数日後のことである。その日も麗陽の機嫌はひどく悪かった。黄涼王からの貢ぎ物が増え、豪奢な部屋に叱責する声が飛び交っている。

「この簪を用意したのは誰!?」

 どうやら髪に挿した簪が気に入らなかったらしい。抜き取って床に投げ捨てると、それはぱきりと割れてしまった。埋め込まれた紅玉も傷がついている。

「わ、わたしです……」

 ひとりの宮女が青ざめながら前に出た。麗陽の前で膝をつくが、体も声も震えている。

「こんなもの、わたしに合うわけがないでしょう!」
「ですが、これを挿したいと昨晩仰ったのは麗陽様で……」

 瞬間、閉じた扇が空を裂いた。ぱしりと頬を打つ音が響く。宮女の頬には扇で叩かれた赤い筋が浮かび上がっている。

「ひっ……」
「口答えは許しません。わたしにはもっと美しいものが似合うの――誰か(むち)を持ってきて。この者に罰を与えます」
「お許しください、お許しください」

 額を床にこすりつけるようにして謝り続ける宮女の姿に胸が痛んだ。見過ごしてはおけず、月娥が前に出る。

「麗陽様。わたしも昨晩のお言葉を聞いております。この簪を所望なさったのは麗陽様ご自身です」
「月娥……あんたまで……」

 再び扇を握りしめた麗陽は、月娥の頬を何度も叩く。それでも月娥は宮女を庇い続けていた。

「忌々しい! この汚い痣持ちめ!」

 怒声と頬を打つ音が部屋に響く。
 月娥や宮女を叩くだけでは飽き足らず、苛立ちをぶつけるように花器を壁に投げたり、壁にかかった花を引きちぎったりとひどいものである。
 そこへ他の宮女がやってきた。麗陽の傍にやってきて来客の報を耳打ちしている。麗陽の表情がぱあっと明るくなった。
 まもなくして部屋に入ってきたのは蒼霄だった。

「……これはまた、猫でも暴れたようなひどさですね」

 蒼霄は部屋に入るなり、辺りを見渡して苦笑した。しかし麗陽は蒼霄にすり寄っている。

「だって蒼霄がなかなか来てくれないから。陛下の贈り物だって飽いてしまったわ」
「西方の反物に、宝玉。これほど贈り物があればじゅうぶんでしょうに」
「この程度でわたしの心を買えたつもりなのでしょうね――まあ、蒼霄のような美丈夫であれば贈り物なんていらないのだけれど」

 麗陽はそう言って蒼霄の頬を撫でたが、蒼霄は冷静にそれを制した。軽蔑をこめた冷ややかな目を向けている。

「宮女らに理不尽な罰を与えるのは、いかがなものでしょうかね」
「この子たちは月兎宮の宮女よ。わたしの所持品と変わらない。どんな扱いをしたって関係ないわ」
「やりすぎでしょう。あの花器だって先日陛下から贈られたばかりでは」
「何をしたって陛下は許してくれるの。だって<わたしは公兎龍に選ばれた娘>だから。花器だってお願いすれば新しいものを贈ってくれる」

 首の裏が痛む。嘘に反応しているのだ。灼けるように痛む首裏を押さえながら、月娥は麗陽を見上げる。麗陽はまだ蒼霄に夢中のようだった。

「ねえ蒼霄。わたしの言う通りにするのなら、あなたの階級をあげるように陛下に頼んでもいいのよ?」
「結構です。自分の力で成れますので」
「まあ。でもわたしに出来ることがあれば、いつでも相談してちょうだいね。何なら<公兎龍に頼んで、あなたを選ぶことだってできる>のよ」

 これに蒼霄は苦笑した。そしてちらりと月娥に視線を送る。

(いまのうちに部屋を出ろ、と言いたいのかもしれない)

 蒼霄が麗陽の気を引いている。そのことに気づいた月娥は先に叩かれていた宮女を連れて部屋を出た。


 庭にある井戸で水を汲み、殴られた頬を冷やす。特に月娥の頬はひどかった。何度もぶたれたので赤く腫れ上がっている。宮女が部屋に戻っても、月娥はまだ井戸の前にいた。

「随分とやられたな」

 その月娥に声をかけたのは蒼霄だった。麗陽を振り払って出てきたらしい。

「慣れていますから」
「そのように言うな……こちらまでつらくなる」

 蒼霄は懐から冷雫葉を取り出し、月娥に渡そうとした。乾燥させた冷雫葉でも水につけて割れば冷えていく。打ち身や打撲に効くとのことで武官らは持ち歩くことが多いそうだ。

「こんなこともあろうかと持ってきて正解だったな」
「ありがとうございます。でも、わたしより先ほどの宮女に」

 しかし蒼霄は差し出した冷雫葉を引っ込めようとはしなかった。むしろ眉根をよせ、怒っているようでもある。

「そんな時まで他人を優先するのか。お前のがひどく腫れているだろうに。あの宮女には後で届けさせるから、まずは自分が使え」
「ですが……」
「いいから受け取れ」

 痺れを切らしたらしい蒼霄は、無理矢理に月娥の手を掴むとそこに冷雫葉をのせた。
 ここまでされてしまえば月娥も逃げられない。冷雫葉を頬に当てる。水に浸した葉が少しずつ冷えていくのを確かめていると、蒼霄がため息まじりに呟いた。

「お前は不思議だ。そのような仕打ちを受けながらも『平気』『慣れている』と強がる。そのくせ他人が虐げられることを見過ごせず、宮女をかばったり、村人の窮状に胸を痛めたりする」

 蒼霄の指先がこちらに伸びる。頬の腫れを確かめるのだろうかと身構えていたが、その指先は月娥の前髪に向かっていった。一束、するりとすくい上げる。

「金子や宝玉、どれだけ煌びやかなものを集めても敵わない美しいものがあると思うのだがな」
「……この印が美しい、ですか?」

 月娥が首を傾げた。汚いと蔑まれてきた自分にそのような美しいものがあるとなれば、公兎龍から与えられた印しか思いつかない。蒼霄が月娥の前髪をかきあげたから尚更、印のことだと思ってしまった。
 これに蒼霄は堪えきれず、吹きだして笑った。

「お前、どういう思考をしている」
「わたしに、そのような美しいものがあるとは思わなかったので」

 蒼霄はまだ笑いが止まらぬようだった。手で口元を隠してはいるが、ふるふると震えている。しばしの間をかけて落ち着いたところで、彼は月娥の肩を優しく叩いた。

「心の話をしている。お前の心はこの後宮にいる何者よりも美しいと思っただけだ」

 その言葉を残して去っていく。月娥は、蒼霄の言葉を反芻するのに忙しく、その背をぼんやりと眺めるだけだった。頬が熱い気がするが痛みはなぜか消えている。冷雫葉を当てることもすっかり頭から抜け落ちていた。

***