翠玉は縄の解かれるのを待たず、徐夫人に話しかける。
「おふたりは、呪いを避けるために字まで共有されていました。おふたりとも、おひとりの時は啓進、と名乗っておられます。斉照殿では兄君、弟君。必要な場合は、兄君を明啓様、弟君を洪進様、と仮の字でお呼びしていました」
「なにを言っているの? 啓進様は、自分の方が後に生まれたっておっしゃったわ。双子の兄弟は、先に腹から出ただけなのに、いつも偉そうにしているって。自分は身代わりで、影だって。だから、啓進様は兄君でしょう? ご即位されたのは、弟君の方だって、斉照殿の女官が言っていたわ」
「呪詛を受けてどちらかが死ぬ。兄君か、弟君かはわからない。けれどもきっと兄君の方ではないか――おおよそ、そんな話が交わされていたのではありませんか?」
「……そうよ」
「ちょうどいい――と思われたのですね? 貴女は最初から、皇帝を消し、皇帝の影武者と結ばれることを願っていた。いざ呪詛を行おうとしたところ、偶然、三家の呪いの話を聞き、思った。――ちょうどいい、と」
「そ……そんな、呪詛なんて、バカバカしい! なにを言い出すの!」
徐夫人は、窮している。
目の前の美しい顔に、うっすらと汗が浮いていた。
「ご兄弟のどちらが死んでも、それは二百年前の呪詛だということにできる。実家を巻き込み、祈護衛の自作自演を疑わせれば、憎い祈護衛も始末できる。実にちょうどいい話です。――兄弟が、逆でさえなければ」
ここで、はじめて徐夫人の顔色が変わった。
「――待って。それじゃあ、入宮した日にお食事をしたのは……」
「弟君。ご即位された洪進様です」
「夜の庭に、現れたのは――」
「兄君の明啓様です。倒れた弟君の影武者を務めておられます」
懸念していたとおり、徐夫人には双子の区別がついている。
入宮した日に、斉照殿で食事をした洪進。
占いどおりに、庭へ現れた明啓。
それぞれが、別の人間だと認識できていた。
ただ――逆なのだ。
愛する人と、愛する人との間を阻む男が。
「それじゃあ……私は……」
「貴女様が殺そうとしているのが――弟君の洪進様。離宮で貴女様と親しく言葉を交わしたお方です」
もう、侍女同士のもみあいは終わっている。
衛兵たちも、翠玉の縄を解き終えた後は、固唾をのんでいた。視線は、すべて徐夫人に集まっている。
「そこまで――そこまでに!」
突然、辺りに響いた宦官の高い声に、皆がそちらへ視線を移す。
天幕を上げて庭に入ってきたのは、清巴である。
「ご一同――皇帝陛下のおなりでございます!」
あ、と衛兵のひとりが声を上げた。そして、横のひとりが膝をついて頭を下げる。すぐに槍峰苑の中にいた全員が続いた。
「翠玉!」
近づいてくる足音にあわせ、翠玉は顔だけを上げた。
「明啓様!」
明啓の冕冠の珠が、顔の前で揺れている。
最後に会った、昨夜の宵のなんと遠いことか。その姿が、懐かしくさえ思えた。
膝をついたままの格好で、ぎゅっと抱きしめられる。
「なぜ、こんな危うい真似を。……生きた心地がしなかった。無事だな?」
自分の無謀さは、百も承知だ。
翠玉は、抱きしめられたまま、うなずいた。
このまま、力強い抱擁に癒されたいところだが、そうもいかない。
時間がないのだ。すでに、一暁の鐘は鳴った。
一言「申し訳ございません」と騒動を謝罪し、身体を離して頭を下げた。
「時間が――明啓様、時間がありません。祈護衛の皆さんが、処刑されてしまいます。執行は二暁の刻。呪詛は彼らの手によるものではありません。どうか――」
「案ずるな。もう伝令は南門に向かった」
「え――」
「祈護衛全員の、死刑は執行されない」
「あ……あぁ……よかった……」
明啓が、翠玉の身体を支えて立ち上がらせる。
「遅くなった。必ず守ると誓いながら、この体たらくだ。許せ」
「いいえ、きっと来てくださると――」
信じておりました、と最後まで言葉を発する前に、涙がこぼれた。
