黄涼国と碧縁国、双方の軍は国境にて対峙したが、戦に向け着実に備えてきた碧縁軍の勢いは凄まじい。国境線はたやすく破られ、碧縁軍は黄涼国侵攻を続けていた。
 月娥は変わらず月兎宮に仕えていた。命じられるまでは公兎妃に近寄れないため壁際に立ち、その様子を眺めるのみである。

(蒼霄は……どこにいるのだろう)

 必ず迎えにくると語っていたことを思い出す。あの時から蒼霄は宮城を出る決意をしていたのだろう。部屋に詰めていた部下たちも姿を消してしまった。
 黄涼国にとっては痛手である。精鋭兵団はなく、士気は下がる一方。臨時募兵を行っているが(かんば)しくない。そもそも若い者が国に忠誠を誓おうとしていないのである。村だけでなく都まで流行病が広まったことで、貧困層が増えていだ。黄涼国に戦うような力など残っていなかったのである。これは黄涼王が国を顧みず、己のままに贅を尽くした結果といえよう。

(昨日は近くの村が落ちたと聞いた。黄涼国に抗う力はない。いずれ、ここにも碧縁国がやってくる)

 県令の判断で自ら降伏した村もあるらしい。また碧縁国もそういった村を手厚く扱い、食糧をわけたり、流行病の対処など行っているようだ。黄涼国と比べれば雲泥の差である。今後はより離反していく民が増えるだろう。


 だがその危機感が宮城に広まることはなかった。

「……はあ。蒼霄はどこに行ったのかしら」

 麗陽は暗く沈んでいたが、それは戦乱によるものではない。それよりも、見目麗しい陸蒼霄が姿を消したことを嘆いていた。
 お気に入りの珊瑚簪に鳳凰金刺繍の襦裙を身につけ、被帛(ひはく)は西方から取り寄せた絹で作っている。黄涼国の現状とはほど遠い、目が眩んでしまいそうなほど高価なものを纏っていた。

「麗陽様には陛下がいらっしゃるではありませんか」

 ひとりの宮女が口を開いた。気落ちした麗陽を励まそうとしたのだろう。だが麗陽は首を振る。

「あれじゃあだめよ。わたしに似合うのは美しい者だけ。国を統べるのは美しいものでなければだめだわ。碧縁国の皇子だってそうでしょう、あれは美しいと聞くもの」
「碧縁国の皇子といえば容姿端麗だけでなく、武芸にも秀でていると聞きます。黄涼侵攻の軍を任されているとか」

 それを聞いた麗陽は物憂げに息を吐く。

「これならば、碧縁国の方がいいわ」
「麗陽様、そのようなお言葉は――」
「だってそうじゃない。老い先短い黄涼王より若い皇子の方がいいに決まってるもの」

 いくら月兎宮といえそのような発言はよくない。麗陽以外の者たちは顔をしかめている。しかし麗陽はというと、まったく気にしていないようで立ち上がった。

「いつ碧縁国皇子がここまでくるかわからないもの。綺麗にしておかなくてはね。宝殿にある耳飾りと練香を持ってきて。今日の沐浴は金桂花(きんもくせい)の香油を使うわ」

 宮女たちが頭を下げる。命じられた通りに動こうとしたが、それを遮るように部屋の扉が勢いよく開かれた。

「麗陽様、大変です!」

 息を切らせて駆け込んできた宮女が、麗陽の前で膝をつく。その表情は青ざめていた。
 麗陽や部屋にいた宮女たち、そして月娥も息を呑んでそれを見守る。青ざめた宮女は頭をあげ、震える唇でそれを紡いだ。

「いますぐお逃げください! 碧縁国の使者が麗陽様を要求しているとのこと」
「……わたしを?」
「はい。降伏の条件として公兎妃を渡すよう碧縁国が要求してきたのです。ですから麗陽様、急ぎ支度をしてこの宮を――」

 戦況は圧倒的に碧縁国が優勢であった。その碧縁国は黄涼に降伏を迫ってきたの。降伏要求の中に、公兎妃を碧縁国に渡すという条件があったのだろう。黄涼王は愛しい公兎妃を手放すまいと、宮城から逃げるよう命じたのだ。
 だが麗陽はにたりと笑みを浮かべた。

「それはよかったわ。やはりわたしは美しいものに愛されるべきなのよ」

 陶酔しきった様子で告げる。

「黄涼を救うためと言って碧縁国に移り、容姿端麗と聞く皇子に愛される。素晴らしいわ。そうなるべきだとわたしも思っていたの。だから逃げるわけないでしょう――碧縁国の使者の元に向かうわ」

