放課後、胡桃の家を訪れた僕を迎え入れてくれたのは、優しそうなおばあちゃんだった。

「同じ高校の同じクラス? お友達なのかいね? ほぉー、葉くんっていうの。あらあ〜ばあちゃんてっきり、胡桃ちゃんの彼氏なんかと思ったよぅ〜」

 おばあちゃんはそう言いながら、トポトポと急須でお茶を入れる。

 胡桃は現在、ちょっと出かけているとのこと。庭掃除をしていたおばあちゃんは縁側に僕を招き入れ、おもてなししてくれているというわけだ。

「羊羹は好きかいね? いただきものが、あるんのよぅ」

 僕がいま座っているこの場所は、厳密に言えば胡桃の暮らしている家ではない。同じ敷地内に新しい一軒家と、昔ながらの日本家屋が並んでいる。今僕がいるのは、おばあちゃんが暮らしているという立派な瓦屋根の家だ。広い庭の向こうには、うっすらと海が見えた。
 胡桃が、〝おばあちゃんと一緒に暮らしているようなもの〟と言っていたのは、こういうことだったようだ。

「ちょうど、お腹すいてた!」

 素直にそう返すと、おばあちゃんはニコニコと顔にしわをたくさん作りながら笑う。どこか北海道のばーちゃんに似ていて、僕は懐かしさを覚える。
 ときおり向けられる柔らかな視線は、胡桃のそれと同じあたたかさがあった。

「はい、どんぞ」

 木の茶托と一緒に手渡されたお茶は深みのある緑色。そこにぷかりと浮かぶ柱を僕は見つけた。

「あ、茶柱! おばあちゃん、茶柱立ってる!」

 茶柱なんて初めて見た。若干興奮気味に湯呑を向ければ、おばあちゃんは「おやまあ」と目を丸くしてから顔をしわくちゃにして笑う。

「ばあちゃんも久しぶりに茶柱なんて見たよぅー。葉くんが来てくれたからだねぇ」

 以前、胡桃からおばあちゃんは色々なことがわからなくなっていると聞いた。だけどこうして接していると、それも勘違いなのではないかと思えてくる。
 だっておばあちゃんはとてもしっかりしていて、僕だって会話をしていて楽しいくらいなのだ。

 歳を重ねれば物忘れをしていくことも増えるだろう。色々とわからなくなる、というのは家族だからこそ気にしすぎてしまう部分なのではないかと、僕はそんなことを感じていた。

「胡桃ちゃんはねぇ、小さい頃は本当にお転婆な女の子でねぇ」

 おばあちゃんは先程から、胡桃の現在の様子については話してこない。小さい頃はあの庭の木に登っていただとか、胡桃ちゃんは蝋梅の花が大好きでねだとか、幼い頃の話ばかり。つまり、今の胡桃の状態について特に話すことはないということだ。

 なんだ、僕たちが心配するほど体調を悪化させているというわけではなさそうだ。大体、出かけることができるのだから、大丈夫なのだろう。
 僕は小さく胸を撫で下ろした。

「それにしても、本当に立派なおうちだ」

 僕がぐるりと見回すと、おばあちゃんは「古い家だよぅ」と嬉しそうに笑う。
 畳張りの居間に使い込んだ立派な座卓。和ダンスの上にはかわいらしいこけしが三体並んでいて、その隣にいくつかの写真立てが飾ってあった。ちょっと距離があるからよく見えないけれど、きっと家族のものだろう。その奥には綺麗に掃除された仏壇が置かれていた。

「あれ……」

 そのとき、足元でチリンと小さな鈴が鳴ったのだ。視線を落とすと、そこにいたのは海沿いの広場に住み着いていたあの猫。

「ミイ子や、こっちおいで。にぼしあげるからねぇ」

 おばあちゃんの声に、猫がトトトッとこちらへと走り寄る。
 僕が時間を遡ったあの雨の日、胡桃は子猫を家に連れ帰ったと話していた。猫嫌いのお父さんは大丈夫か、僕は何度か尋ねていたのだが、彼女はいつも笑顔で「問題ないよ」と答えていた。

 胡桃の〝家〟はふたつある。両親と暮らす家と、同じ敷地内にあるおばあちゃんの家。猫はおばあちゃんの家で暮らしているようだ。それも、愛情をたっぷりと受けながら。

「ほらほら、えーっとなんだっけ。とにかくほら、これをあげていいからねぇ」

 おばあちゃんは僕の名前を忘れてしまったらしい。にこにこと差し出されたニボシの袋を受け取った僕は、そっと上半身を倒して猫の鼻先へと人差し指を近付けた。猫と人間の挨拶になると、前に胡桃から教えてもらったのだ。

「ところで今日は、あそこの松を切りに来てくれたんだっけねぇ。そうそう、ついでにたまったゴミを燃しちゃおうと思ってるんだけど、植木屋さん、手伝ってくれるかいね?」

 クンクンと鼻先を鳴らしていたミイ子は、僕を思い出したのか、今度はすりすりと手全体に身を寄せる。背中を何度か撫でてやってからにぼしをやれば、ミイ子は喜んでそれをかじった。

 ──おばあちゃんは、僕が誰であるかを忘れてしまったのだ。つい十分前までは、僕のことを胡桃の友達であるとわかっていたはずなのに。

「……そうか。そういうことなのか」

 思わず落ちてしまう、小さなつぶやき。胸の奥はきゅっと小さく萎んだままだ。
 忘れられていくというのは、自分が自分でなくなることのようにも感じられた。おばあちゃんが悪いわけじゃない。だけどおばあちゃんを蝕む病は、おばあちゃん本人だけではなく周りの人々をも追い詰めていくのだ。

 胡桃はいつも、どんな気持ちでおばあちゃんと接してきたのだろう。

「よっこらしょ、っと。もうばあちゃんねぇ、年寄りだからだめだねぇ」

 古新聞や雑誌のようなものをどこからか出してきたおばあちゃん。よたよたと運ぶおばあちゃんに駆け寄った僕は、両手でそれを受け取った。

「これを、庭で燃やせばいい?」
「そうそう。あそこにね、焼却炉があるでしょう? ぽーんっと投げて、ボッと燃しちゃっていいからねぇ」

 昔ながらの日本家屋。その庭の端には、小さな焼却炉が置いてある。昔は可燃ごみを自宅で焼却することもあったのだと、社会科の授業で聞いたことがあった。

「植木屋さんにこんなことまでお願いしちゃうの、悪いんだけどねぇ」
「いえいえ、喜んでお手伝いさせてもらいます!」

 にこりと笑顔を向けると、切ない気持ちが込み上げてしまう。どうして人の記憶というものは、こんな風にあやふやになってしまうものなのだろうか。
 マッチマッチ、と部屋の奥へと向かったおばあちゃんの丸い背中を見送った僕は、隣に積み上げられた雑誌類をぱらりとめくる。おばあちゃんが昔作ったのだろうか、赤ちゃんの編み物というタイトルのものから料理本まで、古い雑誌が数冊重ねられていた。

 色あせた紙の束たち。その中に僕は、鮮やかなブルーの背表紙を見つけて思わず手を伸ばしたのだ。