「……呪詛は、留まっております」
 落胆をにじませぬよう、翠玉は事実だけを伝えた。
「切れ方が、前回と違うのではないか? 意味があるのだろう?」
 明啓は、切れた絹糸を拾った。
 切れた箇所はふたつ。どちらも、融けている。
 明啓の問いに、翠玉はうなずいた。
「どうやら、私も呪詛をかけられているようです」
 糸の状況から、そう判断せざるを得ない。
 白い炎は、洪進だけでなく、翠玉からも発していたのだから。
「貴女に、呪いが? 平気なのか?」
翠玉は、自らの足でこの桜簾堂に来、占いまで行っている。呪詛をかけられた直後、倒れた洪進しか知らない明啓が驚くのも無理はない。
 明啓の驚きが、翠玉には痛かった。
三家の者とて人である。だが、人と隔たるものがまったくないわけではない。特殊なのは、事実だ。
 その隔たりに、気づかれるのが怖い。
 隔たりは、時として恐怖や嫌悪に容易くつながるものだ。
「三家の者でございますから」
 簡単に答え、翠玉は洪進の手から糸を解いた。
「……三家の……そうか。呪詛は、効かぬのだったな」
 三家が、いかにして異能を獲得したのか。祖父も父も、翠玉に教えはしなかった。
 あるべくしてある。背が高い、背が低い。鼻が高い。口が大きい。足が小さい。そうした身体の特徴と変わらぬものだ、と祖父が言っていたのを覚えている。
 幼いながら、思った。――綺麗事だ、と。
 異能がそれだけのものならば、罪も則も背負わずに済んだはずだ。
 自分の代で異能を断つ、と翠玉が決意する必要もなかったろう。
「ひとつ蟲を遠ざけたことで、呪詛の勢いは衰えております。蟲はひとつとは限りません。引き続き蟲を捜すため、この場で四神賽も使わせていただきます」
「あぁ、頼む」
 翠玉は、懐から小箱を取り出し、四つの賽を掌にのせた。
 洪進の手を「失礼いたします」と断ってから取り、その手に包む。
「この呪詛の、蟲はいずれに?」
 賽に向かって口早に問い、ころりと転がした。
 出た目は、黒が【一】、青が【三】。これは前回と同じだ。赤も【五】。
 ただ、白だけが【六】を示した。
「ひとつ目が変わったのは……寺に運んだからか」
「はい。そちらの蟲も、まだ生きているのでしょう。寺は、西にございますか?」
「たしかに、西だ。この場所からならば、ほぼ真西になる」
 移動して勢いは失ったものの、寺院に運ばれた蟲も、まだ生きているようだ。
「呪詛の主が私を狙ったのは、前回、蚕糸彩占を行ったのち。――私どもが後宮内で活動をはじめてからでございます。よほど焦っているのでしょう」
 呪詛の主は、翠玉を狙った。
 翠玉と李花が後宮で打った手が、呪詛の主に影響を与えた証である。
「怖くは――ないのか? その身に、呪詛をかけられているというのに」
 翠玉は、明啓の方を見なかった。
 どんな表情をしているか、知りたくなかったのだ。
「慣れております。正しい呪詛でなくとも、悪口雑言も呪いと同じ。生まれたその日から、身に覚えのない呪いをさんざん浴びせられて参りました。こちらの城に参りましてからは、いっそう強く。今更、怯みはいたしません」
 淡々と答えたのち、翠玉は賽を箱にしまった。
「……そうか」
 翠玉は、箱を懐に収める。
 洪進の顔に、まだ苦痛の色が濃い。
 額に浮かんだ汗を「失礼いたします」と断ってから、布で押さえる。皇帝の玉体に触れるのは不敬だが、せずにはいられなかった。
「江……翠玉」
 洪進に名を呼ばれ、翠玉はびくりと身体を竦ませた。目を閉じていたので、休んでいるものとばかり思っていた。
「はい」
 弱弱しく伸ばされた手を、翠玉はすぐに支えた。
 自然と、手を握るような形になる。
「許してくれ……三家の者に申し訳ない。いずれ兄を殺すのは、三家の呪いだと、ずっと幼い頃から思い込んでいた。……だが、兄から話を聞いた、今ならばわかる。俺が……愚かであった」
 口を開くのもつらいだろうに、懸命に詫びる洪進の声の細さに、胸が痛む。
「今はお休みください。そのお気持ちだけで父祖の霊も涙を流して喜びましょう」
「俺の、妻になってはくれまいか」
「え――」
 突然の言葉に、翠玉は目を大きく見開いた。
「そなたの働きに……報いたいのだ。貴妃として、迎えよう」
「あ、あの、私……」
 とっさに、返事ができない。
(私が――貴妃に?)
 頭が、ひどく混乱している。
 洪進は目を閉じ、また眠りに落ちていく。
 そっと手を牀の上に戻す。呼吸は、多少穏やかになったように思われた。
「では……これで失礼いたします」
 明啓の顔を見ぬまま、会釈をしてその場を離れる。
 翠玉が桜簾堂を出ると、入れ違いに薬師が中に入っていく。
 一穂の先導で、月明かりの下、来た道をまっすぐ戻る。
 まだ、頭は混乱していた。
 ――貴妃の位。
 ただ入宮するのとは、話が違う。
 星の数ほど存在する妃嬪の位の中でも、貴妃は皇后に次ぐ位である。
つい先日まで庶人であった一族の娘が就けるような座ではない。
 動揺していたせいで、桜簾堂を出てからの記憶は曖昧だ。
 ただ、見上げた月だけが美しかったように思う。