――罪と則のない世で、日々の営みを送ってみとうございます。
 皇帝から、入宮の打診を受けた翠玉は、そのように答えて辞退した。
 伯父は、その件に関してなにも言わなかった。頑固者の姪に口出ししても、 無駄だとわかっていたかもしれない。
 結局、李花も入宮は断った。曰く『月倉の会に入りたくない』そうだ。
 後日送られてきた報奨金で、翠玉は琴都に小さな邸を買っている。
 ――ここは下馬路から、二つ小路を隔てた南叡(なんえい)通り。
 漢典六年、早春。
 呪詛騒動から、すでに九カ月が経っている。
 この小さな邸の離れにあるのが、新たな華々娘子の店である。
 卓をはさんで座るのは、黒装束の占師と、客の商人だ。
 かたり、と星画牌の一枚を卓の上でひっくり返す。
「――仙人の牌……欲を捨てるのが吉でございます。運気は間違いなく今年から来年にかけて上向きますから、ここぞという時に、この牌を思い出すとよいでしょう」
 奥の部屋から「ただ今、護符を用意したします」と声だけで参加したのは李花である。客の前に出るのは嫌だ、と言うので、いつも奥の部屋にいる。
「ありがとうございました、華々娘子様!」
 李花が描いた護符を、翠玉が受け取り、客に渡す。
 若い商人は、笑顔で銭を少しだけ大目に払って帰っていった。
 翠玉と李花は、今、共に占師と護符師として働いている。
 李花も、報奨金で邸を買った。西隣である。
 もう、一宵の刻からの営業ではない。昼から夕まで。客は一日五人と決めていた。
 新たな廟は伯父が守り、仕官が叶った従兄は、妻を迎えた。
 国の学問所へ通うことを許された子欽は、毎朝元気に家を出て行く。劉家の、李花の弟ふたりも同じ学問所に通っており、毎朝、邸を一緒に出ている。
 夢にまで見た穏やかな暮らしを、ついに翠玉は手に入れたのだ。
 正月には鶏を食べ、酒を飲み、ささやかながら新年を祝った。もう天井から雨漏りはしないし、煤けた袍を着ることもない。
「さて、今日は早いですが、店じまいですね」
 まだ昼を過ぎたばかりだが、今日は客の入りがよかった。
 紅い看板を下げ、離れに戻れば、李花が片づけの手を止めていた。
「……翠玉」
「どうしました? 李花さん」
「その……そ、相談があるのだ」
 李花は、目を泳がせながら、か細い声で言った。
 こういう時は、急かさぬに限る。
 笑顔で翠玉は「どうぞ、なんなりと」と答えた。
「なにを占いましょう?」
「――縁談だ」
 なんとか言葉を絞り出して、李花はうつむいてしまった。顔ばかりか耳まで真っ赤にしている。
「では、蚕糸彩占で占いましょうか」
「いいのか? 後宮から戻って以来、一度もしていないだろう」
 呪詛騒動以来、翠玉が蚕糸彩占を使っていないのは本当だ。
 店を開ける時間が、昼になったというのが一番単純で、大きな理由だった。だが、どこかで避けている自覚はある。
「今日は特別です」
 翠玉は、離れの窓に布を下ろした。暗い方がよく見える。
 いつも懐に入れてある絹糸を出し、鋏でぱちりと切って、指に結ぶ。
 ひとつ撫でれば、深い藍色。
 ふたつ撫でれば、淡い紅色。
 最後に撫でれば、美しい紺碧が現れた。
「……どうだ?」
「過去の因縁を乗り越え、新たな出会いを得た。お相手は、尊敬できる方ですね?」
「そ、そうだ。うん、たしかに、そうだ」
「――良縁です」
 李花の顔が、ぱぁっと晴れやかになる。
「そうか! よかった! ありがとう、翠玉!」
「私も嬉しいです」
 李花は何度も礼を繰り返し、下ろした窓布を巻き上げる。
 その手をぴたりと止め、李花はこちらを見ずに話しはじめた。
「宇国の祖が三家を招いたのは、南に居場所がなかったからではないか、と私は思うのだ。異形で、異能を持った一族が、人の目にはさぞ恐ろしく映っただろう」
 角を持った異形の、気を操る異能の者。
 恐ろしく映っただろう、という点に関しては、同意する。
 あの呪詛騒動は、三家の血の異質さをむき出しにした。
 以来、話題にこそ出さないが、翠玉も自身の血については考え続けてきた。
「そうですね。わかる気がします」
「宇国の祖は、そんな三家に富と穏やかな暮らしを与えた。彼らにとっては、恩人だったのだろう。異形の者は、庇護者なしでは穏やかな暮らしなど得られない」
「そうですね。……まだ、二百年前には異形を留めていた者もいたのかもしれません」
 だからこそ、三家は簡単に降伏できなかったのではないか、と翠玉は考えるようになった。少なくとも、呂氏は三家が異形であると知っていたのだから。
 ただ異能というだけで、不当に差別されてきた――と長く翠玉は思ってきた。
 だが、今は認識が多少違う。
 三家にも、自分たちの異形に自覚はあったのだ。
 人々が三家を恐れたように、三家も人々からの迫害を恐れた。
「私もそう思っている。だが、律すればその事実さえ忘れ、二百年も代を重ねられる、ということも忘れてはいけないと思う。……我々は、大丈夫だ。生き方を選ぶことができる」
 窓の布が上がり、穏やかに日が入ってくる。
 李花は、もうこちらを向いていた。
「えぇ、そうですね。選べます」
 異能に溺れ、先祖の異形を身に宿すことも。
 異能を律し、父や祖父と同じように人として生きることも。
「私たちも。それから、私たちの子供も。その孫も。どちらの道も選び得る。正しく律すれば、我々は人として生きられるだろう」
 異能を持った自分たちの子も、異能を持って生まれる可能性は高い。
 だから、自分の代で異能を絶やしたい、と思ってきた。
「……えぇ」
 李花も、同じ葛藤を抱えてきたのかもしれない。
 十八歳の翠玉でさえ、縁談を断りに断って生きてきた。一歳年長の李花ならば、血を繋ぐ意思を持っていればとうに嫁いでいたはずだろう。
「だから――貴女も恐れなくていい」
 てっきり、李花が抱える不安の話だと思っていた。だが、どうやらこれは翠玉を励ますための会話だったらしい。
 李花は、机の上の籠を持って出ていった。
 その背に「ありがとうございます!」と声をかける。
(もう九カ月になるもの。李花さんも気を使ってくれたのね)
 きっと、自分の血を恐れるな、と言いたかったのだろう。
 夫を持つならば、避けて通れぬ問題だ。
 それとも、さっさと自分から明啓を訪ねろ、と言っていたのかもしれない。
(まぁ、行こうと思えば行ける距離ではあるのだけれど)
 明啓は、年明けに天錦城の南門からすぐのところに王府を構えた。翠玉の足でも、半刻歩けば着く距離だ。
 時折、手紙も来る。味も素っ気もない内容だが。
 こちらからも手紙を書く。多少、時候の挨拶も添えて。すると、次回の手紙には少しだけ、気候のことなどが添えられている。
 そんな日々が、続いていた。