星蔡を乗せた負屓が駆ける。しかしここまで登るのも負屓の力を借りてきたのだ。息苦しそうにし、速度はゆるゆると落ちていく。

(負屓はそろそろ限界だ)

 どこかで休ませなければ。よい場所はないかと探していたその時、ふらついた負屓の足が岩に引っかかった。

「あ――」

 転ぶ、とわかった。負屓は何とか残る足で耐えたものの、体勢を崩した拍子に星蔡の体は宙に浮く。負屓から離れ、前方に転がり落ちた。

「おや、これは幸運だ」

 金火狐が嗤った。彼は負屓に目もくれず追い越し、星蔡を追う。

「星蔡! にげて!」

 星蔡は慌てて身を起こし再び駆けた。
 だが――木々の間を抜け、眼前に飛びこんできたその光景は星蔡に絶望を与えた。

「行き止まり……?」

 目の前に広がるは寿陵山中腹の崖。その近くには見覚えのある供物殿もある。

(ここは八年前、わたしが谷底に落とされた場所)

 振り返れば、追いついた金火狐がにたにたと笑みを浮かべていた。

(崖はだめだ。それなら供物殿の中に――)

 逃げ場所を探しそちらに駆けようとした瞬間、供物殿の扉が開いた。中から現われたのは梨喬だ。星蔡と負屓が逃げ回っている間に供物殿に来ていたのだろう。

「八年前のやりなおしのためにね、狐像にお祈りをしてきたの。今度こそ供物を捧げます、って」
「っ……そんな……」
「今度はしっかりと、谷底に落ちたあんたを確認してあげる。二度と顔を合わせないよう、鬼火で炙ってあげるわ」

 梨喬、そして金火狐がにじり寄り、逃げ場所はなくなっていく。気づけば崖淵まで追い詰められていた。後退りをするも、もう地面はない。小さな石が崖を転げ落ち、谷底から冷たい風が吹き上げる。

 いやな記憶が蘇る。崖は苦手だ。恐怖はいまだ抜けていない。足は竦み上がり、体が震える。その様子を見ていた梨喬がにたりと嗤った。

「今度こそさようなら星蔡。今度はちゃんと死んでちょうだい」

 梨喬の手が、こちらに伸びる。
 そして、とん、と星蔡の体を押した。

(あ……落ちる……)

 冷たい風が駆け抜ける。星蔡を谷底に引きずり込むような風だ。
 前は偶然にも父竜がいたから助かったが、そのような奇跡が二度起きるとは考えにくい。死だ。このまま落ちれば死んでしまう。

 頭をよぎったのは、なぜか賈奉遜だった。北御苑で話した時の、彼の言葉が蘇る。

『危機が迫れば、臆さずに助けを求めろ』

 海棠の花。賈奉遜のこと。

(寿陵山に行くなと唯一止めてくださったのに。わたしが死んでしまったら陛下は――)

 また、背負うものが増えるのだろうか。
 そう考えた瞬間。星蔡の手が動いた。岩の隙間から伸びていた木の枝を掴む。小ぶりの枝だったが根元はずいぶんとしっかりしているらしく、枝はしなるも折れることはなかった。そして迷わずに、叫ぶ。

「助けて!」

 この声が誰に届くかはわからない。崖上に味方となるような者はなく、負屓は遠く離れていた。けれど臆さずに助けを求めるしかないと思った。
 梨喬は崖上から覗きこみ、星蔡が枝に掴まるまでを見ていた。彼女はすぐ金火狐に命令している。

「早く星蔡を落としなさい」

 金火狐が鬼火を呼べば、この枝も焼け折れてしまう。危機迫る中、星蔡はもう一度口を開いた。

「奉遜、助けて!」

 夢中だったのでなぜ奉遜の名が出たのかはわからない。
 鬼火の音がする。星蔡はぎゅっと目を瞑り、覚悟を決めた。


「星蔡!」

 聞こえたのは鬼火でも九竜の声でもない。聞き覚えがあり、それを確かめるべく瞳を開けば、崖上からこちらに手が伸びていた。

(あの時と一緒だ)

 八年前、ここから落ちた時もそうだった。あの時は男子が手を伸していたが届かず、星蔡は落ちるだけであった。
 けれど今回は違う。子供の小さな手ではない。その者はずいと身を乗り出し星蔡を助けようとしている。その(かんばせ)は賈奉遜だ。

