病院に到着すると、ナースステーションが慌ただしかった。ここは急患も受け入れているし、緊急オペなどがあったのかもしれない。

「葉くんっ‼」

 胡桃の病室へ向かう廊下で、背後から名前を呼ばれた。

「川口さん……」

 コンビニに来て以来、川口さんとは病院で顔を合わせることもあった。川口さんは本当に物腰がやわらかく、穏やかなひとだ。
 しかしそんな川口さんが、血相を変えている。それはつまり──。

「胡桃ちゃんがいなくなったんだ」

 その言葉に、頭の中が真っ白になる。

 ──胡桃が、いなくなった?

「午前の検温のときはいたんだけど、お昼ごはんを持ってきたら部屋にいなくって」

 ぼわん、ぼわん。川口さんの声は、幾重もの膜を張って僕の耳へと流れてくる。

「──中田胡桃が行方不明だと?」

 キィン。強い耳鳴りのあと、彼女の名前が輪郭を持ってクリアに聞こえた。反射的に振り向くと、白衣をまとった医師らしき男性が看護師に詰め寄っている。

「明日の検査は、研究機関のトップクラスが患者の状態を見てみたいと言ったから組んだんだぞ? 相手の都合に合わせて日程もねじこんだんだ。何があっても見つけ出さないと」

 十代での記憶障害を伴うこの病気の発症例は、世界的に見ても非常に稀。それは、以前川口さんが僕に話したことだ。それゆえ彼女は、データを取るためにも何度も検査を受けなければならないだろうということも。

「なんだよ……。それが、本当のところかよ……」

 腹の底が熱くなり、強い怒りがこみ上げる。
 胡桃がどれほどに、卒業することを心の支えとして過ごしてきたか。卒業式というひとつの節目が、彼女にとってどれほど重要な意味があることだったか。

「葉くん、少し落ち着いて。これを見てもらいたいんだ」

 医師が乗り込んだエレベーターの扉が閉まったことを確認した川口さんは、僕に一枚のメモ用紙を差し出した。


 みんなのことを忘れる前に
 このまま終わりにしたい
 わたしはわたしのままでいたい

 
「胡桃……」

 そこには、見慣れた彼女の文字。

 ──ああ、僕はなにもわかってなんかいなかったんだ。

「やっぱり胡桃ちゃんは、無理をしてたんだと思う。ひとつの支えとしていた卒業式を目前に入院したことで、その我慢の糸が切れてしまったんだ」

 川口さんは顔を歪めた。この人は、カウンセラー見習いという立場で、胡桃のことをずっと見てきた人だ。

「この病気は、葉くんが想像しているよりも、ずっとずっと残酷なものなんだ」

 身内に同じ病を抱えている立場として、言いたいことは色々あるのだろう。

「記憶をなくしていくということは、自我が崩壊していくことでもある。胡桃ちゃんはきっと、胡桃ちゃんではなくなってしまう。凶暴な別人になってしまうこともある。大きな愛情で乗り越えようと思ったって、そんな幻想を打ち壊してしまうだけの現実が待っているんだ」

 苦言を呈する、というのはこういうことを言うのだろう。川口さんは顔を歪めながらも、言葉を続けた。

「君たちが彼女を支えたいという気持ちはよく分かる。葉くん、きみが胡桃ちゃんのことをとても好きなんだということも。だけど忘れたくない人のそばにい続けるということは、果たして本当に彼女のためになるのかな」

 僕はゆっくりと、口を開く。気付かぬうちに、口の中がカラカラに乾いていた。

「胡桃が……そう言ったんですか……?」

 僕たちが一緒にいる。いつでも僕らがついている。

 それが最善だと思っていた。胡桃にとって、大きな支えになると思っていた。だけどそうではなかったのだろうか。僕らの存在が、彼女を苦しめていたのだろうか。

「葉くんたちと一緒にいると、幸せだけどつらいと言ってた……」

 カタカタと奥歯が鳴って、僕はぐっとそれを噛みしめた。

「こんな病気になってしまって、彼女の人生はこれからつらいことばかりだ。苦しくて悲しくて寂しくて……自分に降り掛かった不幸をずっと抱えながら生きていかなければならない。いつ自分のことすらわからなくなるのか怯えながら、息をしていかなきゃならない」

