汲んできたばかりの水が、髪や顔を濡らす。水桶に入れて運んだ時は硬さなど微塵も感じられなかったくせに、勢いよく放られると肌を刺すように痛い。水の冷たさは衝撃の後から遅れてやってきた。
地に落ちた水桶を、呉星蔡は呆然と眺めていた。
「ろくに水も運べないなんて、役に立たないわ」
この水を放った主である呉梨喬は嗤っている。
水を汲んでこいと命じたのは梨喬だった。井戸から屋敷まで往復する必要があるため、男の奴婢に命じられることが多い。それを、まもなく十の年を迎える星蔡に頼んだのである。
(いやがらせとして命じたことはわかっていたけれど)
それでも梨喬に逆らうことは許されないので従うしかなかった。
髪から滴り落ちた水が地面に落ちていく。たっぷりと水を入れた桶は重たく、運ぶのは一苦労だった。虚しさを噛みしめるように唇を引き結ぶ。星蔡のその仕草さえ梨喬は楽しんでいるようだった。
「力仕事はできず要領も悪い、器量もよくない。あんたが妹なんてうんざりよ」
梨喬は忌々しそうに吐き捨てる。
星蔡と梨喬は呉家の娘だ。名門として名を馳せる呉家の長女が梨喬で、末娘が星蔡だ。しかし、ふたりの扱いは天地ほどの差があるため、知らぬ者は彼女たちが姉妹だと気づかないだろう。例えば装いだ。梨喬は呉家の娘に相応しい装いをしていたが、星蔡は奴婢らに与えられる襤褸を纏っている。
それに顔つきも異なる。梨喬は玉のような肌を持って生まれ、いずれ皇帝陛下から声がかかると噂されるほどの美貌だ。星蔡はそのような美しさを持ち合わせていなかった。
「でもそれも、明日までの辛抱ね。あんた、最後もちゃんと役に立つのよ」
明日は星蔡や梨喬だけでなく、呉家にとって大切な日である。
(明日はわたしが供物になる日)
とうに覚悟は決めていたので、いまさら怯えも不安もない。むしろ蔑まれているこの生活から脱する方がありがたいとさえ思う。
梨喬は満足したようで戻っていく。その姿が屋敷に戻ってからようやく星蔡はため息をつき、落ちた水桶を拾った。
屋敷から別の者が出てきた。装いからして奴婢ではない。齢は星蔡よりひとつ上のくせに、背の小さい男子だ。
「またいじめられたのか」
ずぶ濡れの星蔡を見るなり、呆れたように言う。
彼は呉家の者ではない。どういった用事かはわからないが、よく呉家の屋敷に遊びにくる。良い身なりをしていることから、裕福な家で生まれたのだろう。だというのに彼は、奴婢のように薄汚い星蔡にも臆さず声をかけてくるので、星蔡は彼を友人のように思っていた。
彼が手巾を渡してくれたので顔を拭く。ちらりと様子を見れば、彼は何かを訝しんでいた。
「梨喬が『明日まで』と言っていただろう。あれはどういう意味だ」
「明日から、寿陵山に行くので」
寿陵山とは少し離れたところにある山だ。呉家の屋敷がある宮都からもその山が見える。神仏住まう霊峰と呼ばれ、道中の険しさは外敵を退けるためと伝えられている。
「呉家には、末娘を霊峰に捧げると一族が安泰するという言い伝えがあるから」
「末娘……まさかお前……」
「わたしはそのために、呉家に買われましたから」
星蔡の生まれは呉家ではない。両親は宮都より遠くの村にいたと聞いた。貧しさのあまり、物心つくまえの星蔡を手放し、それを買ったのが呉家だった。
「わたしを末娘として迎えなければ、梨喬が末娘になる。わたしは生贄になるべく育てられてきたので」
呉家は実子である梨喬を捧げることを恐れ、養子を迎えることで回避しようと考えた。そうして星蔡を迎え入れたが、都合のよい時は娘と呼ぶくせ、奴婢と変わらない仕打ちを受けている。
(これまでの日々はひどかったけれど、それも終わる。わたしが十の年を迎える明日、霊峰に捧げられたら、ぜんぶが楽になる)
霊峰に捧げるとはどのような意味を持つのかわからない。寿陵山にいるという獣に食べられるのか、それとも転落して死ぬのか。しかし、これまでのつらい日々と天秤にかければ怖くなかった。解放されることの方が嬉しいと思うほど、虐げられた生活を送っていたのである。
覚悟を決めている星蔡と異なり、男子は青ざめていた。
「生きて帰ってこられないということだろ」
「たぶん、死ぬと思う」
「なのにどうして諦めている。抗おうと思わないのか。逃げ出したり助けを求めたりせず、受け入れるなんておかしいことだ」
男子の声音が少しずつ荒くなっていく。彼は星蔡の諦念が理解できないようだった。
星蔡は再びため息をついた。
「助けを求めても許される立場なら、そうしているよ」
買われた身である星蔡に、選択肢などない。星蔡は背を向けた。そろそろ屋敷に戻り、夕餉の支度を手伝わなければならない。
「屋敷に戻るね。わたしとお話してくれて、いままでありがとう」
梨喬と異なり、面と向かって話してくれたこと。奴婢ではなく星蔡として扱ってくれたことに感謝していた。どうせ最後だから名を聞きたいと考えていたが彼の様子を見るに難しいだろう。
(名前もわからない、たったひとりの友人)
心の中でもう一度感謝の言を述べる。屋敷に戻るべく足を動かすと同時に、男子がぽつりと呟いた。
「……おれは、いやだ」
