そうして迎えた一宵の刻。
 着替え、と名のついた作業だったが、袍はそのままだ。化粧を直した他は、髪型だけを変えている。重い髪飾りからは解放され、多少は楽になった。
 翠玉は、作法どおり客間の扉の前で膝を曲げ、頭を下げて待つ。
 輿が止まったのが、音でわかる。
 衣ずれの音が、近づいてきた。他の誰とも違う音なのは、彼が皇帝の装いをしており、その衣服の質がこの康国で最も上質なものだからだろう。
 鼓動が、ひどく速い。
(あぁ、もう……バカみたい)
 半刻ほども、ずっとこの調子だ。
 そわそわと落ち着かず、油断すれば顔が熱くなる。
 思い返せば、着替えがよくなかった。
 明啓を迎えるために、化粧をしている――と意識したのが、致命的だった。
 誰ぞのために化粧をし、美しく装う。
 そんな行動は、今まで経験がなかった。
 仕事の一環だ。そう自分に言い聞かせても、一向に鼓動は落ちつかない。
「ま、待たせたな。すまない」
「いえ――」
 顔を上げ、目がぱちりとあう。
 この時、明啓は明らかな動揺をしていた。
 冕冠の珠ごしでも、翠玉が訝しく思うほど、明らかに。
(お顔が赤い)
 なにかあったのだろうか――と内心首を傾げたが、答えはすぐにわかった。
「なにやら……面映ゆいな」
 明啓が、自身の動揺を明かしたからだ。
 数日前に知りあった未婚の男女が、新婚の夫婦を装うのだ。互いに気恥ずかしさは当然なのかもしれない。
「……私もでございます」
 いつもは泰然とした明啓の、静かな狼狽に笑いを誘われたが、なんとかこらえる。
「いや、すまん。貴女の方が、よほど耐える部分が多いな」
 明啓は、申し訳なさそうにくしゃりと顔を歪める。
 生真面目な謝罪に、こらえきれずに笑ってしまった。
「虎の檻に入るでもなし、耐えるなどと大げさな。むしろ、なにもできずに申し訳なく思っておりました」
 翠玉が笑めば、つられるように明啓も笑んだ。
「入宮したばかりの姫君だ。そう動くものでもあるまい。――食事にしよう」
 食事をする場所は、客間の左側にある食堂だ。
 ここで明啓は「ここからは、人の耳が増える」と小さく囁いた。
(そうだ。夕の食事の前後は、外部からの人の出入りがあるのだった)
 むしろ、新婚の夫婦のふりは、今からはじまる。
 とうに大きく波打っていた胸は、いよいよ呼吸の苦しささえ感じはじめた。
 差し出された手を取り、食堂までのわずかな距離を歩く。
 その間さえ、動揺を顔に出さぬよう必死である。
(落ち着いて……一穂さんに教えてもらったとおりにすれば、大丈夫)
 食堂には、牀ほどの大きさの卓がある。
 豪奢な椅子に、一穂から習ったとおり、ゆったりと腰を下ろす。
 明啓の手が、離れた。
 自分の席に向かうかと思えば、まだすぐ横にいる。
 ふっと明啓が屈み、翠玉の耳元に囁いた。
「心配は要らぬ。貴女は簡単に返事をすればいい。俺が勝手に話す」
 どくん、と大きく胸が跳ねる。
 身体はすぐに離れたが、涼やかな香の余韻は続いていた。
(こんなに、夫婦のふりが大変だったなんて……甘かった!)
 一族の命運やら、自分の命やら、義弟の未来やら、多くのものがかかっている。
 たとえどんな高い壁でも、乗り越えてみせるつもりだった。
 だが、想像していたものと、困難さの種類が違う。
(新たな占術を覚えるほうが、よほど楽だ)
 義弟の子欽は、たいていのことを郷試より難しい、とか、郷試に比べれば簡単だ、と言う。今後の翠玉は、あらゆる事柄の難易度を夫人のふりをするのと比べて生きていくに違いない。
「翠玉。入宮を急がせてすまなかったな。疲れただろう」
 椅子にゆったりと腰を下ろしつつ、明啓が言った。
「あ……いえ……」
 緊張のあまり、答える声は小さくなる。
 ここで、宦官が食堂の前で「皇帝陛下より、潘氏にご下賜のお品でございます」と言った。それを合図に、食堂には宦官たちが大勢入ってくる。
 卓に次々と蓋のついた皿が載り、蓋が取られていく。
(すごい!)
