鬼火事件の主犯として梨喬は捕らえられ、呉家も金火狐を信仰していた件で咎められ、呉妃が使っていた宮は空き宮となった。
梨喬と呉家が宮都を追われる頃には怪我をして帰っていた妃らも戻ってきた。後宮に平和が戻ってきたのである。
「だからさあ、霄にもどろうよ」
ある日の夕刻。負屓は水盤から顔を出し、ふて腐れていた。
負屓や九竜は、鬼火事件が解決したのだから星蔡が霄に戻ってくると考えていたのだ。それが星蔡は動こうとしない。星蔡は妖妃として、後宮に残ったままだ。
「戻らないよ。妖妃のわたしがここにいれば、永と霄の友好関係は保たれる。これはわたしがあやかし妃としての仕事」
それに、姿を消した金火狐のことも気にかかる。また人を唆し、悪事を働こうとするかもしれない。その時に妖術を用いて止められる者がいなければ。
「星蔡がのこるなら、ぼくものこるけどさあ……」
そう言いながらも、負屓は永の暮らしを楽しんでいる。寧明と打ち解けて、書を読んでもらっていることもあるぐらいだ。
二人が話していると、扉が開いた。やってきたのは宮女長の宇寧明である。
「妖妃様にお伝えしたいことがございます」
「なあに?」
「本日夜、陛下がこちらにいらっしゃるそうです」
この言葉に星蔡の目が丸くなった。永の皇帝が夜に妃の宮を訪ねるのは初めてのこと。
(どうして奉遜が霄妖宮に……)
戸惑う星蔡だが、寧明や霄妖宮の宮女は嬉しそうだ。初めての渡りと聞いて、みな慌ただしそうにし、寧明もずいと星蔡に顔を寄せた。
「支度いたしましょう! 湯浴みの用意もできております」
有無を言わさぬとばかり寧明に手を引かれ、部屋を出て行く。水盤からは負屓がちらりと顔を出し、星蔡を案じているようだった。
夜。霄妖宮に輿が着いた。賈奉遜の姿は霄妖宮へと消えていく。
さて妖妃である星蔡はというと、奉遜を迎えるための部屋にて落ち着かぬ心地だった。
(どうして陛下はわたしを選んだのだろう)
彼について考えると、そわそわして頭が呆けてしまう。寿陵山での時は気分が高揚していたからか面と向かっての会話も平気であったが、いまは違う。奉遜と顔を合わせ、平常を保つ自信がない。何度も頬に手を押し当て、熱を確認する。考えれば考えるほど顔が熱くなりそうだった。
(しかも夜に来るなんて、どうして)
夜に尋ねてくるとは、そういう意味である。事情があったといえ、星蔡は奉遜の元に嫁いだ身だ。夫婦であれば起こりうることだが、想像するだけで気恥ずかしい。奉遜がきらいなのではなく、奉遜であるから恥ずかしいと思ってしまうのだ。
臥床に腰掛けるのも落ち着かず、部屋をうろうろと歩き回る。寧明らが気合いを入れて飾り立ててくれたので、動くたびに歩揺が音を鳴らした。
部屋を端から端まで、数往復ほど繰り返したところである。
「……愉快なことをしているな」
声がした。はっとして振り返れば、いつの間にか奉遜が部屋に来ていた。彼は榻に腰掛け、くすくすと笑いながらこちらを見ている。
「い、いつの間に」
「ここに入る前もその後も、何度も声をかけたぞ。お前は上の空で何やら考えこんでいるようだったが」
考えていたのは奉遜のことだが、口が裂けても言えない。星蔡は顔を赤らめうつむくしかなかった。
「そこまで落ち着かぬほど、私が来たことはいやだったか?」
奉遜が立ち上がり、星蔡の元に寄る。垂らした髪を一房つまみ、それを撫でた。
いま顔をあげれば、きっとひどい顔をしている。頬に触れていなくとも熱を持っている自覚があった。星蔡は顔を背けたまま答える。
「……いやでは、ありません」
「それはよかった。だがなぜこちらを見ない」
そこで奉遜の指が星蔡の顎へと動いた。ぐいと顎を持ち上げられ、上を見上げる形になる。二人の視線が交差した。
「私は、小さな頃からお前のことを好いていた。呉家でどれだけひどい目にあっても耐えているお前をいつか救いたいと思っていた」
