翌朝――支度を終えた翠玉は、また竹簡を読みはじめる。
三家の呪詛への対策を専門とする組織だ。多少なりと、呪詛に関する情報があるのではないか――と期待したのだが、一向にそのような記述はない。
(宮廷行事の日取りを決めるのは、暦方局。祈祷の類も宮廷道士が行っている)
竹簡によれば、祈護衛の衛官は、朝と昼と晩に祈祷を行う。他は内城を見回って、結界に綻びがないか確認するそうである。
彼らの日常は、ごく平坦だ。
重要な仕事を任されるでもなく、特別な儀式をするわけでもない。結界の見張り、というのも、どのように行うかの記述はなかった。
単調な内容の中で目を引くのは、先帝からの厚い信頼だ。
皇太子誕生の際には、九殿と六苑の改名も一手に任されている。
(南方の神話に由来した名は、三家と一緒に南から来た呂氏がつけていたのね。それも、明啓様と洪進様がお生まれになった時に)
名をつけるのは、まじないの一種だ。それだけ先帝は、祈護衛に期待をしていたのだろう。――我が子を救う者だと信じて。
名簿も見つけた。書かれているのは、元号、月日、氏名。
元号は二文字である。祈護衛に所属する日は、三月四日に固定されているらしい。これは建国の日だ。琴都では祝祭が行われるので、翠玉も覚えている。
そして、縦書きの竹簡に、横一列でそろった【呂】の文字。
(五年に一度、二名ずつ祈護衛に入っている。男女ともいるようだけれど……)
女であれば、後宮での仕事にも支障はない。だが、男子が内城へ入るには、身体の一部の機能を失う必要がある。
(呂家は、よほど大きな一族なのね)
江家程度の規模では、五年に一度、ふたりも一族の者を内城に入れれば血が絶える。あっという間だ。
これだけ過酷な条件下で、二百年も続いた呂家の繁栄は、江家と比すべくもない。
名簿の竹簡を置き、また次の竹簡を手に取る。
からりと開いた途端、ため息が出た。
(また、例の話がはじまった)
積まれた竹簡のうち、大半を占めるのは三家への悪口雑言だ。
洞窟で呪詛を行っている。廟に見せかけた建物で蟲を育てている。角が生えている。――そんなバカバカしい情報ばかり。見れば見るだけ嫌な気分になる。
二百年経った今も、彼らは三家を踏みにじり続けているのだ。
(無益だ)
遠慮を排して評すれば、その一言に尽きる。
それに――
「皆殺しなど、やはりどこにも書いてない」
ぽつ、と翠玉は呟いていた。
呪詛は、祈護衛の自作自演――と断じたい気持ちはある。
断じたい。だが、できない。
狩るべき兎が消えれば、猟犬は煮られるだけ。三家は祈護衛の敵でなくてはならない。洪進の呪殺以前に三家の末裔が消えては困るはずだ。
長屋の襲撃も、廟を焼くのも、洪進の死を待ってから行うべきではないのか。
どこかちぐはぐな事実が、祈護衛の自作自演と断じることを躊躇わせる。
(わからない。なぜそこまで三家を狙うの? 三家が持っているものなどなにもない。あるのは、ほんの少しの異能だけなのに――)
この時、翠玉の目が虚空を見ていたのは、恋わずらいのせいではない。
三家の異能。
耳に馴染んだその言葉が、落雷のごとく身体を貫く。
(異能……我々の異能が邪魔だった?)
