厨は各建物に設置される予定である。
しかし、建設途中の現在は後宮の片隅に仮設の巨大厨が用意されていて、そこに大勢の宮女が勤めていた。
明央殿の厨だけはすでに稼働中であり、灰姫、皇后、景美人らの食事はそこで作られている。いうなればここで働いているのは次点とみなされた者ばかりである。
彼女らは今はお昼の準備に追われていた。
「い、いらっしゃいませ、春英殿……と」
春英の登場に宮女は緊張をみなぎらせて出迎える。
「明晶殿下の妃としてやって参りました、灰姫です」
「お、王太子妃様。このようなところに、わざわざようこそ」
「今後の割り振りの件で参りました」
「は、はい」
「各々の調理の得意不得意を分類して、この高台に自己申告してください」
高台は紙を持って前に出た。
「高台、清月、ここは任せました」
「はい、灰姫様」
清月は元々はとある妃嬪の厨にいた。
よく灰姫の元に食べ物をこっそり持ってきてくれた宮女で、灰姫があのあばら家で飢え死にしなかったのは彼女のおかげである。
灰姫自身、清月に調理を教わっているので、ある程度の食事の支度は自分でもできる。
折り悪くあばら家に誰も来られないときは、自分ですべての用意をしていたものだ。
清月は灰姫と同じく字が書けないので、ここでは高台と組ませる。
「灰姫様、お昼はここで食べていかれては」
春英が提案してくる。日はちょうど直上に上がったところであった。
「そうね、そうしたいわ」
灰姫がうなずいたので、慌てて厨の宮女は灰姫に簡単な昼食を用意した。
それを食べ終えると、灰姫はせわしなく立ち上がった。
「では、次は書庫にお願いします、春英殿」
「はい」
こうして灰姫は丸一日かけて、建設途中の後宮を周り、そこにいる者達と接見した。
多くを話す時間が取れたわけではない。それでも後宮に勤めている者たちのほとんどと出会うことができた。
司将軍の元に戻ると、灰姫の部下も司将軍の部下も関係なく車座になって和気藹々と夕食を囲んでいた。
「おお、お帰りなさい、灰姫殿」
司将軍は笑顔で灰姫を出迎えた。
「あなたの兵はすばらしかった。李燈殿など我らの中でも上から数えた方が早い」
「それは何より」
灰姫はうなずいた。李燈が茶を含みながら、照れ笑いをする。彼は一人だけ食事をとっていなかった。灰姫を待っていてくれたのだろう。
「では序列表を作っていただけますか」
「はい、お任せください。一両日中には明央殿にお送りします」
「お願いします。李燈、帰るわよ」
「はい!」
李燈は立ち上がり、灰姫の元に駆けてきた。
「……どうだった?」
「司将軍はとてもお強かったです」
李燈は興奮した様子でそう言った。
「本当は明晶殿下の黒猛国侵攻にも付き合いたかったようですが、明晶殿下たっての希望で、新都明陽に残られたとか。俺がああなるにはどれほどの研鑽が必要か……」
しみじみと李燈はつぶやいた。
「そう」
「灰姫様は……他の場所はいかがでしたか」
「皆、戸惑っていましたが応えてはくれたわ。あとは高台達のまとめを待つばかりね」
「そうですか。うまくいくとよいですね」
「ええ、でも、明日も忙しくなるわ」
明日は明央殿にいる者達ひとりひとりと会う予定だった。
現在、明央殿にいる者の多くは皇后の部下である。
しかし、皇后はそのものたちも未来の皇后、つまり明晶の妃に譲って構わないと春英に指図していた。
彼ら彼女らの意思を直接、確認する予定なのだ。
「ふう……」
灰姫はうんと背伸びをした。
隣で春英が密かに微笑んだ。
翌日、灰姫は春英と李燈を伴って、朝一番に良皇后に謁見した。
皇后の部下へ接見する許可をもらいに行ったのだ。
「ここではあなたが一番偉く、全権を委任すると申したはずです」
淡々と皇后は答えた。
「この後宮で何をするにしても私にわざわざ許可を取る必要はございません」
「ありがとうございます。そのお墨付きをいただきたくて参りました」
「……春英、どうなのですか、首尾は」
灰姫のお礼にどこか呆れたような顔をしながら、皇后は灰姫の後ろに控える春英に尋ねた。