奉遜の言は、星蔡の頭の芯を溶かしていくようだった。昔の、あの男子の姿が浮かぶ。あの頃から奉遜は星蔡のことを好いていたのだろう。星蔡はまったく気づいていなかった。自分のことで精一杯だったのである。
「お前を失ったことを悔やんでいた。もっと早く駆けつけていればお前を助けられたのにと何度も夢に見た。即位が決まっても、そのことは頭から消えず、他の者で埋めるつもりなどできない。独り身の帝として名を残してやろうと思っていたぐらいだ――けれど」
温かな指先が頬を撫でる。顎を持ちあげられていなくとも、視線は外せなくなっていた。奉遜の潤んだ瞳に囚われている。彼の言葉を聞いていたいと願ってしまう。
「霄の国でお前が生きていると知った時、どれほど嬉しく思ったことか。もしもあの場にいたのが星蔡でなかったら、妃にするなど言わなかった。お前だったからあの提案をしたのだ」
「え……てっきり最初から計画していたのかと」
「私はお前と再会したときに決めたのだ。今度こそ失わないと」
父竜を相手にしても堂々とした物言いをしていたため、霄の者を妃にすることは事前に決めていたのだと思っていた。それがまさか、星蔡を見つけたがための提案だったとは。
「さて、星蔡。私は想いを告げたぞ。お前の心のうちを明かしてほしいところだが」
「わ、わたしは――」
急かされ、言葉が詰まる。
奉遜のことは好きだ。この近さで頬や髪に触れるのが奉遜以外の者であれば、星蔡は今頃逃げ出しているだろう。永にいた頃から好いていたと聞いただけで夢見心地になりそうだ。幸せという言葉を用いるのなら、この瞬間が合うのだと思う。
そのことを伝えようと、奉遜を見上げる。距離は少しずつ近づき、そして――。
星蔡が気持ちを伝えようとした瞬間である。何かが恐ろしい速さで星蔡の体を登り、跳ねた。
そしてかぷり、と。小さなその影が奉遜の指を噛む。星蔡は我に返り、叫んだ。
「負屓、どうしてここに」
奉遜の指に噛みついたのは負屓だった。別の部屋に置いてきたはずが、こっそりついてきてしまったらしい。慌てて負屓を引き剥がすが、負屓は怒りをむきだしにしている。
「星蔡にてをだすなー!」
これには奉遜も苦笑するしかない。噛まれた指を押さえながら、ぼやく。
「……まったく元気な兄上だ」
「その兄上ってのもやめろ! はらがたつ!」
「もう! どうしてついてきちゃったの」
ぎゃあぎゃあと騒いでいると、今度は腕輪が光った。第三子・嘲風の宝玉だ。遠視で何かが見えたのだろう。
「どうしたの?」
『宮都で化け鼬が人を困らせている。念のため様子を見に行ってほしい』
「今度は鼬か……わかった。行ってくる」
鼬ということから金火狐とは関わりがなさそうだが、妖術に絡むものであれば対応できるのは星蔡しかいない。腕輪の光が消えたのを確かめて息をつくと、奉遜が拗ねたように言った。
「妖妃は忙しいな」
「宮都で何か起きているようなので様子を見に行ってきます」
「九竜がいるから大丈夫だとは思うが、しかし場を読まずに邪魔が入るものだ」
奉遜は星蔡を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
「いまは仕方ないとしても、いずれお前を振り向かせてみせる。お前の兄姉にも私を認めさせてやる――聞いているのだろう九竜よ」
腕輪は光らないが彼らのことだから聞いているだろう。負屓は相変わらず威嚇しているが、奉遜は意に介していないようだ。
「では行くか」
「行く……って陛下もですか?」
「お前一人で行かせるわけがないだろう。そばにいなければ、お前が助けを求めても駆けつけられぬからな」
そう言って、奉遜はこちらに手を差し伸べる。
「九竜あやかしの妃。お前がこの後宮を守るのなら、私はお前を守ろう」
星蔡は頷き、その手を取る。温かく、大きなてのひらだ。触れている場所から彼の勇気がこちらに溶け込んでくるかのように、力が出る。
(わたしだって、奉遜を守りたい)