 純粋に感動したのは、最初の五、六皿だけだ。
(……これを、全部ふたりで食べるの? 嘘でしょう?)
 皿が十を超える頃には不安になってきた。
 最終的に、皿は二十。卓の大きさに数をあわせたのか、ちょうど卓が皿で埋まったところで、宦官たちは去っていった。
 横に控える一穂が「お召し上がりになりたい分だけ、お好きに召し上がってくださいませ」と囁いた。
「こんなにたくさん?」
 翠玉は、ひそりと一穂に囁く。
「お気になさらず。お好みのものを、お好みの量だけで構いません。あとは下々の者で分けあいます」
 一度でいいから、はちきれるまで腹を満たしてみたい、と幼い頃から思ってきた。飢えで眠れぬ夜などは、切実に願ったものだ。
 夢のような光景である。
 ここで、明啓が、手振りでなにかを指示した。
 二穂が窓の簾を少し開けた。
(あぁ、会話を聞かせる作戦なのね)
 翠玉は、明啓の指示に納得した。
 翡翠殿に現れた謎の夫人に、後宮全体が興味津々のはずだ。宦官たちも、各殿の侍女へ情報を売るのに必死だろう。
「入宮を急がせたのは他でもない。一日も早く、貴女を我が妻として迎えたかったからだ。今日この日を迎えられたこと、嬉しく思う。この内城に貴女がいると思えば、昼の政務もまったく苦にはならなかった」
「……――」
 これは――演技だ。
 わかっている。わかってはいるが、こんな言葉を前に、平静を装うのは難しい。
 なにせ、翠玉は恋のひとつも知らないし、親しく異性と言葉を交わした記憶もない。肉包の屋台の客とは挨拶だけ。舞い込む縁談も、片っ端から断ってきた。
 しかるべき対応がどのようなものか、まったくわからない。
「まったく、私は幸運な男だな。心から望んだ貴女を得られた。――これから、命の尽きる日まで末永く、共に手を携えて生きていきたい」
「わ、私も――同じように――」
 必死に考えて、なんとか言葉を絞り出した。
 顔を上げられない。目の前の艶やかな豚肉を見つめるので精いっぱいだ。
 二穂は、明啓の指さした皿のものを、取り皿に移している。
 自分もそのように振る舞うべきなのだが、指を動かす余裕がない。
 気をきかせた一穂が「お取りいたしましょう」と卓の上のものを、翠玉の前にあった取り皿に載せはじめた。
「同じ気持ちとは、嬉しいことを言ってくれる」
 声が、柔らかい。
 顔を見ずともわかる。明啓は笑んでいるはずだ。
「恐れ多い……」
 消え入りそうな声で答え、いっそう翠玉はうつむいた。
 ひとまず、食事だ。皿に取り分けられた焼豚を、一切れ口に運ぶ。甘く煮られた焼豚は、噛む前から美味しさが伝わってくる。
(美味しい!)
