その夜、食事を済ませ、眠りにつこうかという頃に、明晶が灰姫の部屋を訪ねてきた。
「遅くに申し訳ない」
「いえ、大丈夫。お疲れ様です、明晶殿下」
「灰姫殿も、お疲れ様」
 やわらかく微笑むと、明晶は灰姫の腰掛ける寝台の隣に座った。
 灰姫は体に緊張が走るのを感じた。
 しかし明晶が続けた言葉は意外なものだった。
「灰姫殿、俺は明日には首都に戻る」
「え……」
 てっきり明晶も新都明陽に留まると思っていた灰姫はうろたえた。
「父の容態がああだから、あまり首都を離れたくないのだ。……妙なことをもくろむもの……俺の廃嫡をもくろむものがいないこともないのでな」
「それは……大変、ですね……」
「うん、だから……しばしのお別れだ。灰姫殿。私に言っておきたいことや尋ねておきたいことがあれば、なんでも言ってくれ」
「…………」
 灰姫は明晶に一体何を言うべきだろう。
 少し悩んでから灰姫は口を開いた。
「ありがとうございます、明晶殿下」
「ん……?」
 明晶は灰姫からの礼に戸惑った。
「あなたにいただいたものは大きすぎて、身に余るほどで、実際に抱えきれるか不安で仕方ないけれど……それでも……それでも、ありがとうございます。あなたに……それらをいただけてよかった……」
「……そう、か」
 明晶は困ったように笑った。
「……そうか。こういうとき、あなたは礼を言うのか」
 そうつぶやいた明晶の顔は和やかであった。
「……灰姫殿、私が留守の間に、妃としてのあれこれも皇后陛下と景美人から学ぶと良い。……その、房事なども」
 少し言いづらそうに明晶は言った。
 灰姫は頬を赤らめた。
 宮女や女官から噂だけは聞いていたが、具体的な話をしてもらったことはない。ただ秘めておくべき事なのは知っていた。
 正当な姫であれば、この年頃であればもう学んでいるはずのことだというのに。
 景美人に聞いてしまうのがいいだろう。皇后よりはいくらか話しやすいだろう。
「いろいろと負担をかけてすまない」
「……がんばります」
 灰姫はがんばって笑ってみせた。
 明晶は笑顔を返した。
 よくわからない暖かさで灰姫の胸は満ちた。
「ああ、そうだ。今日、春英殿といろいろ話をしていたのですが……」
「ああ、あれは本当に働き者だ。あなたの力になってくれるだろう」
「……そ、その、景美人さまの処遇なのですが……あの、ええと……妃嬪に迎えられるおつもりはありますか?」
「……ああ、考えもしなかった」
 明晶は困った顔をした。
「あなたの力になってくれるだろうと思って連れてきたから……今のところ妃嬪にするつもりはないが……高位の女官という扱いでよいのではないか?」
 明晶は考え考えそう言った。
「わかりました。そのつもりで差配します」
「うん、頼んだ」
 しばらく明晶は寝台の上で、灰姫を眺めていた。
 灰姫はその視線に戸惑い、チラチラと明晶を見たり、壁を見たり、床を見たりしていた。
「……冬になる前には……一年以内には戻る。おそらく皇帝陛下もその頃にはもう……」
 やがて明晶は小さくそうつぶやくと頭を振って、寝台から立ち上がった。
「それでは失礼する。明日は早朝に出立するので、見送りは結構だ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
 明晶が私室を去って行くのを、灰姫は寂しい思いで見送った。
 寝台の上は、疲れの取れた今晩ばかりは広々としていて、寝付くのに時間がかかった。

 翌朝、起きたときには明晶は出立した後だった。
 灰姫は朝食をとると、李燈を伴って、景美人の元を訪ねた。
 項成は何やら見知らぬ幼女と戯れていた。
「ああ、灰姫様、よかった、やっと会えた」
 景美人はにこにこと微笑んだ。
「お邪魔いたします……ええと、こちらの方は……」
「明晶殿下の従妹の梅羽(ばいう)様です」
「ああ、こちらが……」
「さあさ、話をしましょう。積もる話がたくさんありますものね」
「はい……」
 景美人の寝室に二人は引っ込んだ。李燈は外に残って、項成と明晶の従妹の遊び相手を請け負った。
 灰姫に椅子を勧めながら、景美人は微笑む。
「明晶殿下に頼まれましたよ、房事について灰姫様に教えてほしいと」
「あ、ああ……そうでしたか……」
 灰姫はまたしても頬を赤く染めた。
「そういうあれこれも……きちんとお教えしますからね。明晶殿下がお帰りになったときには、妃としてあれもこれもできるようになっておきませんと」
「はい、お世話になります」
「ええ」
 景美人はにっこりと微笑んだ。
「お役に立ちます。項成に道を開いてくださったお二人のためにも」

 景美人に房事を初めとする指南を受け、お昼をいっしょにとってから、灰姫は景美人の客室を辞した。

「はあ……」
 ため息をついて、まだ昼間だというのに寝台に倒れ込んだ。
「お休みになられますか。宮女をお呼びしましょうか」
 李燈が心配そうに尋ねてくる。
「ちょっと休むだけ……眠りはしないから大丈夫……」
「かしこまりました」
 灰姫の顔は真っ赤だった。
「ふう……」
 ゴロゴロと寝台の上を転がりながら、初めて知った房事について、渦巻く心中を紛らわせようとしていた。
 そういうことを明晶とするのだと思うと、心がざわついた。
 どちらにせよ、明晶が帰ってくるまで時間はある。
 そう言い聞かせても、灰姫の恥じらいは加速するばかりだった。