「もう、なにも案じなくていい。後は任せてくれ。よくやってくれた。――一穂、翠玉を頼む」
明啓は、天幕の方に戻り、代わって走り寄ってきたのは一穂だ。
多少、髪は乱れているが、怪我をした様子もない。
「一穂さん! 案じていました。無事ですね?」
翠玉は、ぐっとこぼれた涙を拭った。
「はい。遅くなりまして申し訳ございません。狭間の牢も複数あり、お探しするのに手間どりました。ですが、もうご安心を。――陛下は決意されました」
陛下、というのが、どちらをさすのか、とっさにはわからない。
ただ、一穂の目が向いた先を追えば、答えはわかった。
天幕が上がり、輿が運ばれてきたのだ。
その上にいるのは――洪進であった。
明啓が輿の横に並ぶ。ふたりは冕冠を被り、龍の袍を着ていた。
皇帝が、ふたり。
夫人たちは一瞬だけ顔を上げ、またすぐに顔を伏せた。
経緯を知る夫人たちは、どちらがどちらか、すぐにわかったはずだ。
弟の身代わりになっている、兄の明啓。
呪詛によって身体を蝕まれた、弟の洪進。
「呉娘」
弱弱しい声が、徐夫人を呼んだ。
「――はい」
徐夫人は、ゆっくりと顔を上げる。
「俺は、貴女を知っている。離宮にいた――呉娘だ。腰を痛めた母親の代わりに、厨房へ花と野菜を届けに来ていた。庭で何度か話したのを、覚えている」
「貴方は……どなた? 啓進様なの?」
「あぁ、俺だ。啓進だ。――許してくれ、呉娘。俺の小さな嘘が、これほど大きな報いになって返ろうとは……思いもしなかったのだ」
洪進は、ケホケホとせき込んだ。
皇帝の前では、許しを得るまで頭を下げ続けるのが習いだ。
だが、誰しもがその習いを一瞬忘れた。
「あぁ、啓進様! 嬉しい! やっとお会いできたのですね!」
その徐夫人の華やいだ声に、恐怖を感じて。
薔薇色に染まった頬の、美しい人。朝日は、彼女の肌の美しさを際立たせていた。
「許してくれ……呉娘。話はすべて聞こえていた。俺のせいだ……」
「私、夢見ていたとおり、こうして後宮まで参りました。離宮にいらした徐家のお方が、私を拾ってくださったのです。見目がよいから、と。だから私、今日まで必死にがんばりました。貴方様の――愛するお方の妻になりたい一心で」
恥じらいを含んだその声も、別な場所で聞けば愛らしさを感じただろう。
だが――彼女は呪詛の主だ。
その明るさが、いっそ恐ろしい。
「俺は、嘘をついた。庭でわずかに会話をしただけの少女に求婚されて、戸惑ったのだ。あまりに世を知らず、あまりに無垢であったゆえに。傷つけまいという一心で、嘘を……すまない。俺は身代わりで、兄弟が即位するのだ――と」
一国の皇太子と、離宮の厨房に出入りしていた庶人の娘。
会ったのは、きっとふたりきりの時だったのだろう。
貴女の妻になりたい――と呉娘が言った時、身の程をわきまえろ、とたしなめる者は周りにいなかった。
だから、洪進は優しい嘘をついたのだ。
「先に生まれた兄弟が、偉そうにしている、とおっしゃいました。あの時、喧嘩をなさっていたのは、弟君とでございましょう?」
「呉娘。康国では、先に生まれた方が双子の兄だ」
「でも――では……私が入宮した日に、お食事をしたのは……」
「あれは、俺だ。貴女が消そうとした、邪魔な皇帝は俺自身だ。着飾った貴女が、呉娘だとは……気づかなかった。兄上から話を聞いても、すぐには思い出せなかったくらいだ。六年は――長い。呉娘」
「花を……庭のお花を、くださいました。綺麗な、紅い、大きなお花を。私、ずっと待っていたのです。またお花をいただきたくて。お庭で、ずっと。毎日、毎日。母が死んだ日も、ずっと――」
「許せ……我らは、親しい人間を作ってはならなかったのだ」
ふたりが、どのような会話を交わしたのか、翠玉には知る由もない。
庭で会って、ほんのわずかな、他愛ない会話をする程度の。
六年ぶりに会って、互いに気づかぬ程度の。
たったそれだけの時間で、人がそれほど強く恋ができるのだろうか。
ただ――徐夫人には十分だったのだ。