「今はまだ、なんとも申し上げがたいです」
春英は素直に進捗を報告した。
「正念場は、報告の出揃う明日以降かと」
「そうですか」
良皇后はうなずいた。皇后は春英の穏やかな様子から、口にはしない春英の考えを読み取っていた。春英はこの試みがうまくいくことを信じている。
灰姫たちは良皇后の部屋を辞した。
良皇后の配下には彼女が皇后として立つ前から仕えているものが多かった。故に年配者が多かった。
中には良皇后が皇后でなくなった後には職を辞すつもりのものもいたし、最後の最後まで良皇后に付き従いたいと希望するものもいた。
灰姫は彼らの意思を尊重した。
それでも良皇后の部下は多かったので、灰姫が皇后になったとき、灰姫付になることを約束してくれるものも多く残った。
灰姫はそのものたちを高位に置くことにした。
「長く良皇后陛下に仕えていたのだもの、きっと役に立ってくれる……わよね?」
「ええ、必ずや」
続いて灰姫たちは景美人のところへ向かった。
景美人はすでに部下の割り振りを終えていた。
「この者達を手元に残します。後は煮るなり焼くなりお好きなように」
「ありがとうございます」
景美人が手元に残したのは景家から連れてきたものがほとんどであった。
元は黒猛国の後宮に勤めていた者たちだ。黒猛国の姫である灰姫に仕えるのにも、特に反発は感じていないようだった。
「……これまで、お力になれず……」
その内の一人がどこか申し訳なさそうに灰姫に頭を下げた。
「構いません。皇帝陛下にいないものとして扱われていた私の力になれなかったことなど、あなたが気に病むことではありません。それでも……気に病むというのならこれから大いに役立ってもらいます」
「はい」
こうして灰姫は会うべき人間全員に会った。
「はー……」
春英の見ている前で灰姫は臆面もなく寝台に倒れ込んだ。
「……春英殿、各所からの序列表は届きました?」
「はい、滞りなく」
「それでは、それを元に最後の詰めをいたしましょう。そうしたら、黒猛国から連れてきた者達に大済国の文化や風習を教える講義を開いてほしいの」
「わかりました」
「武官は司将軍に頼むとして……女官はあなたね。宮女と文官で適任者はいるかしら」
「宮女は部署ごとに分けた方がよいでしょうね。文官は官吏に頼みましょう。出入りしているものに適任者がいます」
「そちらの手配は頼んでいいかしら」
「はい、もちろんでございます」
「じゃあ、今日は休むわ……。明日は大詰めね」
「そうですね」
春英が去って行く。清月がお茶を煎れてくれる。
寝台に腰掛けて、灰姫はボンヤリと湯気を見つめた。
「……李燈」
「はい、灰姫様」
「これって……夢ではないのよね……」
「どうしました、藪から棒に」
「私がこんな大きな場所で大勢の人を相手に……なんだかふとした瞬間に怖くなる」
「……灰姫様……」
「……ああ、明晶殿下は今頃首都でどうお過ごしかしら。……私、手紙が書ければよかったのに……」
「……ここにいない方の話をしてもしょうがありませんよ」
李燈は少しだけ顔をしかめた。
「……そう、ね。李燈は……李燈は明晶殿下のこと、もしかして嫌い?」
「……どうでしょう」
李燈は困ったように笑った。
「灰姫様をあんな場所から連れ出して、それに俺まで連れて行ってくれた。それは感謝しています。しているけど……」
李燈は天井を仰いだ。
「たまにあの時、いっしょに逃げていたらどうなっていたろうって、思います」
「…………李燈」
どうなっていただろう。
灰姫ひとりであれば、まったく生きていける気がしないけれど、李燈となら生きていく未来もあったのかもしれない。
「……灰姫様、今だって……今だってそうです。俺は明晶殿下に剣をもらいました。これ以上ない信頼です。でも、俺の主は灰姫様です。灰姫様が逃げたかったら、いつでも俺に命じてください。ここからでもいっしょに逃げましょう」
「……ありがとう」
灰姫はうっすらと笑った。
「それだけで、私は十分」
逃げることは、やっぱり想像がつかなかった。