 麗陽はそのまま部屋を出て行く。宮女らは引き止めようとしたが、誰も麗陽を止められず、後をついていくことしかできなかった。

(……ひどすぎる)

 月娥も麗陽の後をついていきながら、胸中はどす黒い感情で覆われていた。麗陽の横暴な振る舞いはひどすぎる。黄涼にて贅を吸い尽くしておきながら、今度は名高い碧縁国皇子の元へ行くとは。国や民のことなど彼女の頭には微塵もないのだろう。
 月娥の懐には公兎鏡が入っていた。質素な鏡だが、手にするとふつふつと力が湧く気がした。身のうちにある公兎龍が鏡を喜んでいるのかもしれない。それを手にしたまま、月兎宮を出た。



 謁見のために立てられた殿には黄涼王や黄涼の(まつりごと)を任された重臣ら、そして降伏勧告のためにやってきた碧縁国の使者も揃っていた。
 そこへ突然現われた麗陽の姿に驚き、黄涼王が立ち上がる。

「公兎妃! なぜ、ここに」

 影で逃げるよう命じていたのが、使者の前に現われるなどと思ってもいなかったのだろう。しかし麗陽は表情を作り、袖で目元を覆うようにして、しんみりと告げた。

「公兎妃であるわたしが身を挺せば、黄涼の地は守られると聞きました。ですからわたしは碧縁国に参りましょう」
「ならん。それはならんぞ!」
「いいえ陛下。<わたしは黄涼を想っております>。だからどうかわたしを捧げてください」

 麗陽の後ろに控えていた月娥は首裏を押さえた。この緊迫した場で堂々と偽りを述べる麗陽が恐ろしい。

(これが嘘ということは、麗陽は黄涼のことなどまったく想っていない)

 嘘であることを知るのは月娥だけ。それを苦々しく思っていると、碧縁国使者のひとりが立ち上がった。彼は長布を頭と顔に巻き付け、目元しか見せていなかった。

「……なるほど。彼女が噂の公兎妃ですか」

 聞き覚えのある声だった。月娥は慌ててその方を見る。
 彼はその布を取り払った。彼の顔を隠していた長布ははらりと床に落ちる。そして現われたのはよく知った、見たことのある者だった。その姿に黄涼王が吃驚を漏らす。

「陸蒼霄……なぜここに」

 確かにその人物は蒼霄である。しかし宮城にいた時と異なり、碧色の耳飾りをし、袍や帯は豪奢なものに変わっている。蒼霄はにたりと笑みを浮かべて告げた。

「この地では陸蒼霄と名乗っていましたが、本当は(そう)碧霄(へきしょう)と申します」
「曹碧霄……まさか、碧縁国の第一皇子……」

 蒼霄――いや碧霄は不敵に微笑み、しっかりと頷いた。

 曹碧霄とは黄涼でも名の知れた、碧縁国皇子の名である。水晶のように美しく、武芸に秀でた皇子。それが蒼霄の正体だったのである。
 彼は麗陽へと歩み寄った。麗陽にとっては、あれほど焦がれた美しい皇子が目の前にいるのだ。陶酔し、うっとりとしている。

「蒼霄……あなたが碧縁国の皇子だったなんて……」
「ええ。黄涼国内部を調べるために偽っておりました」
「<わたし、わかっていましたの>。蒼霄は美しいもの、きっと碧縁国の皇子で、わたしを愛してくれるって信じていたわ」
「なるほど」

 くつくつと碧霄は嗤う。穏やかに細められていた瞳は一転して、怒気を孕んだものに変わる。

「随分と都合のいい夢を見ているようだ」
「え……な、なにを……」

 告げられたことが信じられないとばかり、麗陽の身が凍りつく。碧霄は麗陽を無視して、黄涼王の方を向く。冷ややかな声で黄涼王に聞いた。

「我々は公兎妃を要求している。黄涼王はこの者が公兎妃であるというのか」
「あ、ああ……その麗陽こそ公兎龍に選ばれた娘だが……」

 碧霄はその言い訳を一笑に付した。

「公兎伝承もろくに調べず、このような浅ましい者を公兎妃に仕立て上げるなど。これが黄涼衰退の理由だろうな」
「っ……な、なにを……」
「我々、碧縁国は()()()公兎龍の娘を求めている。このように醜い心を持つ偽物などいらん」

