「高野さんって、不思議な人だよね」
二時間ほどの自習を終えたところで、紙パックのレモンティーをストローで飲み干した胡桃が口を開く。当の高野さんは、十五分ほど前に職員室へ行ったところだ。
「司書っぽくないし、なんかこう、大人はこうあるべき、みたいのに当てはまらないよね」
髪の毛だって明るいし、赤いオープンカーに乗っているし、口調だって若者のそれとまるで変わらない。
普通、学校で働いている大人というのは一貫して「ああしなさい」「こうした方がいい」「それはだめ」と人生の先輩として色々なことを教えようとしてくるものだ。だけど、高野さんにはそれがなかった。むしろ先ほどのように「実際そんな複雑な話じゃない」などと、一回りほど下の僕を相手に自分をさらけ出すこともある。
「わたしは、高野さんが羨ましい」
コーヒー牛乳のパックを手前に引き寄せると、今度は莉桜がぽつりとこぼす。
「親に家業を継げって言われてるってさ、わたしも同じじゃない? わたしはそのことになんの疑問も持たず、医者になりたいとか人々を救いたいとかそういう思いはないままに、ただ医者になるのが当然だって思ってきて。だけど高野さんは、ちゃんと自分を持っている」
先ほどの僕と高野さんの会話は、問題を解いていた三人にも聞こえていたのだ。
「老舗旅館の一人娘っていうだけで、そんなに期待や重圧があるんだな。僕には全然想像もつかない世界だよ」
僕の質問に答える形で、高野さんは旅館について簡単に話してくれた。
様々な重い足枷を外したかったがゆえ、若い頃はとにかくやんちゃをしたらしい。明るい髪色とあの雰囲気は、その時代の名残りというわけだ。それでもこの旅館の今後は娘に託したい。それが変わらぬ旅館高野の大旦那さんの意向。
しかしそのひとり娘は、自分で自分の将来を決めたいと思い、家を飛び出した。──というわけだ。
「たしかにふたりはタイプも違うし環境も違うけど、家業を継ぐということにつながれている部分は共通してるね」
胡桃も静かにそう頷いた。
家を継ぐということに疑問を抱いた高野さんと、抱かなかった莉桜。それでもふたりとも、両親から求められているというのは確かだ。
「高野さん、旅館継いであげたらいいのになぁ。意外と似合いそうだし」
情報を頼りにスマホで検索をかければ、高野さんの実家であろう旅館はすぐに出てきた。歴史のある、立派な旅館だということは写真だけでわかる。
こんなに立派な旅館を任せたいだなんて、それだけ両親に信頼されている証拠だ。反発して違う道を進んだ娘に対し、それでもなお、大事な旅館を任せたいと言っているのだ。
「求めてもらえる場所があるって、すごく幸せなことなのに……」
そう言っているうちに、僕は自分の状況と高野さんを比べていることに気が付いた。
高野さんの人生なのだから、高野さんの好きに生きていい。そう思うのに、その反面で「どうしてそんなに恵まれているのに」と思ってしまう僕もいる。だからこんなに固執してしまうのだ。
「葉、大丈夫? 顔色、悪いよ」
胡桃の言葉に、僕はごくりと空気の塊を飲み込んだ。今までの僕だったら、ここできっと笑顔を作ってかわしていただろう。気を遣わせるのが嫌だとか、同情されたくないとか、そういう思いが先行していたからだ。
だけどこの三人にならば、僕が抱えているものを見せてもいいのかもしれない。みんなならばまっすぐに、そんな過去ごと、きっと僕を受け入れてくれる。
「実は、僕──」
ばくばくと暴れ出しそうになる心臓を押さえながら、口を開いたときだった。
「継ぐとか継がないとか。他人の家庭の事情に口を出すほど、野暮なことはないと思う」
キン、と冷たい声が響く。その声は、それまで黙っていた拓実のものだ。
「ずっと思ってたけど、葉は思い込みが強すぎるんだよ。感情だって考え方だって、人によって違う。なんでもかんでも首突っ込むなよ」
その場の空気が、ぴしりと凍り付いたのがわかった。「拓実」とたしなめる莉桜に、ハラハラとした表情の胡桃。
拓実は立ち上がると、窓際の席へと向かいこちらに背を向けて座ってしまう。
ヴン……という空調の音だけがガランとした図書室に静かに響く。僕が最も苦手とする、無言の時間。誰も破ることのできない、気まずい時間。
「あー……ごめん、そうだよね、拓実の言う通りだ」
ゆるやかに、僕は笑った。本当は笑いたかったわけじゃない。だけど怒りたかったわけでもなかった。
ただただ、自分に失望したのだ。
「僕が口出しするようなことじゃなかった。家庭のことは、家族にしかわからないもんな。ごめん、こんな空気にしちゃって。ちょっと飲み物買ってくるわ。みんな、僕のことは気にせずに、勉強がんばれ」
最後にもう一度、「ごめん」と頭を下げた僕は、そのまま図書室を後にしたのだった。