黄涼国と碧縁国、双方の軍は国境にて対峙したが、戦に向け着実に備えてきた碧縁軍の勢いは凄まじい。国境線はたやすく破られ、碧縁軍は黄涼国侵攻を続けていた。
月娥は変わらず月兎宮に仕えていた。命じられるまでは公兎妃に近寄れないため壁際に立ち、その様子を眺めるのみである。
(蒼霄は……どこにいるのだろう)
必ず迎えにくると語っていたことを思い出す。あの時から蒼霄は宮城を出る決意をしていたのだろう。部屋に詰めていた部下たちも姿を消してしまった。
黄涼国にとっては痛手である。精鋭兵団はなく、士気は下がる一方。臨時募兵を行っているが芳しくない。そもそも若い者が国に忠誠を誓おうとしていないのである。村だけでなく都まで流行病が広まったことで、貧困層が増えていだ。黄涼国に戦うような力など残っていなかったのである。これは黄涼王が国を顧みず、己のままに贅を尽くした結果といえよう。
(昨日は近くの村が落ちたと聞いた。黄涼国に抗う力はない。いずれ、ここにも碧縁国がやってくる)
県令の判断で自ら降伏した村もあるらしい。また碧縁国もそういった村を手厚く扱い、食糧をわけたり、流行病の対処など行っているようだ。黄涼国と比べれば雲泥の差である。今後はより離反していく民が増えるだろう。
だがその危機感が宮城に広まることはなかった。
「……はあ。蒼霄はどこに行ったのかしら」
麗陽は暗く沈んでいたが、それは戦乱によるものではない。それよりも、見目麗しい陸蒼霄が姿を消したことを嘆いていた。
お気に入りの珊瑚簪に鳳凰金刺繍の襦裙を身につけ、被帛は西方から取り寄せた絹で作っている。黄涼国の現状とはほど遠い、目が眩んでしまいそうなほど高価なものを纏っていた。
「麗陽様には陛下がいらっしゃるではありませんか」
ひとりの宮女が口を開いた。気落ちした麗陽を励まそうとしたのだろう。だが麗陽は首を振る。
「あれじゃあだめよ。わたしに似合うのは美しい者だけ。国を統べるのは美しいものでなければだめだわ。碧縁国の皇子だってそうでしょう、あれは美しいと聞くもの」
「碧縁国の皇子といえば容姿端麗だけでなく、武芸にも秀でていると聞きます。黄涼侵攻の軍を任されているとか」
それを聞いた麗陽は物憂げに息を吐く。
「これならば、碧縁国の方がいいわ」
「麗陽様、そのようなお言葉は――」
「だってそうじゃない。老い先短い黄涼王より若い皇子の方がいいに決まってるもの」
いくら月兎宮といえそのような発言はよくない。麗陽以外の者たちは顔をしかめている。しかし麗陽はというと、まったく気にしていないようで立ち上がった。
「いつ碧縁国皇子がここまでくるかわからないもの。綺麗にしておかなくてはね。宝殿にある耳飾りと練香を持ってきて。今日の沐浴は金桂花の香油を使うわ」
宮女たちが頭を下げる。命じられた通りに動こうとしたが、それを遮るように部屋の扉が勢いよく開かれた。
「麗陽様、大変です!」
息を切らせて駆け込んできた宮女が、麗陽の前で膝をつく。その表情は青ざめていた。
麗陽や部屋にいた宮女たち、そして月娥も息を呑んでそれを見守る。青ざめた宮女は頭をあげ、震える唇でそれを紡いだ。
「いますぐお逃げください! 碧縁国の使者が麗陽様を要求しているとのこと」
「……わたしを?」
「はい。降伏の条件として公兎妃を渡すよう碧縁国が要求してきたのです。ですから麗陽様、急ぎ支度をしてこの宮を――」
戦況は圧倒的に碧縁国が優勢であった。その碧縁国は黄涼に降伏を迫ってきたの。降伏要求の中に、公兎妃を碧縁国に渡すという条件があったのだろう。黄涼王は愛しい公兎妃を手放すまいと、宮城から逃げるよう命じたのだ。
だが麗陽はにたりと笑みを浮かべた。
「それはよかったわ。やはりわたしは美しいものに愛されるべきなのよ」
陶酔しきった様子で告げる。