 黄涼王が青ざめた。だがまだ麗陽は諦めていないようだった。その場に膝をつき、碧霄にすがりつく。

「信じてください。<わたしこそが公兎の娘>です」

 碧霄は嫌気たっぷりに麗陽の手を払いのけた。そして部屋に詰めた者たちに聞こえるよう大きな声で宣言する。

「本物の公兎龍の娘は、公兎鏡を持つ。出てこい」

 ちらり、と視線が月娥に向けられた。

(わたしを呼んでいる……)

 必ず迎えにいくと言っていたのはこのことだろう。そして月娥が本物であると知らしめると告げていた。それがいま、やってきたのだ。
 おそるおそる、月娥が歩み出た。
 部屋にいる者たちは驚きに声をあげたり、息を呑んだりと様々な反応をしながらも、月娥の碧霄の様子に見入っていた。その中で、月娥は公兎鏡を取り出す。

「公兎伝承によれば、この鏡は本物の公兎の娘を映し、偽りは映さないと聞く――月娥、鏡を借りるぞ」
「っ、や、やめて!」

 自らが偽りだと自覚している麗陽は逃げようとしたが、碧霄の部下らがそれを押さえた。
 碧霄は麗陽の元に近づき、鏡を向ける。
 室内にどよめきが広がった。

「……なにも、映ってない」
「どういうことだ。黄涼の公兎妃は偽物だったのか?」

 鏡は確かに、麗陽の姿を映さなかった。
 これには黄涼王も唖然としていた。彼は美しい麗陽こそ公兎の娘であると信じてきたのである。それがこうして曝かれてしまった。

「いや、いやよ……<わたしは本物なの>! <本当>よ! だから信じて、信じてってば」
「部屋から連れて行け。その偽物は騒がしくて敵わん」

 麗陽は泣き叫んでいたが、碧霄が手をあげると部下らがその口を塞いだ。そのやりとりを眺める碧霄のまなざしには侮蔑を込められていた。

 さて今まで公兎妃として信じられてきた麗陽が偽物となれば、黄涼王や黄涼の重臣らはざわめく。彼らはあたりを見渡していた。

「では、本物の公兎の娘は一体……」
「あの公兎妃が偽物ならばどこかに本物がいるのでは」

 そこで碧霄がにたりと笑みを浮かべた。声を張りあげ、告げる。

「いますよ。ここに」

 碧霄の言葉を聞いた者たちが月娥を見やる。注視を浴びる月娥の身は震えていた。その肩を碧霄が優しく抱き、耳元で語りかける。

「迎えにきたぞ、月娥。いまこそお前が本物だと知らしめる時だ」
「……はい」

 ついに鏡が向けられた。
 その鏡はしっかりと月娥の顔を映し出している。それどころか室内だというのに風が吹き、月娥の前髪を揺らす。額の印が水碧色に光り輝いた。

「……おお。映っている」
「なんだあの光は。まさかこの娘が本物の……」

 碧霄が鏡をさげると、額の光は止まった。
 部屋はしんと静かになり、みなが本物の公兎の娘に伏している。黄涼王もそのひとりだった。月娥が麗陽と同じ燕家の娘であることは知っていたのだろう。彼は愕然とし、嘆き呟く。

「まさか……麗陽ではなく、月娥の方だったとは……」

 碧霄はあたりを見渡した。そして月娥に問う。

「公兎龍に選ばれた娘は天命を見極め、世を選ぶ――月娥、黄涼国と碧縁国、どちらを選ぶ?」

 月娥は固く手を握りしめた。既に答えはでている。黄涼王もまた、それを察しているのだろう。彼は諦めた様子であった。
 一歩ずつ、歩み寄る。
 月娥は碧霄の隣に並んだ。そして冷ややかに黄涼王を見下ろして告げる。

「黄涼王は国や民を顧みず、私利私欲のために財を使いました。寵愛する麗陽のために投げ売った財があれば、この国の民は良き生活を送れたはずです。わたしはそのように、ひとの命を蔑ろにする国にいたくない」

 月娥は碧霄の手を取る。冷えたこの国と違って、温かい。碧霄もまた優しく手を握り返してくれた。それだけで勇気が湧いてくるようであった。

「わたしは花堯の民の幸福を望みます。黄涼王ではそれができない」

 それが月娥が下した審判。公兎の娘は碧縁国を選んだ。

***