公兎の娘が見つかり、それを黄涼王が公兎妃として迎え入れた。
 この慶事に黄涼国の民は喜び、国中のいたる場所で祭りが開かれた。公兎祭は七日間開かれ、宮城からは祝いの酒が振る舞われた。いずれ黄涼国こそが花堯統一を成すと皆が信じていたのである。

「月娥。香を塗ってちょうだい」

 姉の麗陽は公兎妃になっていた。後宮の一角にある月兎(げつと)(きゅう)が与えられた。閑散としていた宮は麗陽が来てから日毎(ひごと)きらびやかになっていく。今日もまた貢ぎ物の(ぎょく)や反物が届いていた。
 月娥(げつが)は宮女に任命された。月兎宮の宮女はたくさんいるが、月娥の仕事が減ることはない。むしろ燕家にいた頃よりもひどくなった。雑用を命じられてばかりいる。
 月娥は練香が入った合子(ごうす)を取り出し、麗陽の前に膝をついだ。合子を開ければ麗陽が好む麝香(じゃこう)のにおいが部屋中に広がった。

「失礼いたします」

 声をかけてから、足先から練香を塗っていく。黄涼王の寵愛を受けている麗陽は日増しに装いが派手になっている。この香もそうである。これは花堯より遥か西方にある国の特産品で高価なものだ。黄涼王に頼みこんで取り寄せてもらったらしい。

(この一塗りで、どれだけの人がご飯を食べられるのだろう)

 指で掬い取った練香はよい香りがする。しかし月娥は虚しさも感じていた。これを金子(きんす)に置き換えれば、燕家が一年に稼ぐ倍以上になる。
 少しも無駄にしてはならない。緊張感が指先にまで満ちる。
 その震えは麗陽にも伝わっていた。
 ぱしん、と何かで叩かれた。音に遅れて鋭い痛みが頬を走り、咄嗟に月娥は顔をあげる。しかし顔をあげようとすれば再び、風が月娥の頬を打つ。

「顔をあげないで。汚いんだから」

 頬を叩いたのは閉じた扇。それを手にしたまま麗陽は冷ややかに見下して告げる。

「その手、どうにかならないの。ごわごわとして固い手ね。そんな手で足に触られたら傷がついてしまうわ」
「……申し訳ありません」

 月娥は深く頭を下げた。手が荒れているのは、水汲みや厨仕事のためだ。下級宮女に任せる仕事を、わざと月娥にさせているのは麗陽である。

「ああ、やだやだ。今日は朝から雨が降って、反物だって褪せた色をしている。陛下は今日もいらっしゃるのでしょう? 贈り物だけくれればいいのに」

 麗陽は苛立っているようだった。黄涼王は、見目麗しい麗陽を寵愛し、毎晩呼び寄せている。しかし黄涼王が燕家の父と変わらぬ年頃であることから、麗陽自身は陛下を快く思っていないようだった。
 この反物も、麗陽が黄涼王に頼みこんで取り寄せてもらったものである。金刺繍が入った高価な品だ。手に入れるための金子を民に渡せば十年は暮らせるだろう。自ら頼みこんだくせ色味が気に入らないと難癖をつけ、麗陽はそれを床に投げ捨てている。それを拾おうとすれば麗陽の不機嫌を買うので、宮女らは誰も手を伸ばさない。反物は床に転がったままだ。

 月娥はもう一度練香を塗り直す。そこへ来客がやってきた。

「麗陽様、ご機嫌麗しゅう」

 (りく)蒼霄(そうしょう)である。黄涼王直属の精鋭兵団を任されている男だ。蒼霄は麗陽に挨拶しながらも、ちらりと視線を月娥に向けた。
 廟で会って以来、蒼霄とは何度も顔を合わせている。その時の装いから宮城に関わる者と想像はしていたが、彼はあの場で語った通り、黄涼王に仕える武官だった。

(でもあれは嘘だから、本当は違うはず)

 蒼霄という名も、武官という立場も嘘である。本人もそれが嘘であることを否定しなかった。だというのに嘘の通りに彼はここにいて、蒼霄という名を使っている。彼が嘘をついた理由や真実は、わからないままだった。

「まあ、蒼霄! きてくれたのね」

 麗陽の声が上擦(うわず)った。先ほどまでの不機嫌は霧散し、顔を綻ばせている。
 麗陽にとって蒼霄はお気に入りである。蒼霄は齢も若く、見目麗しい。すらりと高い背に整った顔立ち、さらには武芸も一級品ときている。麗陽は、彼がお気に入りであると憚らずに公言し、用がなくとも月兎宮に来てもよいと許可するほどだった。

「麗陽様。公兎の占師たちがお目通りを願っているようです」

 麗陽から向けられる熱い視線を無視するように淡々と蒼霄が告げた。占師というのは花堯各地に公兎伝承を伝える者たちであり、公兎龍に関しては彼らが最も詳しいと言える。燕家の娘が公兎に選ばれたという託宣を受けたのも彼らであった。

「面倒な者たちね。辛気くさいからきらいよ」
「そう仰らずに。公兎の娘として、占師に会うことは必要でしょう。占師としても直接会わなければ、本物であるかどうか判断できないのですから」
「陛下は、わたしこそが公兎の娘だと認めてくれたのよ。陛下が認めたのに占師にも認めてもらうなんておかしい話よ」