「黄涼を救うためと言って碧縁国に移り、容姿端麗と聞く皇子に愛される。素晴らしいわ。そうなるべきだとわたしも思っていたの。だから逃げるわけないでしょう――碧縁国の使者の元に向かうわ」
麗陽はそのまま部屋を出て行く。宮女らは引き止めようとしたが、誰も麗陽を止められず、後をついていくことしかできなかった。
(……ひどすぎる)
月娥も麗陽の後をついていきながら、胸中はどす黒い感情で覆われていた。麗陽の横暴な振る舞いはひどすぎる。黄涼にて贅を吸い尽くしておきながら、今度は名高い碧縁国皇子の元へ行くとは。国や民のことなど彼女の頭には微塵もないのだろう。
月娥の懐には公兎鏡が入っていた。質素な鏡だが、手にするとふつふつと力が湧く気がした。身のうちにある公兎龍が鏡を喜んでいるのかもしれない。それを手にしたまま、月兎宮を出た。
謁見のために立てられた殿には黄涼王や黄涼の政を任された重臣ら、そして降伏勧告のためにやってきた碧縁国の使者も揃っていた。
そこへ突然現われた麗陽の姿に驚き、黄涼王が立ち上がる。
「公兎妃! なぜ、ここに」
影で逃げるよう命じていたのが、使者の前に現われるなどと思ってもいなかったのだろう。しかし麗陽は表情を作り、袖で目元を覆うようにして、しんみりと告げた。
「公兎妃であるわたしが身を挺せば、黄涼の地は守られると聞きました。ですからわたしは碧縁国に参りましょう」
「ならん。それはならんぞ!」
「いいえ陛下。<わたしは黄涼を想っております>。だからどうかわたしを捧げてください」
麗陽の後ろに控えていた月娥は首裏を押さえた。この緊迫した場で堂々と偽りを述べる麗陽が恐ろしい。
(これが嘘ということは、麗陽は黄涼のことなどまったく想っていない)
嘘であることを知るのは月娥だけ。それを苦々しく思っていると、碧縁国使者のひとりが立ち上がった。彼は長布を頭と顔に巻き付け、目元しか見せていなかった。
「……なるほど。彼女が噂の公兎妃ですか」
聞き覚えのある声だった。月娥は慌ててその方を見る。
彼はその布を取り払った。彼の顔を隠していた長布ははらりと床に落ちる。そして現われたのはよく知った、見たことのある者だった。その姿に黄涼王が吃驚を漏らす。
「陸蒼霄……なぜここに」
確かにその人物は蒼霄である。しかし宮城にいた時と異なり、碧色の耳飾りをし、袍や帯は豪奢なものに変わっている。蒼霄はにたりと笑みを浮かべて告げた。
「この地では陸蒼霄と名乗っていましたが、本当は曹碧霄と申します」
「曹碧霄……まさか、碧縁国の第一皇子……」
蒼霄――いや碧霄は不敵に微笑み、しっかりと頷いた。
曹碧霄とは黄涼でも名の知れた、碧縁国皇子の名である。水晶のように美しく、武芸に秀でた皇子。それが蒼霄の正体だったのである。
彼は麗陽へと歩み寄った。麗陽にとっては、あれほど焦がれた美しい皇子が目の前にいるのだ。陶酔し、うっとりとしている。
「蒼霄……あなたが碧縁国の皇子だったなんて……」
「ええ。黄涼国内部を調べるために偽っておりました」
「<わたし、わかっていましたの>。蒼霄は美しいもの、きっと碧縁国の皇子で、わたしを愛してくれるって信じていたわ」
「なるほど」
くつくつと碧霄は嗤う。穏やかに細められていた瞳は一転して、怒気を孕んだものに変わる。
「随分と都合のいい夢を見ているようだ」
「え……な、なにを……」
告げられたことが信じられないとばかり、麗陽の身が凍りつく。碧霄は麗陽を無視して、黄涼王の方を向く。冷ややかな声で黄涼王に聞いた。
「我々は公兎妃を要求している。黄涼王はこの者が公兎妃であるというのか」
「あ、ああ……その麗陽こそ公兎龍に選ばれた娘だが……」
碧霄はその言い訳を一笑に付した。
「公兎伝承もろくに調べず、このような浅ましい者を公兎妃に仕立て上げるなど。これが黄涼衰退の理由だろうな」
「っ……な、なにを……」