 軽く咀嚼すると、肉の旨味が口いっぱいに広がった。
 精神的に過酷な作戦の、唯一と言っていい利だ。
 美味しい。たまらなく美味しい。
(こんな肉を、祖父も祖母も、一度も食べたことはなかった。父上も……母上も。継母上だって、滋養のあるものを食べていれば死なずに済んだのに――)
 食べさせてやりたかった。山ほどの肉や(あつもの)を、腹がはち切れるほどに。
 ぐっと翠玉は涙をこらえた。
「どうした? 翠玉」
 翠玉は、首を小さく横に振った。今、声を出せば涙がこぼれてしまう。
 気をそらすために、青菜をひと口。
 貝の旨味がつまった餡が、素晴らしく美味しい。
 欲を言えば、温かいものが食べたいところだ。この城に来てから、温かい食事を一度も口に入れていない。粥だろうと羹だろうと、すべてが冷めている。城が広大すぎて、運ぶ間に冷めてしまうのだろうか。
 とはいえ、そんな不満は、食事の量と質を前にすれば吹き飛ぶ。
 次々と箸をのばすうちに、涙は引っ込んでいた。
(……食べすぎた……)
 最後にもう一度、焼豚を食べたい、と思った。思ったが、もう箸が重い。
 ちらりと明啓を見れば、すでに、箸は置かれていた。
(あ……失敗した)
 貴族の姫君にとって美食は日常だ。夢中になったりはしないだろう。
 入宮初日の食事である。緊張で小鳥が啄むほどしか食べられなかった――くらいの方が自然だったかもしれない。
 箸を置くのが、食事の終わった合図だと聞いている。どれだけ明啓を待たせてしまったかわからないが、せめてとばかりに急いで箸を置く。
 立ち上がった明啓は、来た時と同じように、翠玉の手を取って客間に移動した。
 卓をはさんで、長椅子に腰を下ろす。
(綱渡りの作戦だ。気をつけないと……大食漢の夫人が来たと噂されてしまう)
 茶器が運ばれてきた。茶を()れるのは、部屋の主の仕事だそうだ。
「それにしても、殺風景な庭だな。すぐに整えさせよう。入宮を急がせすぎた。すぐに貴女に相応しい、美しい花で飾りたい」
 明啓は、一貫して翠玉を望んで迎えた、という姿勢を演じている。
 親しく話した若い娘などいない、と言っていたはずなのに、演技が巧い。
(挽回せねば)
 美食に我を忘れた失敗を、取り戻したかった。
「陛下のお傍にいられるだけで、私、この上なく幸せでございます」
 翠玉は、渾身の勇気をふり絞って演技を返した。
(……?)
 明啓が、さらに演技で返してくるかと思った――が、反応がない。
 茶器に注いでいた目線を、上げる。――明啓は、口元を手で押さえていた。
 目を殺風景だと言った庭にやったまま、固まっている。
 耳まで、真っ赤だ。
(もしや、照れて……いらっしゃる?)
 さんざん人を翻弄しておいて、自分は照れている――らしい。
 そうと意識した途端、かぁっと翠玉の頬まで熱くなる。
 一穂から受けた指導どおりに淹れた茶を、どうぞ、と勧めるの鳴くほどの細さになった。
 礼らしきことを述べる明啓の声まで、蜻蛉(とんぼ)の羽音ほどである。
 そのうち、食堂に宦官たちが入っていき、皿を持って下がっていった。
「やっと、人の耳が遠くなった」
 茶杯が半分ほど空いたところで、明啓がゆったりと長椅子の背にもたれた。
「もう、大丈夫でございますか?」
「今、合図があった。――すまなかったな。いろいろと……つきあわせてしまって」
「いえ……」
 こほん、と明啓が咳払いをした。
 もう演技は終わりだ。今の咳払いは、仕切り直しの合図のようなものだろう。
「明日から、この中庭に(こう)(じん)を入れる。(そう)(ちょう)苑、(ひゃっ)()苑、槍峰苑(そうほうえん)は天幕で覆った上で、昼夜問わず蟲捜しを行う予定だ。庭に手を入れるのは三夫人の機嫌を取るため、ということにしておこう」
 明啓は、きっちり気持ちを切り替えた様子だ。
