(暇だ……)
 物心ついた頃には、祖父や父から占いを学んできた。なにせ口伝だ。覚えるべき事柄は常に山のごとく控えていたものだ。
 祖父は、足腰が弱ったのを機に、辻で占いをするようになった。五歳の頃から、翠玉は祖父を手伝っている。
 父が継母と再婚をしてからは、手が空けば子欽に文字の読み書きを教えていた。父や継母が死んでからは、朝から晩まで働く日々。
 明啓が長屋を訪ねてからの数日は、翠玉の人生の中で最も特異だった。
 出ていく銭と、懐の銭を必死に数えなくてもいい。食事の心配もせずに済む。
 これからの数日は、いっそう特異な時間になるだろう。
 美々しく着飾り、あの高貴な姫君たちと同じように振る舞うのだから。
(あぁ、もどかしい)
 翠玉は、暇に慣れていない。ゆったりとくつろぐ気分にもなれなかった。
「後宮の女性たちは、ふだん、なにをされているのでしょう?」
 近くにいた一穂に尋ねると、首を傾げていた。
「楽器をなさる方は多いようですが……すみません。私、外城の勤務が多かったものですから、わかるのは官僚の皆様の余暇くらいです。釣りですとか、盆栽いじりですとか。――調べさせましょうか?」
「あぁ、いえ。そこまでしていただかなくとも結構です」
 琴だの笛だのといわれても、真似もできない。
 一穂は、翠玉が暇を持て余していると察したのか、諭すような表情になっている。
「十日だけ、我慢なさってください。他の誰にも務まらぬ仕事です」
「今更ですが……稲の皆さんの方が、この役に適任だったような気がします」
 市井の占師と、宮廷で働く諜報部隊。どちらが姫君らしく振る舞えるかなど、おのずと知れる。
 ところが、一穂は「いいえ」ときっぱり否定した。
「呪詛の知識を持つ妙齢の娘など、稲の中にはおりません」
 たしかに、そのとおりだ。他にいない。三家の特殊さは、身をもって知っている。
 はぁ、とため息をつき、翠玉は庭を眺めた。
 殺風景な庭をぼんやり眺めるうちに、頭は怒涛の数日の出来事を反芻している。
(まだ、わからないことだらけだ)
 そもそも、なぜ洪進は狙われたのか。
 権力者の殺害は容易ではない。露見した時に被る罪はどこの国でも死罪以外にないだろう。罪は親族にまで及ぶ。
 それだけに、よほど得るものも大きくなければ、命をかける甲斐がない。対抗勢力や、対立候補がいなければ行われないはずだ。
 それらしい候補者がいない、というのは、宮廷に来てから何度か耳にしている。
誰がなんのために呪詛を行ったのか、まったく答えらしきものが見えない。
 三家が襲われた理由も、いまだわからないままだ。
(三家は、無力だ。誰に顧みられる存在でもなかった)
 血の続く江家や劉家は貧しく、(とう)家は絶えている。
 政治に関わりようもなく、財も、兵も、持ってはいない。そんな相手を憎むだの、殺すだのと考えるのは、三家を利用して地位を保ってきた祈護衛くらいだろう。
 ――自作自演なのでは?
 翠玉の頭に、ちらちらとその推測が浮かんでは消える。
 三家が強大であればあるほど、得をするのは祈護衛だ。ならず者が幅をきかせる土地では、用心棒の稼ぎもよいものである。
 三家に制裁を加えれば、手柄を得るのは祈護衛だ。一兵卒の首よりも、大将の首に価値があるのは自明と言えよう。
 祈護衛は強大な呪詛を看破し、三家を皆殺しにし、己の功とする。洪進が死んでも、呪詛が強すぎた。力及ばず――とでも言えばいいのだ。
 祈護衛の自作自演、と考えれば、すべてがすっきりと落ち着く。
(いや、決めつけるにはまだ早い)
 想像だけで罪の有無を、都合のよいように決する危うさは知っているつもりだ。実際、三家は想像だけを根拠に、都合よく呪詛の罪を着せられているのだから。
 ここは、手の空いている自分が調べるべきだろう。彼ら祈護衛が、どのように日々を送り、どのように二百年の呪いが発動した日を迎えたのか。
(でも、どうやって――)
 ぼんやりとうつむいていた翠玉は、ハッと顔を上げた。
 知っている。祈護衛の情報が詰まった場所を。
 あの――書庫だ。
 一穂が「どうなさいました?」と問うてくる。
「今は祈護衛の書庫が、無人のはず。祈護衛の資料を、なんでも構いませんから、できるだけ、たくさん、まんべんなくお借りしたいのです」
 祈護衛の衛官は、火焚きの件で、宿舎で謹慎させられている。絶好の機会だ。
 一穂は「手配いたします」と会釈をして出ていった。
 再び、目線は庭に戻る。
(すべて祈護衛の自作自演だった……とすれば話の据わりはいい。でも、伯父上は、呂家には異能は授かっていないと言っていた。それが本当ならば、呪詛の主は別にいる……ことになってしまう)
 視界の端で、灌木がかさりと動く。雀だ。
(でも、誰が? 皇帝に恋をしている徐夫人。姜家の血を引く子を帝位に就けたい姜夫人。皇后になりたい周夫人……その実家にも、皇帝を殺す理由がない)
 雀が二羽、ちょこりと顔を出す。
 愛らしさに、思わず目を細めていた。
 下馬路で雀を見かけても、こんな気持ちになりはしない。雀など、朝からチュンチュン(さえず)っては眠りを妨げてくる厄介者だ。愛らしい、と思ったのは、暇を持て余して、他にすべき仕事もないからだ。
 暇だ。物を考える以外、なにもできない
(夫人の暮らしは、皇帝が死ぬまで、こんな風に続くのね……)
 暇を持て余し、一刻で音を上げた翠玉には、想像もつかない日常だ。
 高貴な生まれの姫君は、時間を豊かに楽しむ習慣があるのだろうか。どちらにせよ、想像がつかない。
 あれこれと頭で考えているうちに、一穂が戻ってきた。
「翠玉様、お着替えの時間でございます」
「え? 食事の前に……ですか?」
 翠玉は、きょとんとしてしまった。潘氏の邸で、長い時間をかけて身支度を整えている。あとは食事をして眠るだけのはずだ。
「朝のお着替え、夕のお着替えは、高貴なお方の嗜みでございます」
 一穂は、呆れた様子もなくそう言った。
 とはいえ、こちらは座っているだけ。手を動かすのは侍女たちだ。申し訳なささえ感じながら、翠玉は着替えのために部屋を移動した。