退屈な講義をどうにか終えた結蘭は、ふたたび黒狼と待ち合わせる。
傾いた西日は殿から伸びた長い影法師を静かに這わせる。
向かった先は、昨夜賊と対峙した裏路だった。後宮内の西門近く、永寧宮の傍である。
路には未だ血痕が残っていた。微量なので、賊は重症ではないだろう。
「あのとき、永寧宮の女官がこちらを見ていたのよ。少し話を聞こうかと思って」
黒狼は腑に落ちない様子で腕組みをした。
「少し考えたんだが、あの台車にはなにが乗っていたんだ?」
ふと投げかけられた疑問に足が止まる。屋根のついた簡素な木の台車で、様々な荷物を運ぶものだ。後宮内でも一般的に使用されている。
「塩……とか?」
互いに顔を見合わせる。すぐに黒狼は首を左右に振った。
「車輪の音は軽かった。塩を乗せていたら、もっと重いはずだ」
「荷を下ろしたあとなんじゃない?」
「それだ。賊たちは永寧宮に塩を運んで帰る途中だった」
ということは、女官はすべて知った上で成り行きをうかがっていたのだろうか。
永寧宮は妃嬪が賜る宮殿のなかでも格別な広さを誇る。内部には拝殿や舞台まであるらしい。現在の主は、詠帝の妃嬪のなかでも古参の李昭儀である。
訪いを入れると、髪を双髻に結んだ小さな女官が走ってきた。
「いらっしゃいませ。姉さまに御用でしょうか」
たどたどしく挨拶する様子は後宮に不慣れなようで、まだ子供だ。
昨夜の女官はこの娘ではない。
「結蘭公主と申します。貴女の姉さまに会わせてくださいますか?」
「どうぞ、こちらへ。私は女官の李鈴です。姉さまはお菓子を食べながら文句を言っています」
苦笑をこぼしながら小さな背中についていく。
李鈴は女官の控え房を通り過ぎ、豪奢な金扉の前に立つ。
「姉さま、お客さまです。結……ええと、」
なんだっけとつぶやきながら、李鈴は小さな手で扉を開ける。
鳳凰の彫刻が施された奥の間には、憮然とした表情の李昭儀が鎮座していた。
扉が開く寸前に、菓子箱を追いやって扇を手にした早業を、結蘭はしかと見た。
「李鈴。姉さまと呼ぶのはおよしなさいと、いつも言っているでしょう」
「申し訳ありません。姉さま」
ぴくりと李昭儀の柳眉が跳ねる。牡丹の刺繍が施された袖をひるがえすと、金の扇がぱらりと開かれた。
姉さまというから女官長のことかと思ったが、彼女は李昭儀の妹らしい。
「もういいわ。出ておいきなさい。結蘭公主!」
「はっ、はい」
相変わらず居丈高だが、それが妙に似合うので素直に従ってしまう。
「その近侍をこなたの房に入れないでちょうだい。ふたりとも、出ておいきなさい」
李昭儀は宴席と同じように扇をかざして顔を隠す。
李鈴はついと、黒衣の袖を引いた。外で待っていると、黒狼は目で合図して退出する。
「なにか御用かしら」
「おうかがいしたいことがあるんです。昨夜、この近くに賊が出たのは御存知ですか?」
「それがどうかして」
事情を話す結蘭の話に、口元を扇で隠したまま是も非もなく聴き入る。その眼差しには疑心が浮かんでいる。結蘭はかまをかけた。
「賊が永寧宮から出てくるところを見たのです。李昭儀はなにか御存知かと思いまして」
初めて、李昭儀の目に狼狽が走った。扇を畳むと、萎れるようにうつむく。
「見られてしまったのね……。仕方ないわ。お話しましょう」
「ええ、ぜひ」
これまでの高飛車ぶりとは一変した態度に、結蘭は瞬きを繰り返す。
「あの者たちは呪術師なの」
呪術は主に憎い相手を呪い殺したり、愛しい者の心を呼び戻すという目的で行われ、特に女性の間で人気がある。
高名な呪術師には高額な礼が払われ、その金で御殿を建てる者もいるほどだ。けれど後宮内で呪術を行うことは禁じられている。
「まじないの力を借りてでも、陛下の御子を授かりたいの。こなたの父は蘇州の太守なのよ。一族の期待に応えて、次期皇帝の生母となるのがこなたの使命なの。結蘭公主には、こなたの気持ちをわかっていただけるわよね?」
「ええ、まあ……」
結蘭とは立場が異なるが、一族に対して果たさなければならない責任の重圧は理解できる。
「では呪術のこと、陛下には黙っていてもらえるわね?」
有無を言わせぬ口調でずいと身を乗り出され、思わず首肯する。
確かに呪術師と面会したことは隠さなければならないだろう。発覚すれば処罰が下される。