 落ち着きのなかった翠玉の心も、なんとか平静を取り戻す。
「わかりました。庭に蟲を埋めていたならば、呪詛の主も焦りましょう」
「そう願う。それと――天幕には、李花の護符を貼ってもらうことにした」
「……妙案です!」
 翠玉は、膝を打って喜んだ。
 余人の目を廃して、護符を貼る。天幕があれば、数日の変化もじっくり観察できるだろう。祈護衛は謹慎中。今度は邪魔をされる心配もない。
「これで、多少の進展が望めるな」
「いえ、多少と言わず、大きな前進です」
 李花とふたりで、こそこそと鼠のように探っていた時とは、まったく違う。
(護符ひとつの話じゃない。状況が、大きく変わってる)
 大きく変化したのは、明啓の意識だ。
 ほんの数日前、会ったばかりの頃はこれほど積極的ではなかった。弟の未来の妻を疑うのも躊躇し、祈護衛の方針にも従う姿勢を示していたはずだ。
 だが、今は違う。
 自ら作戦を立て、人を動かし、呪詛の主を暴くべく進んでいる。
 ――我ら三名だけが仲間だと思ってくれ。
 彼自身の言葉どおり、同じ目的に向かっている実感があった。
「しかし……弟の妻になる姫君たちを傷つけるのは、遺憾だな。妻を複数もつならば、全員を等しく大切にするべきだ。寵姫、とはなんとも罪深い言葉だと思う」
 翠玉の高揚とは裏腹に、明啓は気落ちした様子で茶杯を手に取った。
「それは――」
「妻を持つ暮らしを、想像したこともなかった。なにせ加冠以前に死ぬと言われていたからな。……だが、妻を持つ真似事をしてみると、その罪深さがよくわかる気がする。弟には、一生かけて、夫人らを大切にしてもらいたいものだ」
 この演技は、洪進を救う作戦の一環だ。
 だが、事情を知らない夫人たちの目には、未来の夫と、その夫が愛を傾ける相手にしか見えない。罪深い、と思うのも当然だ。翠玉もそう思う。
「夫人がたの未来のご夫君をお助けするため、力を尽くすことこそ最大の贖罪と信じております」
 今は、彼女たちの夫を救うためだ、と無理やり自分を納得させている。
 すると明啓は「違う」と言って、身を乗り出した。
 目をそらすわけにもいかず、正面から見つめあってしまう。
「貴女の咎であるはずがない。……気持ちはわかるが、だからこそ、貴女の咎ではないと声を大にして言っておこう。罪は私に。貴女は弟のため、懸命に励んでくれている。感謝こそすれ、罪を負わせるつもりは毛頭ない」
「……ありがとうございます」
 罪の意識は消えないが、ただ、その気持ちがありがたかった。
 礼を伝え、翠玉は微かに笑んだ。
 コンコン、と扉が鳴り、一穂が「失礼いたします」と客間に入ってきた。食事の間は食堂にいたはずの一穂だが、どこかに出かけていたようだ。
「ご報告をさせていただきます」
 明啓は姿勢を正し、「頼む」とうなずいた。
「李花様が貼られた護符の件でございますが、双蝶苑と百華苑、(こう)(うん)殿と(きん)()殿のいずれからも撤去されておりました。――ただ……別の場所に、貼られているのを確認しております。――(はっ)(こう)殿の、北の房に」
 白鴻殿といえば、北列の西の端。
 翠玉と李花が訪ねられなかった最後の一殿。周夫人の房だ。
「李花が貼った覚えのない場所に、劉家の護符が貼られていたのだな?」
「はい。李花様ご本人にも、確認していただいております。白鴻殿に貼られた護符にはシワが寄っていた――貼り直したようであったとのこと。恐らくは、紅雲殿、あるいは菫露殿に貼られていたものをはがした上で、白鴻殿に貼り直したと推測されます。糊の状態から推し量れば、もとは菫露殿に貼られていた護符かと」
 菫露殿の姜夫人の房に護符を貼ったのは、昨日の三夕の刻。その後、百華苑で李花は護符を貼り、突然現れた周夫人と短い会話をした。