 鬱陶しそうにため息をつく麗陽を、蒼霄がなだめている。
 本来は占師によって、本物の公兎の娘であると認められなければならない。それを麗陽は拒否している。もし麗陽が占師の前に出ていれば、偽物だと判断されて公兎妃にはなれなかっただろう。
 占師に会わずして認められるために麗陽が狙ったのは黄涼王だった。麗陽はその美貌を武器にして黄涼王の寵を得た。黄涼王は麗陽に夢中になり、占師の認可を得ることなく公兎妃の位を与えたのである。

「麗陽様がそのように仰るのなら、占師には日を改めるよう伝えましょう」
「そうしてちょうだい。わたし、忙しいのよ。ああ、蒼霄なら話は別よ。あなたが来てくれるのならどんな用事だって空けるわ」

 蒼霄はこれに曖昧な顔をするだけで、返事をしなかった。拝礼し、部屋を出て行こうとする。そのわずかな間に、ちらりと月娥を見た。

「……こちらの宮女をお借りしても良いでしょうか」

 提案したのは蒼霄だ。この宮女、というのは月娥を指している。

「あら。また屋敷の雑用仕事かしら。もちろんよ、そんな汚い娘が役に立つのなら、いくらでもこき使ってちょうだい」

 麗陽はふたつ返事で応じていた。
 こうして蒼霄が月娥を借りていくのは初めてのことではない。雑用から水仕事、どんな仕事でも任せてよいとさえ話している。麗陽にとっては、蒼霄が他の美しい宮女を連れ歩くよりも、顎から首に痣を持つ醜い月娥の方がよかった。これほど汚い娘であるから、蒼霄が好むはずはないと考えているのである。

 月娥は麗陽に向けて拝礼し、部屋を出た。蒼霄の後ろをついて歩く。月兎宮では互いに口を開かなかったが、宮から出て人の気がなくなると蒼霄がやっと切り出した。

「お前、またしても叩かれたのか」
「別に。慣れていますから」
「暴力に慣れるなどおかしなことだろう。逆らう気はないのか」

 蒼霄は呆れているようだった。麗陽に頬を叩かれているのは何度もある。その場面に蒼霄が出くわしたこともあった。
 蒼霄は部下のひとりに何かを命じた。彼は駆け足でどこかへ行くなり、数枚の葉を持って戻ってきた。蒼霄はその葉を月娥に渡す。

冷雫葉(れいだよう)だ。千切ると葉が冷たくなるからな、それを頬に当てておけば腫れも引く」
「便利な葉ですね。知りませんでした」
「武官であればみな持ち歩く。怪我が多いからな」
「貴重な品を分けて頂いて、ありがとうございます。あと、連れ出していただいたことも」

 蒼霄が月娥を連れ出したのは、麗陽に虐げられる月娥を案じてのことだろう。冷雫葉を頬に当てながら月娥が頭をさげる。すると蒼霄は、月兎宮では見せない、いたずらっぽい笑みを浮かべて答えた。

「理不尽に叩かれているのを見るのは好きじゃない。だから外に連れ出しただけだ。感謝を述べずともよい」
「でも助けられました。ありがとうございます」
「……そうか」

 蒼霄はそれ以上答えなかった。こちらに背を向けているが心なしか表情が柔らかい気がする。
 後宮は女人の場であり、男の姿はあまりない。いたとしても宦官や門を守る武官ぐらいだ。蒼霄は黄涼王に気に入られているので許可を得ている。それでも居心地は悪いのか、早歩き気味に内廷と外廷を分ける大門へ向かった。

「表向きは屋敷の掃除だ」
「表向き、ということは本当の用件があるのでしょう?」

 蒼霄の屋敷は宮城を出て都の外れにある。老齢の女中しか置いていないことを黄涼王や公兎妃は知っているので、掃除など人手がいる時は宮女を借りていく。それを表向きの用として月娥を連れ出したのだ。

「お前にこの地を見せたいと思っただけだ。本物の公兎の娘にこそ、国の現状を見てもらった方がいいだろう」

 ここまでの蒼霄の言葉に、首裏はぴくりとも痛まない。確かめるように手を添える。すると、その仕草を見ていたらしい蒼霄が笑った。

「嘘だと思ったのか」
「いえ。痛みはないので嘘ではないと思います。ですが蒼霄の言葉を簡単に信じたくないので、こうして確かめるようにしています」
「俺のことをそこまで信用していないのか。さっき助けてやっただろう」
「あれはあれ、これはこれです」
「……二度と冷雫葉をわけてやらん」

 拗ねたような口ぶりをしながらも蒼霄は楽しそうにしていた。
 月娥にとって蒼霄という男は不思議である。麗陽や宮女の前では爽やかな青年を装ってきらきらと輝く笑顔をしているくせ、月娥の前では力が抜けたようになる。口も悪くなり、表情もよく変わる。
 良い者だと思う。美しい顔立ちだけでなく、心も綺麗なのだろう。しかし警戒心を解くことはできなかった。

(どうして、立場や名前を騙ったのだろう)

 はじめて会った時に、彼が嘘をついたことだけが引っかかる。蒼霄が隠す真実が何かわからず、だからいまだに彼を警戒してしまう。