「我々、碧縁国は本物の公兎龍の娘を求めている。このように醜い心を持つ偽物などいらん」
黄涼王が青ざめた。だがまだ麗陽は諦めていないようだった。その場に膝をつき、碧霄にすがりつく。
「信じてください。<わたしこそが公兎の娘>です」
碧霄は嫌気たっぷりに麗陽の手を払いのけた。そして部屋に詰めた者たちに聞こえるよう大きな声で宣言する。
「本物の公兎龍の娘は、公兎鏡を持つ。出てこい」
ちらり、と視線が月娥に向けられた。
(わたしを呼んでいる……)
必ず迎えにいくと言っていたのはこのことだろう。そして月娥が本物であると知らしめると告げていた。それがいま、やってきたのだ。
おそるおそる、月娥が歩み出た。
部屋にいる者たちは驚きに声をあげたり、息を呑んだりと様々な反応をしながらも、月娥の碧霄の様子に見入っていた。その中で、月娥は公兎鏡を取り出す。
「公兎伝承によれば、この鏡は本物の公兎の娘を映し、偽りは映さないと聞く――月娥、鏡を借りるぞ」
「っ、や、やめて!」
自らが偽りだと自覚している麗陽は逃げようとしたが、碧霄の部下らがそれを押さえた。
碧霄は麗陽の元に近づき、鏡を向ける。
室内にどよめきが広がった。
「……なにも、映ってない」
「どういうことだ。黄涼の公兎妃は偽物だったのか?」
鏡は確かに、麗陽の姿を映さなかった。
これには黄涼王も唖然としていた。彼は美しい麗陽こそ公兎の娘であると信じてきたのである。それがこうして曝かれてしまった。
「いや、いやよ……<わたしは本物なの>! <本当>よ! だから信じて、信じてってば」
「部屋から連れて行け。その偽物は騒がしくて敵わん」
麗陽は泣き叫んでいたが、碧霄が手をあげると部下らがその口を塞いだ。そのやりとりを眺める碧霄のまなざしには侮蔑を込められていた。
さて今まで公兎妃として信じられてきた麗陽が偽物となれば、黄涼王や黄涼の重臣らはざわめく。彼らはあたりを見渡していた。
「では、本物の公兎の娘は一体……」
「あの公兎妃が偽物ならばどこかに本物がいるのでは」
そこで碧霄がにたりと笑みを浮かべた。声を張りあげ、告げる。
「いますよ。ここに」
碧霄の言葉を聞いた者たちが月娥を見やる。注視を浴びる月娥の身は震えていた。その肩を碧霄が優しく抱き、耳元で語りかける。
「迎えにきたぞ、月娥。いまこそお前が本物だと知らしめる時だ」
「……はい」
ついに鏡が向けられた。
その鏡はしっかりと月娥の顔を映し出している。それどころか室内だというのに風が吹き、月娥の前髪を揺らす。額の印が水碧色に光り輝いた。
「……おお。映っている」
「なんだあの光は。まさかこの娘が本物の……」
碧霄が鏡をさげると、額の光は止まった。
部屋はしんと静かになり、みなが本物の公兎の娘に伏している。黄涼王もそのひとりだった。月娥が麗陽と同じ燕家の娘であることは知っていたのだろう。彼は愕然とし、嘆き呟く。
「まさか……麗陽ではなく、月娥の方だったとは……」
碧霄はあたりを見渡した。そして月娥に問う。
「公兎龍に選ばれた娘は天命を見極め、世を選ぶ――月娥、黄涼国と碧縁国、どちらを選ぶ?」
月娥は固く手を握りしめた。既に答えはでている。黄涼王もまた、それを察しているのだろう。彼は諦めた様子であった。
一歩ずつ、歩み寄る。
月娥は碧霄の隣に並んだ。そして冷ややかに黄涼王を見下ろして告げる。
「黄涼王は国や民を顧みず、私利私欲のために財を使いました。寵愛する麗陽のために投げ売った財があれば、この国の民は良き生活を送れたはずです。わたしはそのように、ひとの命を蔑ろにする国にいたくない」
月娥は碧霄の手を取る。冷えたこの国と違って、温かい。碧霄もまた優しく手を握り返してくれた。それだけで勇気が湧いてくるようであった。
「わたしは花堯の民の幸福を望みます。黄涼王ではそれができない」