 火が出た、と知ったのは、(げっ)(しん)殿の辺りを歩いていた時だ。菫露殿を出てから半刻にも満たない時間である。まだ菫露殿の護符にせよ、百華苑の護符にせよ、糊は乾いていなかっただろう。
「……そうか。周夫人の殿に、護符が……」
 明啓は、腕を組んで眉を寄せた。
「引き続き、三殿の周辺は探らせます。――それと、翠玉様がご所望の竹簡は、明日届く荷に紛れ込ませます。お待たせいたしますが、ご容赦ください」
 一穂が、途中で翠玉の方を見て言った。
「ありがとうございます。お手数おかけしてすみません」
 会釈をして、一穂は下がっていった。
 パタン、と扉が閉まると――客間に、ふたりきりになる。
 あとは、明啓を送り出せば、今日の仕事は終わったも同然だ。
 昨夜、廟が燃えたと聞かされてから、短い仮眠を取ったきり。今日もバタバタと潘氏の邸で支度をし、緊張続きで今に至る。ゆっくりと休みたい。姫君の使う牀だ。きっと寝心地もいいだろう。
 けれど、少しだけ名残惜しい。
 そんなことを考えながら、茶杯に残った茶を飲み干す。
「もう少し、ここにいても構わないか?」
 突然、明啓に問われて、翠玉は「は、はい」と上ずった声で返事をしてしまった。
(これも演技?――違う。もう人の耳は遠くなっている)
 演技ではない。とすると、作戦に関する相談だろうか。
「ここは皇帝陛下の居城でございます。私の許可など……」
「俺の城ではない。この後宮は弟のもので、住まっている人も弟の妻だ」
 茶杯に伸ばした手を止め、明啓は肩をすくめた。
 弟、と明啓が口にするからには、もう人の耳は気にしなくてよさそうだ。
「私は違います。――いえ、天下万民は、すべてが陛下のものでございますが」
「いや、たしかにそうだ。貴女だけは違うな。――どう思う? ここで、周夫人とだけ接触すれば、護符のありがたみは示せるように思うが……」
 茶杯を手に取り、明啓は「悩ましい」と言葉どおり悩まし気な表情で言った。
「後宮内の情報は、事の大小にかかわらず、ほとんど筒抜けでした。いずれ、周夫人の白鴻殿に護符が貼られていると後宮中の皆が知るでしょう。この翡翠殿にも、出入りする者の目に触れる場所に護符は貼ってあります。揺さぶりをかけるには、周夫人と接触されるべきかと」
 今、護符が貼られているのは、翡翠殿と、白鴻殿。どちらにも皇帝が現れれば、他のふたりも思うだろう。――護符があれば、皇帝が来る、と。
 そうと知った夫人たちの出方を、見たいところではある。
「周夫人に一定の情報を与え、こちらに引き込む手もあるが……そこまでは信用できん。周夫人の父親は左僕射。俺の最大の協力者の潘氏とは政治的に対立している。立后の最有力候補は周夫人だ。波風は立てたくない」
「もう、立后は内定しているのですか?」
 翠玉は、周夫人の姿を思い出す。
 白い袍の姫君には、皇后に相応しい風格があったように思う。
「父親の地位から予測すれば――あぁ、周家と……徐家もか。彼女たちは養女だったな。いずれにせよ、実父なり、養父なりの地位が最も高い娘が皇后になる、というだけの話だ。周家に決まったも同然だろう。彼らは、一族を盛り立てる手段として、見目麗しい娘を養女にし、後宮に送り込むべく教育している」
「……郷試の合格発表の会場に、あちこちから貴族が集まるのと同じですね」
 賢い男子を産ませるよりも、賢い男子を養子にするのが早い。
 美しい女子を産ませるよりも、美しい女子を養女にするのが早い。
(別段、めずらしい話でもない)
 子欽が郷試を目指すのも、養子の口を得、生活の基盤を得るためだ。貧困に喘ぐ者が、(ろう)(おく)を逃れる唯一の道と言えるだろう。女子の場合は、姿の美しさが鍵になる。
「皇太子ばかりは、外から招くわけにはいかないが」
「それは……当たり前ではありませんか」