「いいから手を掴め!」

 まさか幻かと思ったが違う。彼の必死な表情がこれは現実だと語っている。

(どうして陛下がここに……)

 理由はわからなかったが、星蔡は彼の手をしっかりと掴んだ。
 星蔡を助けようとするその表情は、あの日星蔡を助けようとした男子と同じ。

(そうだ。どうして忘れていたのだろう)

 名前を聞かなかったから、わからなかった。名前を聞けばよかったと悔やんでいた。けれどいまになってわかる。あの時の男子は――。

「いま引き上げる!」

 その言を契機に、ぐいと力強く腕が引っ張られた。奉遜は供を従えてきたらしく、他の者も奉遜の体を引いている。

 崖上に着くも、星蔡の体は力を欠いていた。その場にへたりと座りこむ。隣には奉遜も座りこんでいた。額に汗をかき、息があがっている。

「今度は間に合ったな」

 目が合うなり、奉遜はそう言った。『今度』の意味は、星蔡にもわかっている。

「八年前にお会いしたあの子は、陛下だったんですね」
「あの時は間に合わず、お前を助けられなかったがな」
「助けようとしてくれたことを覚えています。彼の名前を聞けばよかったと後悔していました」

 すると賈奉遜は笑った。そして星蔡の頭を撫でる。

「賈奉遜だ。とっくに知っているだろうが」
「……はい」

 視界の端には梨喬とその宮女らがいた。奉遜が連れてきた衛吏に拘束されている。梨喬は星蔡を見るなり声を荒げた。

「あんたのせいで狂ったのよ。あとは関妃を追い出すだけだったのに」

 それを聞いて、奉遜が立ち上がった。梨喬の元へ向かう。

「お前は勘違いしている」

 その言と同時に、乾いた音が響いた。奉遜の手が梨喬の頬を叩いたのだ。梨喬はなぜ頬を叩かれたのかわからないといった顔で、呆然と奉遜を見上げている。

「ひっ……どうしてわたしの頬を……」
「例え後宮の妃がお前だけになろうとも、私がお前を選ぶことはない。お前や呉家が、星蔡をどのように扱ってきたのか私はよく知っている。お前のように醜い心を持つ者を我が後宮に迎えたくなかったほどだ」

 星蔡が呉家でどのような仕打ちを受けていたのか、奉遜は目の当たりにしている。梨喬は名門である呉家の娘であり、入宮を後押しする者は多い。入宮は阻止できなかったとしても、奉遜は梨喬と夜を共にする気がなかったのだ。

「そんな、わたしは呉家の娘なのに」
「家柄など関係ない。私はお前をけして許さぬ」

 梨喬はがくりと項垂れた。だが奉遜は冷徹な面持ちで衛吏に命じている。

「連れて行け。呉妃が鬼火事件の主犯だ」

 梨喬と宮女らが山を下りていく。けれど金火狐の姿はない。どこにいるだろうかとあたりを探すと、のろのろとこちらにやってくる負屓が見えた。

「負屓!」

 星蔡が声をかけると、負屓はぱあっと顔を明るくして、こちらに駆けてくる。

「星蔡。ごめんね、ぼくがころんじゃったから」
「いいの。負屓が無事で何よりだよ」

 さらに腕輪も光る。第九子の鴟吻だ。

『鬼火はぜんぶ消えたわ』
「ありがとう! いつも頼っちゃってごめんね」
『これぐらい平気よ。でも――』

 鴟吻の声音が沈む。代わりに第三子・嘲風の宝玉が光る。

『金火狐には逃げられた』
「そっか。逃げちゃったか……」
『遠視していたが、奉遜が着く直前に姿を隠した。あれは狐だからな、逃げ足が速い』

 金火狐が星蔡に向けて鬼火を放とうとしていたところまでは覚えている。奉遜が着くのに気づいて姿を隠したのだろう。梨喬らはその場に残されてしまったのだ。

(やはり金火狐は梨喬を利用していただけ……)

 鬼火はあやかしの妖術であり、あやかしの仕業となれば、永と霄の争いに繋がるかもしれない。だから金火狐は梨喬を利用したのだ。梨喬が人を想いやる心を持っていたのならここまで利用されることもなかっただろう。

「星蔡、」

 名を呼ばれて振り返ると、奉遜が立っていた。彼は星蔡に手を差し伸べる。柔らかに微笑んで、告げた。

「帰ろう。私たちの場所へ」

 その手を取る。見上げた横顔は、八年前の男子と同じ、優しいものだった。