 ゴクリと、喉の奥で何かが擦れる音がする。

 川口さんの言っていることは、事実なのだろう。どうしたって胡桃が苦しむことは、避けられないことなのだとも思う。だけど──。

「胡桃ちゃんは、葉くんたちを忘れることを一番恐れていた。それは同時にきみたちのことをひどく傷つけるということも。この病気を抱えた人を支えていくというのは、そんな簡単にできることじゃないんだ。病気になってしまった胡桃ちゃんの意志を、尊重してあげてほしい。彼女は僕が見つけるから──」
「……じゃない」

 きつく噛み締めた歯の隙間から、低い声が漏れる。「え」という川口さんの声を待たず放たれた僕の声は、想像以上に大きく廊下に響き渡る。

「胡桃は、不幸なんかじゃない‼」

 病気になってしまったことは、確かに不運なことなのかもしれない。だからといって、胡桃が不幸かどうかなんて、そんなのはわからないじゃないか。

「不幸って、なんですか……? 世間がかわいそうだと思うことが、必ずしも不幸なんですか?」

 胡桃の笑顔、次々に大事なひとたちの顔が浮かぶ。

 記憶障害を伴う不治の病を抱えた胡桃。
 実力のある父親と結果を出す兄を持ち、からっぽだと言われた拓実。
 親の敷いたレールになんの疑問を持たない自分に、虚無感を抱いている莉桜。
 母親に捨てられた過去を持ち、自分の居場所なんてないと嘆いていた僕。

 なあ、僕。どうなんだよ、僕らはみんな、不幸なのか? 世間が不幸だと言えば、その通りなのか?
 僕らの人生を不幸にできるのは、幸せにできるのは──僕たち自身だけじゃないのか?

「胡桃が不幸かどうかなんて、あなたが決めることじゃない。胡桃の人生を決められるのは、胡桃だけだ!」

 それまでのぐちゃぐちゃに混ざっていた黒い気持ちが、少しずつ落ち着くところへ重なっていく。

 きっと人間はいつだって、あからさまな〝不幸〟で特定の人間を囲ってしまう。

 〝病気〟という不幸の枠で囲われた胡桃。
 〝からっぽ〟という不幸の枠で囲われた拓実。
 〝親の言いなり〟という不幸の枠で囲われた莉桜。
 〝母親がいない〟という不幸の枠で囲われた僕。

「枠なんて、ただの枠でしかないのに」

 不幸の枠で囲うことで、みんなと区別することで、『かわいそうだね』『自分はまだマシだね』なんて自分を慰めることを人間は無意識にしてしまう。だけど本当のことは、本人にしかわからないのだ。
 僕はゆっくりと呼吸を整えると、川口さんをまっすぐに見つめた。川口さんは圧倒されるように、そこに立ったままだ。

「周りが決めた〝不幸〟で僕らを切り離すことが正しいと、川口さんは本当にそう思いますか?」

 カウンセラーとしてではなく、ひとりの人間である川口さんに僕は尋ねた。彼は一度、黒い瞳をまるくすると、それからゆっくりとこうべを垂れた。

「胡桃のこと、真剣に考えてくれてありがとうございます」

 これは、本心だ。川口さんは本当に、胡桃のことを考えてくれている。きちんと寄り添おうとしてくれている。きっと彼は、多くの人を救うカウンセラーになるだろう。高校生の僕が言うのも変だけど。それでも本気でそう思う。

 僕は川口さんに向かって一礼すると、くるりと踵を返した。駆け出そうとしたところで、言い忘れたことを思い出す。

「川口さん」

 確かに僕は専門知識もなく、今持っているのは彼女への想いだけかもしれない。それでも僕は、彼女のそばにいたいと願う。

「僕は、彼女を〝支えたい〟わけじゃないんです。ただ一緒に、今を〝生きて〟いきたいんだ」

 それだけ告げ、僕は再び駆け出したのだった。