外に出れば、うっすらと空が明るい。
 内城の門で、翠玉は内城の衛兵に引き渡された。
「この女が、後宮に呪詛をかけたと言っているんだ。夫人だと思い込んでる女官だって話だったんだが……とにかく、本当なら大変なことになる。急いでくれ」
 外城の兵士よりも、内城の衛兵の方が呪詛、という言葉に敏感だった。
 説明を聞くと、衛兵は顔色を変えた。すぐに夫人たちを呼びに走っていく。
 翠玉は腰を縄で縛られたまま、内城の石畳を再び踏んだ。
 見上げれば、山吹色の瓦が、ただ静かに美しい。
(やっと、戻ってこられた)
 狭間の牢から、内城へ。内城の南門から、後宮へ。
 兵士に連れられた翠玉は、粛々と北に向かって進んでいく。
 呪詛を解く、と称して徐夫人に近づき、蟲の在処を賽の目で示させる――というのが、翠玉の作戦だ。
 さすがの徐夫人も、目の前で呪詛の在処を明らかにされれば、動揺するはずだ。
 ただ、ひとつ問題がある。まだ夜が明けていないのだ。
(今、四神賽を振れば――代償を払うことになる)
 歩きながら、翠玉は苦悩し続けている。
 代償を払えば、人でなくなる――と伯父は言った。
 四神賽を使えるのは、一日に一度。
 江家の一日の区切りは、日が地平から完全に出た瞬間にある。
 すでに日付は変わったが、江家の占術において、まだ一日は終わっていない。昨日の二宵の刻に桜簾堂に呼ばれた翠玉は、洪進の前で四神賽を振っている。つまり、日が昇る前に賽を振るには、代償が要るのだ。
(私が人でなくなるのと、二十一人の処刑。秤にかける方がおかしいのだろうか)
 一暁の刻は、日がわずかに頭を出した時にはじまる。
 刑は二暁に執行される。内城の門から、刑場のある天錦城の南側までは、一刻近くかかるはずだ。
 日の出を待って賽を振ったのでは、執行を止められない。
(人でなくなる……)
 心をなくすのか。形をなくすのか。
 なにをもって、人と呼ぶのかさえ、わからなくなる。
 急がねば。だが、怖い。
 胸に嵐を抱えたまま、ひたすらに足を動かし続けた。足首は痛んだが、人の命がかかっている。耐えるしかなかった。
 (ばん)(りょく)殿の横を過ぎ、槍峰殿の天幕が見えた。
 天幕の中に入り、中央の円状の石畳の上に立つ。
 衛兵たちと自分の他、人の気配はなかった。
(さすがに、夫人がたは来てくださらないだろうか……)
 だが、今この後宮内において、呪詛は大きな関心事のはず。ひとり来れば、ふたり来る。ふたり来れば、全員がそろうだろう。ついでに翡翠殿の潘夫人が不在とわかれば、衛兵も翠玉の言葉を信じるかもしれない。
(姜夫人か、周夫人が動いてくれれば……)
 目の端に映る白い牡丹の花弁は、ぼんやりと明るい。もう薄明の頃だ。
 ――しゃらん、と鈴の音が聞こえてくる。
(あ……来た!)
 あれは、後宮に住まう妃嬪の存在を知らせる鈴だ。
 さらさら、と衣ずれの音が重なる。
 天幕が上がり、最初に現れたのは、薄紫の袍の姜夫人だ。
 いつものように、逞しい侍女を数人連れている。
 姜夫人は、不機嫌な表情でゆっくりと近づいてきた。
「一体なんの騒ぎです? こんな時間に呼び出すなど、無礼千万」
 キッと衛兵を見れば、衛兵は「申し訳ございません!」と頭を下げた。
 しゃらん、と別の鈴の音が近づく。
 次に現れたのは、侍女を引き連れた、白い袍の周夫人だ。
「まったく、いい迷惑ですこと。ただの茶番なら処罰は覚悟なさいな」
 周夫人が扇子をヒラヒラさせながら、近づいてくる。
 衛兵はますます小さくなって、
「おい、お前、本当に呪詛は解けるんだろうな?」
 と翠玉に確認してきた。
 端にいた衛兵が、夫人たちに事情を説明している。
 呪詛を自白した女が、夫人たちにかけた呪いも解くと言うので連れてきた、と。
「皆様の大切なお身体に、なにかあっては大問題になると思いまして。――さぁ、さっさと呪詛を解け!」
 衛兵が、翠玉の背を強く叩いた。
 姜夫人も、周夫人も、翠玉が何者かを知っている。
 だが、それを衛兵に伝えはしなかった。伝えてくれさえすれば、この縄もすぐに解かれるはずなのに。
(敵になるか味方になるか……まだ読めない)
 しかしながら、この時間にわざわざこの場に来てくれたからには、積極的に足を引っ張るつもりはなさそうだ。それだけでも御の字である。
「徐夫人はまだですか。私、大層急いでこちらへ参りましたのに」
 不機嫌に姜夫人が言うのに、
「まさか、まだ寝ているんじゃないでしょうね? 冗談じゃないわ」
 周夫人が重ねる。
 ふたりの夫人たちから、思わぬ援護が入った。
「三名全員がそろわねば、意味がございません。徐夫人をお呼びください!」
 すかさず、翠玉は衛兵に頼んだ。
 目だけで夫人たちに礼を伝えれば、かすかな反応があった。
(月倉の会は、まだ生きている)
 この窮地の中、機を読むに長けた夫人たちの援護ほど心強いものはない。
 慌てた衛兵のひとりが「た、ただいま! お呼びして参ります!」と叫んで走って天幕を出ていく。
 目の端に入った白い牡丹は、いっそう明るくなっていた。
(あぁ、時間がない)
 今頃、祈護衛の人たちは、迫りくる死に怯えているだろうか。
そこに「遅いですよ!」「早くなさいな!」とふたりの夫人が、声を荒らげる。
 ふたりめの衛兵が、徐夫人を呼びに走った。ありがたい援護だ。
 それから、ややしばらくして――
 しゃらん――と鈴の音が聞こえた。
(あ……来た)