それが月娥が下した審判。公兎の娘は碧縁国を選んだ。
***
月娥は変わらず月兎宮に仕えていた。命じられるまでは公兎妃に近寄れないため壁際に立ち、その様子を眺めるのみである。
(蒼霄は……どこにいるのだろう)
必ず迎えにくると語っていたことを思い出す。あの時から蒼霄は宮城を出る決意をしていたのだろう。部屋に詰めていた部下たちも姿を消してしまった。
黄涼国にとっては痛手である。精鋭兵団はなく、士気は下がる一方。臨時募兵を行っているが芳しくない。そもそも若い者が国に忠誠を誓おうとしていないのである。村だけでなく都まで流行病が広まったことで、貧困層が増えていだ。黄涼国に戦うような力など残っていなかったのである。これは黄涼王が国を顧みず、己のままに贅を尽くした結果といえよう。
(昨日は近くの村が落ちたと聞いた。黄涼国に抗う力はない。いずれ、ここにも碧縁国がやってくる)
県令の判断で自ら降伏した村もあるらしい。また碧縁国もそういった村を手厚く扱い、食糧をわけたり、流行病の対処など行っているようだ。黄涼国と比べれば雲泥の差である。今後はより離反していく民が増えるだろう。
だがその危機感が宮城に広まることはなかった。
「……はあ。蒼霄はどこに行ったのかしら」
麗陽は暗く沈んでいたが、それは戦乱によるものではない。それよりも、見目麗しい陸蒼霄が姿を消したことを嘆いていた。
お気に入りの珊瑚簪に鳳凰金刺繍の襦裙を身につけ、被帛は西方から取り寄せた絹で作っている。黄涼国の現状とはほど遠い、目が眩んでしまいそうなほど高価なものを纏っていた。
「麗陽様には陛下がいらっしゃるではありませんか」
ひとりの宮女が口を開いた。気落ちした麗陽を励まそうとしたのだろう。だが麗陽は首を振る。
「あれじゃあだめよ。わたしに似合うのは美しい者だけ。国を統べるのは美しいものでなければだめだわ。碧縁国の皇子だってそうでしょう、あれは美しいと聞くもの」
「碧縁国の皇子といえば容姿端麗だけでなく、武芸にも秀でていると聞きます。黄涼侵攻の軍を任されているとか」
それを聞いた麗陽は物憂げに息を吐く。
「これならば、碧縁国の方がいいわ」
「麗陽様、そのようなお言葉は――」
「だってそうじゃない。老い先短い黄涼王より若い皇子の方がいいに決まってるもの」
いくら月兎宮といえそのような発言はよくない。麗陽以外の者たちは顔をしかめている。しかし麗陽はというと、まったく気にしていないようで立ち上がった。
「いつ碧縁国皇子がここまでくるかわからないもの。綺麗にしておかなくてはね。宝殿にある耳飾りと練香を持ってきて。今日の沐浴は金桂花の香油を使うわ」
宮女たちが頭を下げる。命じられた通りに動こうとしたが、それを遮るように部屋の扉が勢いよく開かれた。
「麗陽様、大変です!」
息を切らせて駆け込んできた宮女が、麗陽の前で膝をつく。その表情は青ざめていた。
麗陽や部屋にいた宮女たち、そして月娥も息を呑んでそれを見守る。青ざめた宮女は頭をあげ、震える唇でそれを紡いだ。
「いますぐお逃げください! 碧縁国の使者が麗陽様を要求しているとのこと」
「……わたしを?」
「はい。降伏の条件として公兎妃を渡すよう碧縁国が要求してきたのです。ですから麗陽様、急ぎ支度をしてこの宮を――」
戦況は圧倒的に碧縁国が優勢であった。その碧縁国は黄涼に降伏を迫ってきたの。降伏要求の中に、公兎妃を碧縁国に渡すという条件があったのだろう。黄涼王は愛しい公兎妃を手放すまいと、宮城から逃げるよう命じたのだ。
だが麗陽はにたりと笑みを浮かべた。
「それはよかったわ。やはりわたしは美しいものに愛されるべきなのよ」
陶酔しきった様子で告げる。
「黄涼を救うためと言って碧縁国に移り、容姿端麗と聞く皇子に愛される。素晴らしいわ。そうなるべきだとわたしも思っていたの。だから逃げるわけないでしょう――碧縁国の使者の元に向かうわ」
