一行は後宮の中をただ歩いていく。
「あの、えっと……俺、項成様をお運びするの代わりましょうか?」
 李燈が沈黙に耐えきれなかったかのように、そう申し出た。
 明晶は項成の顔を覗き込む。項成は明晶の鎧に掴まり、安心したように身を預けていた。
「大丈夫そうだ」
「はい……」
「俺にも郷里に幼い従妹がいる。子供の相手は慣れている」
 明晶はどこか諭すようにそう言って項成の頭を撫でた。
「あの、あちらが項成の母君の景成殿(けいせいでん)です」
 見えてきた建物を灰姫は示した。
 景成殿の門には女官と宮女、宦官たちに囲まれた景美人が青ざめた顔でもたれかかっていたが、項成を認めると走り寄ってきた。
 明晶の兵が色めき立つが、明晶が片手を上げてそれを抑えた。
 景美人は項成を明晶から奪い取るように抱き締めると、その場にわっと泣き崩れた。
「景成殿から出ないように。逃げようとすればこちらも荒い手に出ざるえないが、おとなしくしていれば悪いようにはしない」
 明晶は景美人とそのお付きにそう言い渡した。
 景美人は声もなくうなずいた。
「じゃあ、次は灰姫、あなたのところへ」
「……はい」
 灰姫はノロノロとあばら家に足を向けた。

 到着したあばら家を見て、明晶は絶句した。
「…………灰姫殿?」
 本当にここが灰姫の宮殿なのかと戸惑う声に、灰姫は恥じらいながらも小さくうなずいた。
「こ、ここがわたくしの……住まいです」
「…………あなたは、その、何か罪でも犯したのですか?」
「とんでもない!」
 李燈が口を挟んだ。
「……か、灰姫様は、灰姫様のお母君は宮女で……その、皇帝陛下からはまともな居住が与えられず……」
「……そう、でしたか」
 明晶はしばらくあばら家を眺めていた。
 雑草などは遊びに来る宦官達の手を借りて抜いたりしていたが、壁が剥がれたり、屋根が破れたりするのまでは直せていない。
「…………」
 明晶はしばらくあばら家を眺めていたが、一つうなずいた。
「よし。灰姫殿、ここに陣を張ってもよろしいでしょうか」
「え……か、構いませんが……」
「中央殿の見張り以外はこちらに集めろ。この庭に陣を張る」
「はい」
 明晶の指示で一人の兵があばら家を去って行く。
「灰姫殿の宦官の……ええと、名は?」
「李燈と申します」
「李燈、この剣を授ける」
 明晶は自分が提げていた剣を李燈に渡した。
「あ、ありがとうございます」
 李燈は呆然と手渡された剣を見ていた。
「灰姫殿と奥の部屋にでも籠もっているように。灰姫殿の護衛は任せた」
「は、はい。謹んでお受けします」
 李燈は剣を持ち上げ、礼の形を取った。
「灰姫殿、少し騒がしくなると思いますが、ご容赦ください」
「はい……」
 灰姫と李燈はそのままあばら家の奥、灰姫の寝室に引っ込んだ。

 その日から灰姫のあばら家は騒がしくなった。
 明晶の連れてきた兵の半分があばら家の庭に陣を張り、寝泊まりした。
 明晶はあばら家の一室を使っていた。壁が崩れていたが、明晶の兵は一日もかけずにそれを修復した。
 明晶の兵が手ずから作った食事が、灰姫と李燈も振る舞われた。
 灰姫には量が多くて、半分ほどを李燈に食べてもらうことになった。
 李燈はよく食べた。
 明晶の兵の手であばら家は瞬く間に修復されていった。
 次第にいつも灰姫の元に遊びに来ていた女官や宮女、宦官達もあばら家に顔を出せるようになった。明晶のはからいであった。

 明晶達が後宮にやって来てから一ヶ月が経った頃、灰姫と李燈は明晶に呼び出された。
 灰姫はあの日と同じ長裾と簪をつけ、女官に化粧を施してもらい、明晶の本を訪ねた。
「灰姫殿、俺はそろそろ大済国に帰る」
「そう、ですか……」
 灰姫はなんと言ってよいかわからず、ただうなずいた。
「黒猛の地は大済国の属州となる。領主は王太子殿だが、俺の側近が補佐としてつく。何か問題があれば、王太子殿は首を切られる」
「…………はい」
 大して交流もない長兄だ。そうなったところで、灰姫は惜しいとも思わないだろう。父の死に何も感じなかったように。
「他の王子達は後宮に留め置く。下手に自由にして蜂起でもされたら敵わぬからな。そして姫君達には母君の実家に帰ってもらうことになると思う」
「…………」
 では、灰姫はどこにいけばよいだろう。
 宮女だった母に、頼れる血縁などもういない。
「それで、だ。灰姫殿、あなたには俺の妃になってほしいのだ」
「……は?」
 灰姫はぽかんと口を開けた。
 後ろで控えていた李燈も目を見開いた。
「俺は大済国の第一王子。父の跡を継ぐことを約束された身だ。まだ妃はいないが、この度の功績……ここを属州にした功績は、いい加減に妃を娶っても許されるだけの功績だ。だから、あなたを妃にしたい」
「え、ええと……あの、私には、その、人質としての価値はありませんよ……?」
 長兄は自分が異国でどのような目に遭おうと気にしないだろう。
「人質ではない。妃だ」
 辛抱強く明晶は続けた。
「私……私なんかを、どうして?」
「項成殿を守るために身を投げ出した。その姿だけで俺には十分だった。あれだけの度胸があるあなたなら、俺の妃として……ゆくゆくは皇后として立つにふさわしい」
「皇后……?」
 長兄の母のように、自分がなる?
 灰姫は信じられない思いで明晶の顔を見つめた。
 明晶の目は真剣だった。そこに迷いやからかいは混じっていない。
「……俺では不服だろうか」
 明晶が少し眉を下げてそう言った。
「と、とんでもございません」
 灰姫は慌てて首を横に振った。
「ただ、その、突然のことで……ええと、あの、李燈を連れていってもよいでしょうか……もちろん、李燈がよければの話なのですが……」
「もちろん、李燈もよいだろう?」
「はい。俺は、いけるのであれば、灰姫様のおそばに、どこまでも」
 李燈はそう言った。
「李燈だけではない。ここに出入りしている宦官女官宮女も連れて行って構わない。それから景美人と話をして、景美人と項成殿、その下の者も連れて行くことになった」
「景美人さまと……」
「ああ。灰姫様のお力になりたいと景美人はおっしゃっていた」
「……景美人さま」
 義母の顔を浮かべ、灰姫は涙ぐんだ。景美人とはもうこの一ヶ月会えていない。
「……受けて、いただけるか?」
「……はい」
 灰姫はうなずいた。
 明晶はやわらかく微笑んだ。
 それはどこか胸を惹かれる笑顔だった。

 その晩、灰姫はなかなか眠れなかった。
 明晶の優しい笑顔が瞼の裏を離れなかった。
 ――同じ屋根の下にあの方がいるのだわ。
 当たり前だったことが、妙に胸をざわつかせた。
 寝返りを打つ灰姫の暗い部屋の片隅で、李燈は彼女のいる方をじっと見つめていた。