その決意を胸に、二人は部屋を出る。後宮を守るために。
<了>
梨喬と呉家が宮都を追われる頃には怪我をして帰っていた妃らも戻ってきた。後宮に平和が戻ってきたのである。
「だからさあ、霄にもどろうよ」
ある日の夕刻。負屓は水盤から顔を出し、ふて腐れていた。
負屓や九竜は、鬼火事件が解決したのだから星蔡が霄に戻ってくると考えていたのだ。それが星蔡は動こうとしない。星蔡は妖妃として、後宮に残ったままだ。
「戻らないよ。妖妃のわたしがここにいれば、永と霄の友好関係は保たれる。これはわたしがあやかし妃としての仕事」
それに、姿を消した金火狐のことも気にかかる。また人を唆し、悪事を働こうとするかもしれない。その時に妖術を用いて止められる者がいなければ。
「星蔡がのこるなら、ぼくものこるけどさあ……」
そう言いながらも、負屓は永の暮らしを楽しんでいる。寧明と打ち解けて、書を読んでもらっていることもあるぐらいだ。
二人が話していると、扉が開いた。やってきたのは宮女長の宇寧明である。
「妖妃様にお伝えしたいことがございます」
「なあに?」
「本日夜、陛下がこちらにいらっしゃるそうです」
この言葉に星蔡の目が丸くなった。永の皇帝が夜に妃の宮を訪ねるのは初めてのこと。
(どうして奉遜が霄妖宮に……)
戸惑う星蔡だが、寧明や霄妖宮の宮女は嬉しそうだ。初めての渡りと聞いて、みな慌ただしそうにし、寧明もずいと星蔡に顔を寄せた。
「支度いたしましょう! 湯浴みの用意もできております」
有無を言わさぬとばかり寧明に手を引かれ、部屋を出て行く。水盤からは負屓がちらりと顔を出し、星蔡を案じているようだった。
夜。霄妖宮に輿が着いた。賈奉遜の姿は霄妖宮へと消えていく。
さて妖妃である星蔡はというと、奉遜を迎えるための部屋にて落ち着かぬ心地だった。
(どうして陛下はわたしを選んだのだろう)
彼について考えると、そわそわして頭が呆けてしまう。寿陵山での時は気分が高揚していたからか面と向かっての会話も平気であったが、いまは違う。奉遜と顔を合わせ、平常を保つ自信がない。何度も頬に手を押し当て、熱を確認する。考えれば考えるほど顔が熱くなりそうだった。
(しかも夜に来るなんて、どうして)
夜に尋ねてくるとは、そういう意味である。事情があったといえ、星蔡は奉遜の元に嫁いだ身だ。夫婦であれば起こりうることだが、想像するだけで気恥ずかしい。奉遜がきらいなのではなく、奉遜であるから恥ずかしいと思ってしまうのだ。
臥床に腰掛けるのも落ち着かず、部屋をうろうろと歩き回る。寧明らが気合いを入れて飾り立ててくれたので、動くたびに歩揺が音を鳴らした。
部屋を端から端まで、数往復ほど繰り返したところである。
「……愉快なことをしているな」
声がした。はっとして振り返れば、いつの間にか奉遜が部屋に来ていた。彼は榻に腰掛け、くすくすと笑いながらこちらを見ている。
「い、いつの間に」
「ここに入る前もその後も、何度も声をかけたぞ。お前は上の空で何やら考えこんでいるようだったが」
考えていたのは奉遜のことだが、口が裂けても言えない。星蔡は顔を赤らめうつむくしかなかった。
「そこまで落ち着かぬほど、私が来たことはいやだったか?」
奉遜が立ち上がり、星蔡の元に寄る。垂らした髪を一房つまみ、それを撫でた。
いま顔をあげれば、きっとひどい顔をしている。頬に触れていなくとも熱を持っている自覚があった。星蔡は顔を背けたまま答える。
「……いやでは、ありません」
「それはよかった。だがなぜこちらを見ない」
そこで奉遜の指が星蔡の顎へと動いた。ぐいと顎を持ち上げられ、上を見上げる形になる。二人の視線が交差した。
「私は、小さな頃からお前のことを好いていた。呉家でどれだけひどい目にあっても耐えているお前をいつか救いたいと思っていた」
