翌朝、大仕事の仕上げが灰姫を待っていた。
 おびただしい量の序列表。
 一つ一つを春英と高台に読み上げてもらい、役職図に配置をしていく。
 それは骨の折れる作業で、一日では到底終わらなかった。

 役職を振り終わる頃には、明叔殿が完成し、良皇后と景美人はそちらに移り住んだ。
 明叔殿の完成と共に徐々に灰姫の作った役職図通りに人員が配置されるようになった。
 暑い夏を越え、涼しい秋風が吹く頃には、後宮の建物の九割が完成していた。
 その頃には司将軍たち武官は立派な武兵宮(ぶへいきゅう)に配属され、巨大厨も解体された。
 明晶とは一ヶ月に一度ほど手紙をやり取りしていた。
 最初は春英や高台に代筆を頼んでいたが、今では自分で読み書きもできるようになっていた。
 灰姫の飲み込みはよく、春英が珍しく笑いながら褒めてくれた。
 届いた手紙によれば、灰姫の長兄は意外によく働き、黒猛国の領地は穏やかに統治されているらしい。
 そして首都の皇帝陛下の容態はますます悪く意識が混濁することもままあるという。

 灰姫は一つの決意を持って、良皇后の元を訪ねた。
「お久しゅうございます。明叔殿はいかがでしょうか。何か不都合などございますか」
「いえ、大丈夫。景女官もよく働いてくれています」
 景美人はもっぱら景女官と呼ばれるようになっていた。
 思えば美人というのは皇帝の妃嬪に与えられる称号なのだから、黒猛国の皇帝が死んだ今、その名で呼び続ける方がおかしかったのである。
「……あの、良皇后様、一度、首都に赴かれるおつもりはありませんか」
「…………」
 良皇后の表情が変わった。唇を噛み締め、目が潤んだ。
「…………自分が何を言っているか、わかっているの?」
 その声は震えていた。
 良皇后の元にも明晶の手紙は届いているはずだった。
「この後宮で一番偉いのは私です。私に全権が委任されているはずです。ですから……命令もできます」
「……王太子妃……」
「でも、もしかしたらそれは良皇后様にとってお辛いことかもしれない。だから、命令はしたくありません。でも、良皇后様が……皇帝陛下に最後にお目にかかりたいのなら……私は、私はそれを後押ししとうございます」
「…………」
 良皇后は大いに迷っていた。
「……怖いのです」
 ようやく彼女はそう漏らした。
「ああ、父を我々に殺されたあなたにこんなことを申すのは本当に恥ずべき事ですが……私はあの方が死ぬところを見るのが怖くてたまらない」
「はい……」
 父には何の感情もなかったが、灰姫は静かにうなずいた。
「けれども、言葉一つ交わせずにお別れするのも……辛い。あれほどここに来る前に言葉を交わしたというのに、今になって辛くなっている」
「お察しいたします」
「……許してくれますか、灰姫、私がここを留守にするのを」
「もちろんでございます」
 灰姫は大きくうなずいた。
「あなた様の跡は、わたくしが継いだのです。ここはどうぞお任せくださいませ」
「……ありがとう」
 良皇后は泣きながら微笑んだ。

 良皇后の護衛には司将軍がつくこととなった。
「しばらく留守にします。なあに、俺の鍛えた兵共は俺がいなくとも立派にこの後宮をお守りしますよ」
「何卒、よろしくお頼み申します」
 灰姫は司将軍に深々と頭を下げた。

 そして冬が来る前に、その一団は新都明陽に現れた。いや、明陽はすでに首都に改まっていた。
 それは大行列であった。
 後宮の機能は先に移管されていたが、王宮の者達は多くが旧首都にいたため、大勢の人々が明陽を訪れた。
 灰姫は彼らを出迎えるための準備を後宮で慌ただしく行った。
 新皇帝明晶とその母である良皇太后をはじめとする人々が、明陽に到着した。
 新皇帝として多くの行事をこなした明晶が後宮へと入る頃には、日が傾いていた。
「お帰りなさいませ、陛下、皇太后様」
 灰姫は大勢の部下の手前に立ち、明晶を出迎えた。
「ああ、ただいま。長らく留守にしてすまなかった」
「いいえ、お勤めご苦労様にございました」
「積もる話もあろうが……いささか疲れた。夕食にしよう」
「はい」
 それは宴であった。
 明晶即位と灰姫が皇后になった祝いの宴。

 宴が終わると、明晶は灰姫の寝所に入ってきた。
 いつもは室内に控えている李燈が、灯りを最低限にすると、黙って外に出て行った。
「…………」
 灰姫は緊張に身をこわばらせながら、明晶と寝台に並んで腰掛けた。
「皇太后陛下と司将軍から話は聞いている。よくがんばってくれたようだな」
「いえ、わたくしは……わたくしは皆の力を借りただけでございます」
「それこそあなたに期待した役割だ」
 明晶は穏やかに微笑みながら灰姫の肩を抱いた。
「ありがとう、灰姫」
「……もったいないお言葉でございます」
 灰姫は身を震わせた。それは緊張ではなく、何か穏やかなほっとしたものからくる震えだった。
「……よいか」
「はい」
「ずいぶんとあなたを長く待たせた」
 明晶は感慨深げにそう言いながら、灰姫を強く抱き締めた。

 その翌朝、新都明陽に初雪が降った。
 灰姫の髪を前皇帝が雪のようだと褒め称えたことは知れ渡っていた。故に新しい皇后を天が祝福しているのだと、人々は囁きあった。

「冬は嫌いでございました。あのあばら家にはいくら塞いでも寒風が吹き付けるから」
「そうだったか」
「今は寒くないです。きっと、もう寒くはない」
「それは何よりだ」
 明晶は灰姫の髪を(くしけず)りながら微笑んだ。
 灰姫はその腕の中で、暖かさを味わうように目を伏せた。