――長屋の襲撃は、翠玉を殺すため。
――未遂に終わった劉家の襲撃も、李花を殺すため。
――廟を焼いたのは、ふたりに手を引くよう脅しをかけるため。
そう考えれば、ちぐはぐだった事実の据わりがいい。気味が悪いほどに。
(邪魔だと思うのは……呪詛の主くらいしかいない)
明啓には、呪詛の知識がない。呪詛の捜索は、実質、翠玉と李花だけが行っていると言っても過言ではないだろう。
(たしかに……私たちは、呪詛の主の邪魔をしている)
音を立てて、頭の中の出来事が再構築されていく。
祈護衛は、いつ三家を皆殺しにすべき、と言い出したのだろうか。
それまで一言も言及されていない方針は、いかにして生まれたのか。
(祈護衛が行動を変えるきっかけが、あったはずだ。なにか情報をつかんだにせよ、呪詛の主に入れ知恵されたにせよ)
今になってみれば、長屋を襲った賊から情報が得られなかったのが痛い。
(もう一度、あの賊のことを調べてもらおう。手がかりになるかもしれない)
勢いよく立ち上がり、寝室の扉に向かおうと途端、扉がトントンと気忙しく鳴る。
「失礼いたします。翠玉様に、ご報告が」
「はい、どうぞ」
翠玉は、自分で扉を開けて、一穂を招いた。
いつも慎重な一穂が、いっそう慎重に辺りをうかがってから囁く。
「李花様が――見つけられました。なにやら、箱を」
「え!? む、蟲ですか?」
思わず、大きな声が出た。ぱっと一穂が翠玉の口を押えた。「お静かに!」と囁き声で言われれば、コクコクとうなずくしかない。
手が、そっと離れる。幸いにも、中庭では工人が作業中で、声は響かなかった。
「李花様は、蟲、とたしかにおっしゃいました。箱――蟲は、城外の寺院に運び出しております。今頃は、もう城外に達したかと」
「最善の策です。さすがは李花さん」
ぽん、と翠玉は手を叩き、離れた場所にいる仲間を称賛した。
呪詛には、距離が重要なのだ。いかに強い呪詛でも、遠く離れれば力を失う。呪詛に侵された人の身体を運べば危ういが、蟲を移動するには問題がない。
これまで、呪詛の主にはいくつもの局面で遅れをとってきたが、今回はこちらが小さな勝利を収めたと言える。
翠玉は、見えてきた希望に目を輝かせた。
そして――翠玉が斉照殿に招かれたのは、二宵の刻だった。
用件はわかっている。呪いの有無を、再び絹糸で調べるためだ。
まず、斉照殿の女官の証である桜色の袍を着た二穂と三穂が、翡翠殿に来た。
ここで翠玉と一穂は、二穂と三穂とそれぞれ袍を交換した。そしてひそかに翡翠殿を出たのである。
桜色の袍をたなびかせながら、北に向かって進んでいく。
今、清巴が斉照殿に仕える全員を裏に集めているそうだ。その隙に、桜簾堂に入るように言われている。
斉照殿が近づいてきた。
反り返った屋根の美しい建物は、月の下で静かに佇んでいる。
(どうか、呪詛が消えていますように!)
呪詛が掘り起こされた段階、あるいは埋められた場所から離れた段階で消えるものであれば、洪進は助かるはずだ。
緑の長棒を持った衛兵が、斉照殿の正面で手招きしていた。
「裏は危ない。こちらからお入りを」
正面から入り、央堂には入らず、廊下の半ばから中庭に出る。
桜簾堂では、緑の長棒を持った衛兵が扉を開けていた。
中に入れば、桜色の簾が美しく灯りを弾いている。その向こうに――
(あ……洪進様……!)
洪進が、明啓に支えられて身体を起こしている。瞼は上がっていた。
蟲を遠ざけた功は、一目瞭然だ。
翠玉は、胸の高揚を押し殺し、膝を曲げて頭を下げる。
「堅苦しい挨拶は抜きだ。翠玉。こちらに来てくれ」
手招きされるまま、翠玉は牀に近づいた。
洪進の顔がはっきりと見え、挨拶を省いた理由を察する。
(……まだ、回復はされていない)
額に汗は浮き、胸は大きく上下していた。
いつ、また意識を失ってもおかしくはない状況だ。時間がない。
「話は、兄から……聞いた。礼を言う」
荒い呼吸の合間に、洪進が話しかけてきた。かすれた声は弱々しい。
「恐れ多いことでございます。――明啓様、さっそくですが、蚕糸彩占に入らせていただきます。洪進様は、お休みになっていてください。横になったままでも占いに支障はありません」
明啓が、洪進の身体を横たえる。うめくような声がもれた。少し身体を起こしただけでも、負担は大きいのだろう。
(急がねば)
手早く懐から絹糸を出して、翠玉はぱちりと鋏で切った。
洪進の小指に片方を結び、もう片方は自分の手で握る。
(呪詛が弱まっていれば……糸は切れないはず)
今、洪進は意識がある。
呪詛が消えていれば、目を焼くほど眩い炎は発さないはずだ。
スッとひと撫で。
――重い。
固まりかけた糊に、指を突っ込んだかのようだ。
止めていた息を、かすかにした途端――白い炎がボゥッとあがった。
(……ッ!)
糸の両端から、眩い光が走り、半ばでぽとりと糸が落ちる。
さながら、椿の花の終わりのように。――切れたのだ。