奉遜の言は、星蔡の頭の芯を溶かしていくようだった。昔の、あの男子の姿が浮かぶ。あの頃から奉遜は星蔡のことを好いていたのだろう。星蔡はまったく気づいていなかった。自分のことで精一杯だったのである。
「お前を失ったことを悔やんでいた。もっと早く駆けつけていればお前を助けられたのにと何度も夢に見た。即位が決まっても、そのことは頭から消えず、他の者で埋めるつもりなどできない。独り身の帝として名を残してやろうと思っていたぐらいだ――けれど」
温かな指先が頬を撫でる。顎を持ちあげられていなくとも、視線は外せなくなっていた。奉遜の潤んだ瞳に囚われている。彼の言葉を聞いていたいと願ってしまう。
「霄の国でお前が生きていると知った時、どれほど嬉しく思ったことか。もしもあの場にいたのが星蔡でなかったら、妃にするなど言わなかった。お前だったからあの提案をしたのだ」
「え……てっきり最初から計画していたのかと」
「私はお前と再会したときに決めたのだ。今度こそ失わないと」
父竜を相手にしても堂々とした物言いをしていたため、霄の者を妃にすることは事前に決めていたのだと思っていた。それがまさか、星蔡を見つけたがための提案だったとは。
「さて、星蔡。私は想いを告げたぞ。お前の心のうちを明かしてほしいところだが」
「わ、わたしは――」
急かされ、言葉が詰まる。
奉遜のことは好きだ。この近さで頬や髪に触れるのが奉遜以外の者であれば、星蔡は今頃逃げ出しているだろう。永にいた頃から好いていたと聞いただけで夢見心地になりそうだ。幸せという言葉を用いるのなら、この瞬間が合うのだと思う。
そのことを伝えようと、奉遜を見上げる。距離は少しずつ近づき、そして――。
星蔡が気持ちを伝えようとした瞬間である。何かが恐ろしい速さで星蔡の体を登り、跳ねた。
そしてかぷり、と。小さなその影が奉遜の指を噛む。星蔡は我に返り、叫んだ。
「負屓、どうしてここに」
奉遜の指に噛みついたのは負屓だった。別の部屋に置いてきたはずが、こっそりついてきてしまったらしい。慌てて負屓を引き剥がすが、負屓は怒りをむきだしにしている。
「星蔡にてをだすなー!」
これには奉遜も苦笑するしかない。噛まれた指を押さえながら、ぼやく。
「……まったく元気な兄上だ」
「その兄上ってのもやめろ! はらがたつ!」
「もう! どうしてついてきちゃったの」
ぎゃあぎゃあと騒いでいると、今度は腕輪が光った。第三子・嘲風の宝玉だ。遠視で何かが見えたのだろう。
「どうしたの?」
『宮都で化け鼬が人を困らせている。念のため様子を見に行ってほしい』
「今度は鼬か……わかった。行ってくる」
鼬ということから金火狐とは関わりがなさそうだが、妖術に絡むものであれば対応できるのは星蔡しかいない。腕輪の光が消えたのを確かめて息をつくと、奉遜が拗ねたように言った。
「妖妃は忙しいな」
「宮都で何か起きているようなので様子を見に行ってきます」
「九竜がいるから大丈夫だとは思うが、しかし場を読まずに邪魔が入るものだ」
奉遜は星蔡を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
「いまは仕方ないとしても、いずれお前を振り向かせてみせる。お前の兄姉にも私を認めさせてやる――聞いているのだろう九竜よ」
腕輪は光らないが彼らのことだから聞いているだろう。負屓は相変わらず威嚇しているが、奉遜は意に介していないようだ。
「では行くか」
「行く……って陛下もですか?」
「お前一人で行かせるわけがないだろう。そばにいなければ、お前が助けを求めても駆けつけられぬからな」
そう言って、奉遜はこちらに手を差し伸べる。
「九竜あやかしの妃。お前がこの後宮を守るのなら、私はお前を守ろう」
星蔡は頷き、その手を取る。温かく、大きなてのひらだ。触れている場所から彼の勇気がこちらに溶け込んでくるかのように、力が出る。
(わたしだって、奉遜を守りたい)
その決意を胸に、二人は部屋を出る。後宮を守るために。
<了>