麗陽はそのまま部屋を出て行く。宮女らは引き止めようとしたが、誰も麗陽を止められず、後をついていくことしかできなかった。
(……ひどすぎる)
月娥も麗陽の後をついていきながら、胸中はどす黒い感情で覆われていた。麗陽の横暴な振る舞いはひどすぎる。黄涼にて贅を吸い尽くしておきながら、今度は名高い碧縁国皇子の元へ行くとは。国や民のことなど彼女の頭には微塵もないのだろう。
月娥の懐には公兎鏡が入っていた。質素な鏡だが、手にするとふつふつと力が湧く気がした。身のうちにある公兎龍が鏡を喜んでいるのかもしれない。それを手にしたまま、月兎宮を出た。
謁見のために立てられた殿には黄涼王や黄涼の政を任された重臣ら、そして降伏勧告のためにやってきた碧縁国の使者も揃っていた。
そこへ突然現われた麗陽の姿に驚き、黄涼王が立ち上がる。
「公兎妃! なぜ、ここに」
影で逃げるよう命じていたのが、使者の前に現われるなどと思ってもいなかったのだろう。しかし麗陽は表情を作り、袖で目元を覆うようにして、しんみりと告げた。
「公兎妃であるわたしが身を挺せば、黄涼の地は守られると聞きました。ですからわたしは碧縁国に参りましょう」
「ならん。それはならんぞ!」
「いいえ陛下。<わたしは黄涼を想っております>。だからどうかわたしを捧げてください」
麗陽の後ろに控えていた月娥は首裏を押さえた。この緊迫した場で堂々と偽りを述べる麗陽が恐ろしい。
(これが嘘ということは、麗陽は黄涼のことなどまったく想っていない)
嘘であることを知るのは月娥だけ。それを苦々しく思っていると、碧縁国使者のひとりが立ち上がった。彼は長布を頭と顔に巻き付け、目元しか見せていなかった。
「……なるほど。彼女が噂の公兎妃ですか」
聞き覚えのある声だった。月娥は慌ててその方を見る。
彼はその布を取り払った。彼の顔を隠していた長布ははらりと床に落ちる。そして現われたのはよく知った、見たことのある者だった。その姿に黄涼王が吃驚を漏らす。
「陸蒼霄……なぜここに」
確かにその人物は蒼霄である。しかし宮城にいた時と異なり、碧色の耳飾りをし、袍や帯は豪奢なものに変わっている。蒼霄はにたりと笑みを浮かべて告げた。
「この地では陸蒼霄と名乗っていましたが、本当は曹碧霄と申します」
「曹碧霄……まさか、碧縁国の第一皇子……」
蒼霄――いや碧霄は不敵に微笑み、しっかりと頷いた。
曹碧霄とは黄涼でも名の知れた、碧縁国皇子の名である。水晶のように美しく、武芸に秀でた皇子。それが蒼霄の正体だったのである。
彼は麗陽へと歩み寄った。麗陽にとっては、あれほど焦がれた美しい皇子が目の前にいるのだ。陶酔し、うっとりとしている。
「蒼霄……あなたが碧縁国の皇子だったなんて……」
「ええ。黄涼国内部を調べるために偽っておりました」
「<わたし、わかっていましたの>。蒼霄は美しいもの、きっと碧縁国の皇子で、わたしを愛してくれるって信じていたわ」
「なるほど」
くつくつと碧霄は嗤う。穏やかに細められていた瞳は一転して、怒気を孕んだものに変わる。
「随分と都合のいい夢を見ているようだ」
「え……な、なにを……」
告げられたことが信じられないとばかり、麗陽の身が凍りつく。碧霄は麗陽を無視して、黄涼王の方を向く。冷ややかな声で黄涼王に聞いた。
「我々は公兎妃を要求している。黄涼王はこの者が公兎妃であるというのか」
「あ、ああ……その麗陽こそ公兎龍に選ばれた娘だが……」
碧霄はその言い訳を一笑に付した。
「公兎伝承もろくに調べず、このような浅ましい者を公兎妃に仕立て上げるなど。これが黄涼衰退の理由だろうな」
「っ……な、なにを……」
「我々、碧縁国は本物の公兎龍の娘を求めている。このように醜い心を持つ偽物などいらん」
