「どうしたの?」
「いや……それは……、嫁になるということじゃないのか」
「えっ⁉ そ、そんなつもりじゃないわよ?」
 慌てて上体ごと首を振ったので、鞍がぐらぐらと揺れる。子翼は結蘭を落とさないよう踏ん張った。
「そうか。嫁か……」
 噛みしめるようにつぶやき、照れたように頬をうっすらと染めた黒狼は馬の足を進める。
「違うってば!」
 結蘭は赤面しながら、子翼と共にあとを追いかけた。


 
 来た路を戻り、結蘭たちは王都へ帰還した。
 子翼を労うと、その足で丞相府へ馳せ参じる。
 ひとりのんびりと碁を打っていた呂丞相は、嬉々として碁台を脇に押しやった。
「おお、御苦労であった。今か今かと一日千秋の思いで待っておったぞ。成果はあったか?」
「夏太守に面会して参りました。こちらの竹簡に、闇塩について言及してあるそうです」
 差し出した竹簡を、呂丞相は慎重な手つきで受け取る。
「ふむ。どれ……」
 紐を解き、ぱらりと竹簡が広げられる。
 内容に目を通した呂丞相は、頓狂な声をあげた。
「なんじゃ、これは?」
 結蘭と黒狼は竹簡を覗き込んだ。
『旧知の友よ。いずれ女を交えて酒を酌み交わそう』
 この一文だけだった。竹簡を捲れど、あとはなにも書かれていない。
 呂丞相は訝しげに竹簡と結蘭を交互に見やる。
「間違いか? どこに闇塩と書いてあるのじゃ」
「え、そんな。確かにこれは夏太守が……」
 王都まで大事に懐に入れてきたのだ。紐も竹簡も、夏太守から渡された物に間違いない。
 黒狼は椅子に腰掛けて溜息を吐いた。
「謀られたな」
 あっ、と結蘭は目を見開く。
 だから決して見てはいけないと釘を刺したのだ。夏太守の策に易々と陥ってしまい、力なく椅子に倒れ込む。
「敬州まで行ってなんじゃ、この有様は。苦労した挙句に、酒の誘いとは!」
「呂丞相は碁を打っていただけでは?」
 萎れて口もきけない結蘭に代わり、実際に苦労したのは誰だと云わんばかりの黒狼は冷ややかに指摘する。
「碁の研究も大変なんじゃぞ! 処世術の一環であるからな。夏太守という男、一筋縄ではいかんらしいな。どんな男なんじゃ?」
 卓に竹簡を投げ出した呂丞相の問いに、黒狼は眉をひそめた。
「旧知の仲なのでは?」
「いいや? 会ったこともないぞ。わしは燕州の出身じゃぞ。なにゆえ敬州の太守と友人でなければならんのだ」
「なるほど。狐に化かされたというわけだ」
 話が落ちるところに着地したのか、呂丞相は手を打って女官を呼び出し、茶を頼んだ。
 すべて夏太守の謀だったのだろうか。
 あの不思議な人物が発した言葉の、なにが嘘で本当なのかわからなってくる。
 けれど、劉青の過去については真実であると確信できる。
 非業の最期を遂げた両親の話に及んだとき、歯を食い縛り涙をこぼすまいとこらえていた劉青からは、やりきれない憤怒がにじみ出ていた。
 彼は戦を憎んでいる。そして孤児となった劉青を引き取って育てた夏太守の敬州に馳せる想いは、並々ならぬものがあるはずだ。
 もし自己の利益しか考えない太守ならば、粗末な衣を着て塩壁を塗っていたりしない。
 結蘭たちにも、決して軽口だけで対応したわけではないと思いたかった。
 ふと結蘭の目に、だらりと開いた竹簡に躍った『女』という文字が映る。
 塩湖の畔で夏太守に、闇塩について訊ねてきた女がいる。
「呂丞相さま。私たちのほかに、闇塩を調べさせている女人はいますか?」
「うん? わしは知らんぞ。後宮の闇塩のことは極秘事項なのじゃ。そう手を広げるわけにはいかん」
 その女性は結蘭より年上で、声に張りがあるという。
 仔細を話したものの、明らかに期待を寄せていない呂丞相は白髯を撫でつける。
「それだけでは、なんとも言えんのう。どこの誰かもわからんのではな」
「その女人と協力できないでしょうか」
「闇塩を追っているからといって、味方とは限らん。むしろ敵であると思ってくだされ」
「でも、私たちだけでは限界があります」