しかし、建設途中の現在は後宮の片隅に仮設の巨大厨が用意されていて、そこに大勢の宮女が勤めていた。
明央殿の厨だけはすでに稼働中であり、灰姫、皇后、景美人らの食事はそこで作られている。いうなればここで働いているのは次点とみなされた者ばかりである。
彼女らは今はお昼の準備に追われていた。
「い、いらっしゃいませ、春英殿……と」
春英の登場に宮女は緊張をみなぎらせて出迎える。
「明晶殿下の妃としてやって参りました、灰姫です」
「お、王太子妃様。このようなところに、わざわざようこそ」
「今後の割り振りの件で参りました」
「は、はい」
「各々の調理の得意不得意を分類して、この高台に自己申告してください」
高台は紙を持って前に出た。
「高台、清月、ここは任せました」
「はい、灰姫様」
清月は元々はとある妃嬪の厨にいた。
よく灰姫の元に食べ物をこっそり持ってきてくれた宮女で、灰姫があのあばら家で飢え死にしなかったのは彼女のおかげである。
灰姫自身、清月に調理を教わっているので、ある程度の食事の支度は自分でもできる。
折り悪くあばら家に誰も来られないときは、自分ですべての用意をしていたものだ。
清月は灰姫と同じく字が書けないので、ここでは高台と組ませる。
「灰姫様、お昼はここで食べていかれては」
春英が提案してくる。日はちょうど直上に上がったところであった。
「そうね、そうしたいわ」
灰姫がうなずいたので、慌てて厨の宮女は灰姫に簡単な昼食を用意した。
それを食べ終えると、灰姫はせわしなく立ち上がった。
「では、次は書庫にお願いします、春英殿」
「はい」
こうして灰姫は丸一日かけて、建設途中の後宮を周り、そこにいる者達と接見した。
多くを話す時間が取れたわけではない。それでも後宮に勤めている者たちのほとんどと出会うことができた。
司将軍の元に戻ると、灰姫の部下も司将軍の部下も関係なく車座になって和気藹々と夕食を囲んでいた。
「おお、お帰りなさい、灰姫殿」
司将軍は笑顔で灰姫を出迎えた。
「あなたの兵はすばらしかった。李燈殿など我らの中でも上から数えた方が早い」
「それは何より」
灰姫はうなずいた。李燈が茶を含みながら、照れ笑いをする。彼は一人だけ食事をとっていなかった。灰姫を待っていてくれたのだろう。
「では序列表を作っていただけますか」
「はい、お任せください。一両日中には明央殿にお送りします」
「お願いします。李燈、帰るわよ」
「はい!」
李燈は立ち上がり、灰姫の元に駆けてきた。
「……どうだった?」
「司将軍はとてもお強かったです」
李燈は興奮した様子でそう言った。
「本当は明晶殿下の黒猛国侵攻にも付き合いたかったようですが、明晶殿下たっての希望で、新都明陽に残られたとか。俺がああなるにはどれほどの研鑽が必要か……」
しみじみと李燈はつぶやいた。
「そう」
「灰姫様は……他の場所はいかがでしたか」
「皆、戸惑っていましたが応えてはくれたわ。あとは高台達のまとめを待つばかりね」
「そうですか。うまくいくとよいですね」
「ええ、でも、明日も忙しくなるわ」
明日は明央殿にいる者達ひとりひとりと会う予定だった。
現在、明央殿にいる者の多くは皇后の部下である。
しかし、皇后はそのものたちも未来の皇后、つまり明晶の妃に譲って構わないと春英に指図していた。
彼ら彼女らの意思を直接、確認する予定なのだ。
「ふう……」
灰姫はうんと背伸びをした。
隣で春英が密かに微笑んだ。
翌日、灰姫は春英と李燈を伴って、朝一番に良皇后に謁見した。
皇后の部下へ接見する許可をもらいに行ったのだ。
「ここではあなたが一番偉く、全権を委任すると申したはずです」
淡々と皇后は答えた。
「この後宮で何をするにしても私にわざわざ許可を取る必要はございません」
「ありがとうございます。そのお墨付きをいただきたくて参りました」
「……春英、どうなのですか、首尾は」
灰姫のお礼にどこか呆れたような顔をしながら、皇后は灰姫の後ろに控える春英に尋ねた。
