諦めきれない結蘭に、茶碗を掲げた黒狼は諭す。
「やめておけ。どうせろくな女じゃない」
「どうしてわかるの?」
「声に張りがあるなんて、口やかましいに決まっているからな。塩賊上がりで、女官に扮した役人ってところだろう」
「朱里の前で言ったら噛みつかれそうな台詞ね」
「あいつかもな」
 黒狼の双眸が細められる。
 ひとまず休まれよ、という労いの言葉を受けて、結蘭たちは丞相府を辞した。



 それから三か月が、穏やかに過ぎた。季節は移り変わり、緑の草葉は赤茶に染まる。ぐんと朝晩は冷え込んで、炭を熾す日も間近だ。
 ある日、夕餉の支度でさざめく清華宮に、血相を変えた呂丞相が乗り込んできたことで平穏は破られる。
「結蘭公主、おられるか!」
 廊下を踏み鳴らす音は、ただごとではないと知らせる。訪いを入れてくださいと声を張り上げる朱里を振り切って、結蘭の房室へやってきた。
 琵琶を弾いていた結蘭は驚いて顔を上げる。
「どうしました。呂丞相さま」
 息を整えた呂丞相は、神妙な顔つきで告げた。
「陛下が、闇塩に加担している者を炙り出すため、すべての殿と宮を捜索するとおっしゃった」
「えっ⁉ でも、闇塩については呂丞相さまや私たちに任せてくださっていたのでは?」
「うむ……。真意を陛下におうかがいしよう。私と養和殿に来てくだされ」
「わかりました」
「俺も行こう」
 黒狼もあとに従い、三人は詠帝が執務を行う養和殿へ赴いた。
 突然事態が動いたことには驚いたが、詠帝が直接不正を暴こうというのなら話が早いのではないかと思う。
 近衛兵が守る重厚な扉の前で、呂丞相は側近に謁見を申し立てる。
「康舎人。陛下に拝謁いたしますぞ」
「どうぞ。王尚書令もいらしております」
「なんと……」
 呂丞相は結蘭と黒狼に向き直り、『余計なことは語らないように』と目で合図した。ごくりと息を呑んで頷く。
 入室した執務室には、広い文机に上奏文とみられる竹簡が山のように積まれている。詠帝はその中に埋もれるようにして鎮座していた。
「陛下に拝謁いたします」
「礼はよい。闇塩の捜索についてだな」
 詠帝の隣には、王尚書令が付き添っていた。
 呂丞相は王尚書令をちらりと見やり、控えめに申し立てる。
「いかにも。すべての殿と宮を捜索するといったお考えは、いかがなものかと。土を掘り返せば鼠は出てきましょうが、掘り返した土は元通りには修復できませぬ」
 公の捜索に対して否定的な見解がうかがえる。詠帝は鷹揚に頷いた。
「鼠を捜すために土に潜らせても成果が乏しいと思うての。待っている龍の身にもなってほしい。もう見ていられぬ。房室という房室をすべて調べれば、闇塩は出てくるはずだ」
「お待ちくだされ、陛下! 無理強いはいけません。宮廷には歴代皇帝に仕えた由緒正しい家柄の者や九卿など名相もいるのです。それらをすべて暴くということは、陛下が我々を信用していないという表れになります」
「それのなにが悪いのだ。闇塩が横行することこそ、朕が臣に信用されていない証ではないか」
 次第に白熱するやり取りに薄く笑んだ王尚書令は、呂丞相を一瞥した。
「陛下のおっしゃる通りですな。それとも、呂丞相には暴かれて困るようなことがあるのですか?」
「なにを言う……。わしは臣として、陛下を正しき道へ導くために苦言を呈しておる。そなたこそ、早々に殿の整理をされたほうがよろしいぞ」
「なんですと? もう一度、陛下の御前で私を愚弄する雑言を聞かせていただきましょうか」
 険悪な仲らしい尚書令と丞相の攻防に口を差し挟む余地はなく、はらはらしながら見守る。
 詠帝は臣の諍いにうんざりとして、黒檀の椅子にもたれた。
「もうよい! 朕が決めたことだ。近日中に宮廷の捜索を行う。衛士の手配を済ませておけ」
「御意にございます」
 一同は頭を垂れた。議論は打ち切られ、退出せざるを得なくなる。
「あの……。陛下」
 去り際に結蘭が声をかけると、皆の目を引いた。
 闇塩の捜索依頼をされていたことは、王尚書令の前では言わないほうがよいのだろう。
 呂丞相が口を挟むより早く、詠帝はてのひらを掲げた。皆黙れという指示だ。