 突然、明啓がおかしなことを言い出したので、翠玉は苦笑した。
 康国の皇帝は、宋家の男子でなくてはならない。天命は、その一族にのみ下るもの。宋家の男子以外が帝位に就けば、康国ではない、別の国になってしまう。
「古代の皇帝は、そうしていた。禅譲と言う」
「父に聞いたことがございます。世を治めるに足る後継者を、血縁の垣根を越えて選ぶものだと」
「残念だが、聖人たちの世は遠い。国を譲り得る人材を見抜く目が、今の俗世を治める者には備わっていないのだ。――それどころか、弟を殺そうとしている者まで見抜けずにいる。何者が、なぜ、どのような理由で呪詛を行ったのか、まったく見えん。こうしている間にも、弟の命は刻一刻と危うくなっているというのに」
 明啓は、茶杯に口をつけ、すぐに卓に戻した。
 吐く息が、重い。
「やはり……周夫人と接触すべきではありませんか? 打てる手を打たぬのは、悔いが残りましょう。また、扉の前に占いを装った手紙を置き、明啓様に庭を歩いていただく形でいかがでしょう?」
「……そうだな。同じ手で行こう。手紙を頼む。明日の一宵の刻、槍峰苑だ。――すまないな」
「いいえ。手紙一枚書くくらいのことはさせてくださいませ」
 そうでなくとも、歯がゆい思いを抱えて、暇を持て余しているのだ。手紙など、何枚書いても苦にはならない。
「そうではない。貴女の気持ちを大切にしたいのだ」
「……気持ち?」
 意味がわからず、翠玉は首を傾げた。
「寵姫の役回りを頼んでおいて、二日めに別の殿で夫人と接触するというのは、不義理が過ぎるだろう」
 翠玉は、茶杯を卓に戻し、袖で口を押えて笑った。
「どうぞお気づかいなく」
 なんと生真面目な人だろう。
 後継ぎを求めて、毎年新しい妃を迎えていた先帝とは真逆の姿勢だ。
「笑ってくれるな。自分が妻を持たぬものと思い込んで――言い訳にはならんが――考えが足りなかった。今回の作戦は、まったくの下策だ」
「明啓様ならば。奥方を複数持たれても、平等に愛を分配してくださりそうです」
 不吉な想像だが、もし洪進の代わりに明啓が身代わりを死ぬまで続けるとしても、きっと夫人たちを大切にするだろう。優しい人だ。
 ところが、
「愛する人はひとりでいい」
 と明啓は言って、殺風景な庭に目をやった。
 こんな時、どんな相づちを打つべきか。翠玉は迷う。
 宋家の男子は少ない。洪進だけでなく、明啓とて多くの後継ぎが求められるはずだ。彼の個人的な意思が尊重されるとも思えない。
「ひとり……ですか」
「人の春秋には、山もあれば谷もある。共に手を携え、語らいあいながらひとつひとつ困難を乗り越えていく――ものではないかと思う。よくわからんが。互いに信頼しあい、時に支えあい、励ましあい、前に進んでいく。そうした伴侶は、ひとり見つかれば僥倖だろう」
 翠玉には、伴侶と共に歩く人生など、まったく想像できなかった。
 やはり、相づちが難しい。
「明啓様に愛されるお方は、幸せでございますね」
 だから、当たり障りのないことを言っておいた。
 それから、ひとつ、ふたつと簡単な会話をしたあと、明啓が腰を上げる。
 やはり少しだけ、この時間が終わるのが惜しかった。せめて、と外まで見送ろうと思ったが、明啓は客間の半ばで翠玉を止める。
「見送りはいい。足が痛むだろう」
「お気づかい、ありがとうございます。では……」
 膝を曲げて、頭を下げた。
 やはり、別れは寂しい。
 ――明日、明啓は来ない。別の夫人のところへ行く。
 胸の奥が、ちり、と痛くなった。
 ただの作戦だ。わかっている。わかっているのに、痛みが引かない。
(嫌だな……この感じ)
 こんな粘性の感情を、翠玉は知らない。
 結った髪をほどき、化粧を落とす間も、小さな嵐は去らなかった。
 瀟洒な牀の上で、眠りに落ちる直前まで、ずっと。