「今はまだ、なんとも申し上げがたいです」
春英は素直に進捗を報告した。
「正念場は、報告の出揃う明日以降かと」
「そうですか」
良皇后はうなずいた。皇后は春英の穏やかな様子から、口にはしない春英の考えを読み取っていた。春英はこの試みがうまくいくことを信じている。
灰姫たちは良皇后の部屋を辞した。
良皇后の配下には彼女が皇后として立つ前から仕えているものが多かった。故に年配者が多かった。
中には良皇后が皇后でなくなった後には職を辞すつもりのものもいたし、最後の最後まで良皇后に付き従いたいと希望するものもいた。
灰姫は彼らの意思を尊重した。
それでも良皇后の部下は多かったので、灰姫が皇后になったとき、灰姫付になることを約束してくれるものも多く残った。
灰姫はそのものたちを高位に置くことにした。
「長く良皇后陛下に仕えていたのだもの、きっと役に立ってくれる……わよね?」
「ええ、必ずや」
続いて灰姫たちは景美人のところへ向かった。
景美人はすでに部下の割り振りを終えていた。
「この者達を手元に残します。後は煮るなり焼くなりお好きなように」
「ありがとうございます」
景美人が手元に残したのは景家から連れてきたものがほとんどであった。
元は黒猛国の後宮に勤めていた者たちだ。黒猛国の姫である灰姫に仕えるのにも、特に反発は感じていないようだった。
「……これまで、お力になれず……」
その内の一人がどこか申し訳なさそうに灰姫に頭を下げた。
「構いません。皇帝陛下にいないものとして扱われていた私の力になれなかったことなど、あなたが気に病むことではありません。それでも……気に病むというのならこれから大いに役立ってもらいます」
「はい」
こうして灰姫は会うべき人間全員に会った。
「はー……」
春英の見ている前で灰姫は臆面もなく寝台に倒れ込んだ。
「……春英殿、各所からの序列表は届きました?」
「はい、滞りなく」
「それでは、それを元に最後の詰めをいたしましょう。そうしたら、黒猛国から連れてきた者達に大済国の文化や風習を教える講義を開いてほしいの」
「わかりました」
「武官は司将軍に頼むとして……女官はあなたね。宮女と文官で適任者はいるかしら」
「宮女は部署ごとに分けた方がよいでしょうね。文官は官吏に頼みましょう。出入りしているものに適任者がいます」
「そちらの手配は頼んでいいかしら」
「はい、もちろんでございます」
「じゃあ、今日は休むわ……。明日は大詰めね」
「そうですね」
春英が去って行く。清月がお茶を煎れてくれる。
寝台に腰掛けて、灰姫はボンヤリと湯気を見つめた。
「……李燈」
「はい、灰姫様」
「これって……夢ではないのよね……」
「どうしました、藪から棒に」
「私がこんな大きな場所で大勢の人を相手に……なんだかふとした瞬間に怖くなる」
「……灰姫様……」
「……ああ、明晶殿下は今頃首都でどうお過ごしかしら。……私、手紙が書ければよかったのに……」
「……ここにいない方の話をしてもしょうがありませんよ」
李燈は少しだけ顔をしかめた。
「……そう、ね。李燈は……李燈は明晶殿下のこと、もしかして嫌い?」
「……どうでしょう」
李燈は困ったように笑った。
「灰姫様をあんな場所から連れ出して、それに俺まで連れて行ってくれた。それは感謝しています。しているけど……」
李燈は天井を仰いだ。
「たまにあの時、いっしょに逃げていたらどうなっていたろうって、思います」
「…………李燈」
どうなっていただろう。
灰姫ひとりであれば、まったく生きていける気がしないけれど、李燈となら生きていく未来もあったのかもしれない。
「……灰姫様、今だって……今だってそうです。俺は明晶殿下に剣をもらいました。これ以上ない信頼です。でも、俺の主は灰姫様です。灰姫様が逃げたかったら、いつでも俺に命じてください。ここからでもいっしょに逃げましょう」
「……ありがとう」
灰姫はうっすらと笑った。
「それだけで、私は十分」
逃げることは、やっぱり想像がつかなかった。