻孔をくすぐる。
 でもそんなことはどうでもよくて、泣き出しそうな気持ちを必死にこらえている自分が、そこにいた。

「はぁ……はぁ……」

 疲れて重い足を、引きずるように前へと進める。
 それなのに、思った以上に先に進めない。

 ――あ、そうか。俺、今よりも小さいんだ。

 視線の高さが、随分と低い。おそらく、小学二年生かそこら。
 そりゃ進むわけないよな、と思いつつも、夢の中の俺は無我夢中で森の中を歩いていた。
 直後、視界が一瞬暗くなった。
 なんだろ? と思う間もなく、光はすぐにその色を取り戻す。

 ――変な夢だな。

 だいたい夢は変なものだが、なぜかその時はそう思った。

 ――てか、あれ? 前もこんなことが……。

 不思議に思っていると、ふと右手に冷たい感触があった。
 誰かの手。
 小さくて綺麗な、懐かしい手が、俺の右手をつかんでいた。
 そのままグイッと前に引っ張られ、一目散に駆け出したかと思うと、途端に視界が開けた。

「ここまで来れば、後は大丈夫だよね?」

 手を離しながら、彼女はそう問いかけてきた。

「えっと、ありがとう」

 いつか発した言葉を、もう一度口にする。

「その、君は……」

 そう言いかけた途端、視界がフェードアウトした。
 緑色の野原も、セミの鳴き声も、彼女の笑い声も。視界も音も、何もかもが自分から遠ざかっていく。

 ――ああ、覚めるのか。

 無意識のうちにそう感じた。

 ――覚めたく、ないな。

 そんな意思とは裏腹に、意識はどんどん現実へと向かっていた。

「……あと、僕の名前から、一…………る……」

 夢と現実の狭間で、夢の中の自分は何か言葉を口にしていた。でも、もはやその音は遠すぎて聞き取れない。

 ――この言葉……俺は、知っている気がする。

 そして相手の方も、何か言っていた。

「ほんとに、あり……と……」

 俺を包み込んでいた音はさらに遠のき、視界のほとんどが白で覆いつくされていた。それでも、その後も何かのやり取りが続いていた。
 何を言っているんだろう。
 何を見ているんだろう。
 そんなことを思いながらも、この先に、今の俺に必要な何かがあることだけは、直感的にわかった。



 ***



「……っ!」

 目を開けると、そこには見知った天井が広がっていた。
 見知ってはいても、見ていて気持ちのいいものではない。だってそれは、長く入院していないと、感じられないものだから。
 病室の中には闇が溢れていて、カーテンの隙間から差し込む微弱な月明かりだけが、唯一の光だった。
 そこでふと、その光が視界から消えた。

「夏生っ……⁉」

 光があったはずのところに視線を向けると、彼女が笑顔を浮かべて立っていた。でもその笑顔は、すぐに曇っていく。

「夏生……! どうして、あの時――」

「ごめんね。もうこれ以上、契約は続けられないよ……」

 俺の声が聞こえていないかのように、彼女は言った。そして、いつかやったみたいに、俺の右手を両手で包み込み、祈るように目を閉じた。

「夏生! 待っ――」

 そこで、唐突に俺の意識は途切れた。