灰姫の荷物は少なく、出立の準備にさほど時間は要らなかった。

 ある日、景美人が宦官たちに大量の荷物を持たせてあばら家を訪ねてきた。
「景美人さま!」
「ごきげんよう、灰姫様、こちら嫁入り道具一式でございます」
「こ、こんなに……?」
「隣国に、それも王太子に嫁ぐとあらばこれぐらいは当然です。新しいものを取り寄せられる状況ではないので、私のお下がりばかりで申し訳ないのですが……」
 景美人は心底残念そうにそう言った。
「いえ、お気持ちだけで十分です。本当に……どうお礼をしたらよいのか……」
「項成の命を救っていただいたのです。これでも足りないくらい……」
 景美人はそう言って涙ぐんだ。
「いえ、命を助けてくれたのは……明晶殿下です」
 灰姫はそう言った。
「私はただ、動いただけでした。運が、よかった」
 明晶が割って入らなければ項成共々死んでいただろう。
「……景美人さまも明晶殿下についていくおつもりだとか」
「ええ、私の出身は大済国の国境ですから、実家に帰るのも大済国に行くのもそう変わりはありません。実家に今更帰ったところで肩身の狭い思いをするだけでしょうし……。項成もここで飼い殺しにされるよりは……」
 景美人はどこか遠くを見たが、それは一瞬のことだった。
「大好きなお姉様と同じ場所の方が、何かと幸せでしょう」
 すぐにそう言って笑った。
「そう……願います」
 灰姫もうなずいた。

 出立の日がやって来た。
 灰姫は明晶と同じ馬車に乗り込んだ。外には李燈が控えている。
 灰姫は後宮から出るのは初めてであった。
 物珍しさに外を見る。
 どこか寂れた町が見えた。
 それが元からなのか、国が攻め込まれたからなのか、灰姫にはわからなかった。
 しばらく外を見ていたが、やがて道はうっそうと生い茂る森の中へ突入した。
 見るものが木々ばかりになり、灰姫はようやく視線を馬車の中に戻し、明晶を向いた。
 明晶はそんな灰姫をじっと眺めていた。
「ええと……これから向かうのは大済国の首都ですか?」
 灰姫は明晶に尋ねた。
「ああ、灰姫殿には俺の父、すなわち皇帝陛下に会ってもらう。その後、俺の領地として与えられている地方へと向かう」
「領地……ですか」
「大済国の首都は人が多くなりすぎて、いささか手狭になっている。新しい都に遷都する予定なのだ。その新しい都をすでに俺は領地としていただいている」
「……次の首都、ですか……」
「ええ。そこの後宮をあなたに任せたいと思う」
「ま、任せる?」
「ああ、いずれ皇后になる方に後宮の世話を頼むのは当然のことだから」
「……わ、私が、後宮を……?」
 あまりの責任の大きさに灰姫は呆然と口を開いた。
「そのために景美人をお招きした。年若いとは言え、後宮で妃嬪として立たれていたお方だ。きっとあなたの力になってくださるだろう。それに俺の都には皇后陛下、俺の母も隠遁している。父の後宮で差配を振るった前任者だ。……いささか厳しい女傑ではあるが、あなたの力になってくれるよう俺からも頼み込む予定だ」
「……は、はあ」
 灰姫はうつむいた。
 自分に課せられたことの大きさにようやく気付いた。
「……それらは私でなくては、なりませんか」
「あなたなら、できる」
「……私は、後宮で十八年間、ただただ暮らしていただけで、後宮の運営の場になど出たことなどありません……」
「それでもあのあばら家はあなたの城だ」
 明晶はふわりと微笑んだ。
「あなたが築き、あなたが統治し、あなたが人を集めた。俺はあれを見て、自分の都でこれと同じ事をすればいいのだと、そう思ったのです」
「…………」
 灰姫は戸惑った。彼女にとってあのあばら家は己の惨めさの象徴だった。皇帝の実子でありながら、うち捨てられたあのような場所に住まなければいけない我が身を思う度にひどく惨めな気持ちになった。
 しかし、明晶はそれを評価した。
「…………」
 灰姫は外をうかがう。そこには李燈がいる。
 李燈だけではない。あばら家に出入りしていた変わり者達がついてきてくれている。
「同じ事を、してくれればいいのです、灰姫殿」
 明晶はそう言った。
「ど、努力します」
 灰姫はそう言ってうつむいた。

 旅は一週間ほどかかった。

 大済国の首都はなるほど人が多かった。
 馬車が進むのも一苦労だった。
 むせかえるほどの活気に包まれていた。
 黒猛国の町とは大違いであった。
 道行く人を眺めながら、灰姫はじんわりと手の平に汗をかくのを感じた。
 隊列は途中の屋敷で止まった。
「ここは母の実家だ。こちらで景美人たちには留まってもらう。我々は王宮、父の元へ」
「……はい」
 馬車から降りてきた項成は、灰姫と明晶を認めるとニコニコと笑いながら駆け寄ってきた。
「灰姫様! 明晶様!」
「ああ、項成様……」
 灰姫は弟を抱き上げた。ずいぶんと遠くまで、この子といっしょに来てしまった。
「私はちょっと行って参ります。すぐに戻りますからね」
「はあい。新しいお家というのはここですか?」
「いえ、また旅をします……項成様、馬車はいかがでした」
「馬が立派です。とても力強くて頼もしいです」
 幼い項成もまた後宮から出るのは初めてのはずであった。
 その目はキラキラと光っていたが、顔は長旅の疲れに眠そうであった。
 景美人に項成を返すと、灰姫は一度屋敷に入って着替えをした。
 今まで着たこともないような豪奢な刺繍の施された長裾、頭が重たくなりそうなたくさんの簪、ひらひらと服を飾り立てるための帯である披帛(ひはく)。そういったものでゴテゴテと飾り立てられて、なんだかもう自分の体ではないような気持ちで屋敷から出ると、灰姫は明晶と再び馬車に乗り込んだ。
 隊列をなす人の数は減り、灰姫の連れてきた人間は李燈だけになった。

 そして馬車は王宮へと入っていった。
「明晶殿下のお帰りー!」
 大声とともに銅鑼が鳴らされる。
 歓迎の爆竹が鳴り響く。
 少し身をすくめながら、灰姫はその様子を見ていた。
 馬車が止まり、明晶に導かれて灰姫は馬車を降りた。
「…………」
 灰姫の手は震えていた。李燈がそっと近くまで寄ってくれた。
「李燈、剣を返してくれ。さすがに父の居所でお前に帯刀させるわけにはいかぬ」
「はい」
 李燈は素速く剣を明晶に手渡した。
「では、参ろうか」