星蔡は答えず、振り返らず屋敷に戻った。
***
地に落ちた水桶を、呉星蔡は呆然と眺めていた。
「ろくに水も運べないなんて、役に立たないわ」
この水を放った主である呉梨喬は嗤っている。
水を汲んでこいと命じたのは梨喬だった。井戸から屋敷まで往復する必要があるため、男の奴婢に命じられることが多い。それを、まもなく十の年を迎える星蔡に頼んだのである。
(いやがらせとして命じたことはわかっていたけれど)
それでも梨喬に逆らうことは許されないので従うしかなかった。
髪から滴り落ちた水が地面に落ちていく。たっぷりと水を入れた桶は重たく、運ぶのは一苦労だった。虚しさを噛みしめるように唇を引き結ぶ。星蔡のその仕草さえ梨喬は楽しんでいるようだった。
「力仕事はできず要領も悪い、器量もよくない。あんたが妹なんてうんざりよ」
梨喬は忌々しそうに吐き捨てる。
星蔡と梨喬は呉家の娘だ。名門として名を馳せる呉家の長女が梨喬で、末娘が星蔡だ。しかし、ふたりの扱いは天地ほどの差があるため、知らぬ者は彼女たちが姉妹だと気づかないだろう。例えば装いだ。梨喬は呉家の娘に相応しい装いをしていたが、星蔡は奴婢らに与えられる襤褸を纏っている。
それに顔つきも異なる。梨喬は玉のような肌を持って生まれ、いずれ皇帝陛下から声がかかると噂されるほどの美貌だ。星蔡はそのような美しさを持ち合わせていなかった。
「でもそれも、明日までの辛抱ね。あんた、最後もちゃんと役に立つのよ」
明日は星蔡や梨喬だけでなく、呉家にとって大切な日である。
(明日はわたしが供物になる日)
とうに覚悟は決めていたので、いまさら怯えも不安もない。むしろ蔑まれているこの生活から脱する方がありがたいとさえ思う。
梨喬は満足したようで戻っていく。その姿が屋敷に戻ってからようやく星蔡はため息をつき、落ちた水桶を拾った。
屋敷から別の者が出てきた。装いからして奴婢ではない。齢は星蔡よりひとつ上のくせに、背の小さい男子だ。
「またいじめられたのか」
ずぶ濡れの星蔡を見るなり、呆れたように言う。
彼は呉家の者ではない。どういった用事かはわからないが、よく呉家の屋敷に遊びにくる。良い身なりをしていることから、裕福な家で生まれたのだろう。だというのに彼は、奴婢のように薄汚い星蔡にも臆さず声をかけてくるので、星蔡は彼を友人のように思っていた。
彼が手巾を渡してくれたので顔を拭く。ちらりと様子を見れば、彼は何かを訝しんでいた。
「梨喬が『明日まで』と言っていただろう。あれはどういう意味だ」
「明日から、寿陵山に行くので」
寿陵山とは少し離れたところにある山だ。呉家の屋敷がある宮都からもその山が見える。神仏住まう霊峰と呼ばれ、道中の険しさは外敵を退けるためと伝えられている。
「呉家には、末娘を霊峰に捧げると一族が安泰するという言い伝えがあるから」
「末娘……まさかお前……」
「わたしはそのために、呉家に買われましたから」
星蔡の生まれは呉家ではない。両親は宮都より遠くの村にいたと聞いた。貧しさのあまり、物心つくまえの星蔡を手放し、それを買ったのが呉家だった。
「わたしを末娘として迎えなければ、梨喬が末娘になる。わたしは生贄になるべく育てられてきたので」
呉家は実子である梨喬を捧げることを恐れ、養子を迎えることで回避しようと考えた。そうして星蔡を迎え入れたが、都合のよい時は娘と呼ぶくせ、奴婢と変わらない仕打ちを受けている。
(これまでの日々はひどかったけれど、それも終わる。わたしが十の年を迎える明日、霊峰に捧げられたら、ぜんぶが楽になる)
霊峰に捧げるとはどのような意味を持つのかわからない。寿陵山にいるという獣に食べられるのか、それとも転落して死ぬのか。しかし、これまでのつらい日々と天秤にかければ怖くなかった。解放されることの方が嬉しいと思うほど、虐げられた生活を送っていたのである。
覚悟を決めている星蔡と異なり、男子は青ざめていた。
「生きて帰ってこられないということだろ」
「たぶん、死ぬと思う」
「なのにどうして諦めている。抗おうと思わないのか。逃げ出したり助けを求めたりせず、受け入れるなんておかしいことだ」
男子の声音が少しずつ荒くなっていく。彼は星蔡の諦念が理解できないようだった。
星蔡は再びため息をついた。
「助けを求めても許される立場なら、そうしているよ」
買われた身である星蔡に、選択肢などない。星蔡は背を向けた。そろそろ屋敷に戻り、夕餉の支度を手伝わなければならない。
「屋敷に戻るね。わたしとお話してくれて、いままでありがとう」
梨喬と異なり、面と向かって話してくれたこと。奴婢ではなく星蔡として扱ってくれたことに感謝していた。どうせ最後だから名を聞きたいと考えていたが彼の様子を見るに難しいだろう。
(名前もわからない、たったひとりの友人)
心の中でもう一度感謝の言を述べる。屋敷に戻るべく足を動かすと同時に、男子がぽつりと呟いた。
「……おれは、いやだ」
星蔡は答えず、振り返らず屋敷に戻った。
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