霊峰・寿陵山の話をする時、必ず出てくる国がある。どの書を紐解いてもその名は残っていないが、民の口伝には残っている。
 それは(しょう)という国だ。霄には人とは異なる姿を持った()()()()が住むらしい。
 あやかしとは、人語を解し、人のように生活を営む、龍や虎、狐や(いたち)の姿をした異形たちである。彼らは妖術(ようじゅつ)を用い、これが人知を超えているため人から疎まれた。
 霄やあやかしについては語り手によって変化するが、誰が語っても結末は一致する。
 あやかしの国である霄は人間の国である(えい)と長きに争い、姿を消した。最後に霄の民が目撃されたのが寿陵山である。


 呉家が使う供物殿は寿陵山中腹にある。早朝に発ったというのに、供物殿に着けば日が暮れていた。呉家は供物殿の横にある小屋で一晩を明かして、明日に宮都に帰るのだろう。ここで捧げられる星蔡に関係のないことだ。

「星蔡。お前が生きてきたのは今日のためだ」

 父が言った。父というのは名目だけで、実際は星蔡を買った主である。その隣には母と梨喬も並んでいたが、誰の瞳も潤むことはない。やっと星蔡を手放す日がきたと喜んでいるようでもあった。

「お前はあの崖から身を投げろ。その後、我々は供物殿で狐像に祈りを捧げる」

 覚悟してきたといえ、実際に見ると恐ろしくなる。目をこらしても底がどうなっているのか見えない。

(落ちたら、痛いのかな)

 怖じ気づいたからといって逃がしてもらえることはない。星蔡は両の手足を縛られ、引きずられるようにして崖淵に立たされた。

「じゃあね星蔡。わたしの身代わりになってくれてありがとう」

 別れを察したのだろう梨喬が言った。声音はひどく冷えている。

「あんたのことが嫌いだったの。屋敷からいなくなってせいせいするわ。わたしを生かすために死んでちょうだいね」

 星蔡は何も答えなかった。谷底から吹く風が髪を揺らす。背には誰かの手が添えてあったが、いつ突き落とされるのかはわからない。

「これまで育ててきたのは呉家だからな、けして恨まぬよう――星蔡を落とせ!」

 その言葉と共に、背を叩かれる。体がふわりと浮いた。

(落ちる)

 足はもう地についていない。あとは落ちていくだけ。
 その時、声が聞こえた。

「星蔡!」

 男子の声がする。
 追ってきたのだろうか。身を(よじ)って崖の方を見やる。振り返ることはできなかったが、視界に崖が映った。そして崖から身を乗り出しこちらに手を伸そうとしている男子の姿も。

(やっぱり名前を聞いておけばよかった)

 けれどその手が届くことはない。星蔡の体は落ちていく。男子もまた、他の者たちに押さえられているようだった。

 呉星蔡が十の年を迎えたその日、彼女は寿陵山に消えた。