傾いた西日は殿から伸びた長い影法師を静かに這わせる。
向かった先は、昨夜賊と対峙した裏路だった。後宮内の西門近く、永寧宮の傍である。
路には未だ血痕が残っていた。微量なので、賊は重症ではないだろう。
「あのとき、永寧宮の女官がこちらを見ていたのよ。少し話を聞こうかと思って」
黒狼は腑に落ちない様子で腕組みをした。
「少し考えたんだが、あの台車にはなにが乗っていたんだ?」
ふと投げかけられた疑問に足が止まる。屋根のついた簡素な木の台車で、様々な荷物を運ぶものだ。後宮内でも一般的に使用されている。
「塩……とか?」
互いに顔を見合わせる。すぐに黒狼は首を左右に振った。
「車輪の音は軽かった。塩を乗せていたら、もっと重いはずだ」
「荷を下ろしたあとなんじゃない?」
「それだ。賊たちは永寧宮に塩を運んで帰る途中だった」
ということは、女官はすべて知った上で成り行きをうかがっていたのだろうか。
永寧宮は妃嬪が賜る宮殿のなかでも格別な広さを誇る。内部には拝殿や舞台まであるらしい。現在の主は、詠帝の妃嬪のなかでも古参の李昭儀である。
訪いを入れると、髪を双髻に結んだ小さな女官が走ってきた。
「いらっしゃいませ。姉さまに御用でしょうか」
たどたどしく挨拶する様子は後宮に不慣れなようで、まだ子供だ。
昨夜の女官はこの娘ではない。
「結蘭公主と申します。貴女の姉さまに会わせてくださいますか?」
「どうぞ、こちらへ。私は女官の李鈴です。姉さまはお菓子を食べながら文句を言っています」
苦笑をこぼしながら小さな背中についていく。
李鈴は女官の控え房を通り過ぎ、豪奢な金扉の前に立つ。
「姉さま、お客さまです。結……ええと、」
なんだっけとつぶやきながら、李鈴は小さな手で扉を開ける。
鳳凰の彫刻が施された奥の間には、憮然とした表情の李昭儀が鎮座していた。
扉が開く寸前に、菓子箱を追いやって扇を手にした早業を、結蘭はしかと見た。
「李鈴。姉さまと呼ぶのはおよしなさいと、いつも言っているでしょう」
「申し訳ありません。姉さま」
ぴくりと李昭儀の柳眉が跳ねる。牡丹の刺繍が施された袖をひるがえすと、金の扇がぱらりと開かれた。
姉さまというから女官長のことかと思ったが、彼女は李昭儀の妹らしい。
「もういいわ。出ておいきなさい。結蘭公主!」
「はっ、はい」
相変わらず居丈高だが、それが妙に似合うので素直に従ってしまう。
「その近侍をこなたの房に入れないでちょうだい。ふたりとも、出ておいきなさい」
李昭儀は宴席と同じように扇をかざして顔を隠す。
李鈴はついと、黒衣の袖を引いた。外で待っていると、黒狼は目で合図して退出する。
「なにか御用かしら」
「おうかがいしたいことがあるんです。昨夜、この近くに賊が出たのは御存知ですか?」
「それがどうかして」
事情を話す結蘭の話に、口元を扇で隠したまま是も非もなく聴き入る。その眼差しには疑心が浮かんでいる。結蘭はかまをかけた。
「賊が永寧宮から出てくるところを見たのです。李昭儀はなにか御存知かと思いまして」
初めて、李昭儀の目に狼狽が走った。扇を畳むと、萎れるようにうつむく。
「見られてしまったのね……。仕方ないわ。お話しましょう」
「ええ、ぜひ」
これまでの高飛車ぶりとは一変した態度に、結蘭は瞬きを繰り返す。
「あの者たちは呪術師なの」
呪術は主に憎い相手を呪い殺したり、愛しい者の心を呼び戻すという目的で行われ、特に女性の間で人気がある。
高名な呪術師には高額な礼が払われ、その金で御殿を建てる者もいるほどだ。けれど後宮内で呪術を行うことは禁じられている。
「まじないの力を借りてでも、陛下の御子を授かりたいの。こなたの父は蘇州の太守なのよ。一族の期待に応えて、次期皇帝の生母となるのがこなたの使命なの。結蘭公主には、こなたの気持ちをわかっていただけるわよね?」
「ええ、まあ……」
結蘭とは立場が異なるが、一族に対して果たさなければならない責任の重圧は理解できる。
「では呪術のこと、陛下には黙っていてもらえるわね?」
有無を言わせぬ口調でずいと身を乗り出され、思わず首肯する。
確かに呪術師と面会したことは隠さなければならないだろう。発覚すれば処罰が下される。