黄涼王が青ざめた。だがまだ麗陽は諦めていないようだった。その場に膝をつき、碧霄にすがりつく。
「信じてください。<わたしこそが公兎の娘>です」
碧霄は嫌気たっぷりに麗陽の手を払いのけた。そして部屋に詰めた者たちに聞こえるよう大きな声で宣言する。
「本物の公兎龍の娘は、公兎鏡を持つ。出てこい」
ちらり、と視線が月娥に向けられた。
(わたしを呼んでいる……)
必ず迎えにいくと言っていたのはこのことだろう。そして月娥が本物であると知らしめると告げていた。それがいま、やってきたのだ。
おそるおそる、月娥が歩み出た。
部屋にいる者たちは驚きに声をあげたり、息を呑んだりと様々な反応をしながらも、月娥の碧霄の様子に見入っていた。その中で、月娥は公兎鏡を取り出す。
「公兎伝承によれば、この鏡は本物の公兎の娘を映し、偽りは映さないと聞く――月娥、鏡を借りるぞ」
「っ、や、やめて!」
自らが偽りだと自覚している麗陽は逃げようとしたが、碧霄の部下らがそれを押さえた。
碧霄は麗陽の元に近づき、鏡を向ける。
室内にどよめきが広がった。
「……なにも、映ってない」
「どういうことだ。黄涼の公兎妃は偽物だったのか?」
鏡は確かに、麗陽の姿を映さなかった。
これには黄涼王も唖然としていた。彼は美しい麗陽こそ公兎の娘であると信じてきたのである。それがこうして曝かれてしまった。
「いや、いやよ……<わたしは本物なの>! <本当>よ! だから信じて、信じてってば」
「部屋から連れて行け。その偽物は騒がしくて敵わん」
麗陽は泣き叫んでいたが、碧霄が手をあげると部下らがその口を塞いだ。そのやりとりを眺める碧霄のまなざしには侮蔑を込められていた。
さて今まで公兎妃として信じられてきた麗陽が偽物となれば、黄涼王や黄涼の重臣らはざわめく。彼らはあたりを見渡していた。
「では、本物の公兎の娘は一体……」
「あの公兎妃が偽物ならばどこかに本物がいるのでは」
そこで碧霄がにたりと笑みを浮かべた。声を張りあげ、告げる。
「いますよ。ここに」
碧霄の言葉を聞いた者たちが月娥を見やる。注視を浴びる月娥の身は震えていた。その肩を碧霄が優しく抱き、耳元で語りかける。
「迎えにきたぞ、月娥。いまこそお前が本物だと知らしめる時だ」
「……はい」
ついに鏡が向けられた。
その鏡はしっかりと月娥の顔を映し出している。それどころか室内だというのに風が吹き、月娥の前髪を揺らす。額の印が水碧色に光り輝いた。
「……おお。映っている」
「なんだあの光は。まさかこの娘が本物の……」
碧霄が鏡をさげると、額の光は止まった。
部屋はしんと静かになり、みなが本物の公兎の娘に伏している。黄涼王もそのひとりだった。月娥が麗陽と同じ燕家の娘であることは知っていたのだろう。彼は愕然とし、嘆き呟く。
「まさか……麗陽ではなく、月娥の方だったとは……」
碧霄はあたりを見渡した。そして月娥に問う。
「公兎龍に選ばれた娘は天命を見極め、世を選ぶ――月娥、黄涼国と碧縁国、どちらを選ぶ?」
月娥は固く手を握りしめた。既に答えはでている。黄涼王もまた、それを察しているのだろう。彼は諦めた様子であった。
一歩ずつ、歩み寄る。
月娥は碧霄の隣に並んだ。そして冷ややかに黄涼王を見下ろして告げる。
「黄涼王は国や民を顧みず、私利私欲のために財を使いました。寵愛する麗陽のために投げ売った財があれば、この国の民は良き生活を送れたはずです。わたしはそのように、ひとの命を蔑ろにする国にいたくない」
月娥は碧霄の手を取る。冷えたこの国と違って、温かい。碧霄もまた優しく手を握り返してくれた。それだけで勇気が湧いてくるようであった。
「わたしは花堯の民の幸福を望みます。黄涼王ではそれができない」
それが月娥が下した審判。公兎の娘は碧縁国を選んだ。
***