「はい。呂氏は、三家と共に南方から来た一族。宇国滅亡の際、三家の当主は、自身らの首と引き換えに一族を守ろうといたしました。そこで康国側との橋渡しを買って出ながら秘かに阻み、族誅を招いたのが呂氏でございます。その後、高祖に取り入り、内城で地位を得たとか。康国において因縁があるとすれば、裏切り者の呂氏との間以外にございません」
 そんなことは――呂氏が三家を裏切った、とは竹簡に書かれていなかった。
 記録は、勝った側、生き残った側が書くものだ。一族の汚点は、あえて書き記さなかったのかもしれない。
「もう少し、詳しく聞かせてくれ。今も呂氏は後宮にいる」
「恐れ多い……いえ、私どもも、現在の呂氏について存じません。ただ、宇国滅亡と共に、三家に従っていた他の一族は南に戻っております。康国に留まったのは、呂氏のみ。呂氏は、地位を得るために自宮までしたそうでございます」
 自宮、とは、自らの意思で宦官になる――つまり、去勢をしたということである。
 後宮で男性が地位を得るには、唯一の手段だ。
「そうか。……では、呂氏にも異能があったのか? 今は三家の呪いから、祈祷をもって宋家を守る部署についている」
 伯父はわずかに顔を上げ「まさか」と小さく笑った。蔑みの混じる、暗い笑いだ。
「三家以外に、異能を持つ者はおりませぬ。三家は……特殊なのです。とても。呂家とは姻戚でもございません。彼らが、ありもせぬ三家の呪いから宋家を守っていたとすれば……宋家を二百年、欺きとおした、ということでございましょう」
 自らの一族を守るために、呂氏は三家を徹底的に悪者にした。
 三家の呪い。忌むべき疫鬼。角のはえた異形。――すべて、嘘だ。
 二百年、彼らはいもしない敵から宋家を守り続けてきた。三家を踏みつけ、ただ己の一族の利権を守るためだけに。
(許せない。……疫鬼は呂家の方だ)
 怒りが、腹の奥からこみ上げてくる。
 翠玉が憎むべきだったのは、宋氏よりも、むしろ呂氏だったのではないか。
 明啓は「そうか……」と伯父の言葉を受け止め、大きくうなずく。
「よく教えてくれた。礼を言う。高祖の建国より二百年。数多くの()しき因縁があったようだ。すべて私の代で終わりにしたい。三家の廟は、宋家が責任をもって新設しよう。ひとまず、我らの(こう)(びょう)の一角へ、仮に移すこととする」
 突然の話に、伯父はぽかんと口を開けていた。横にいる従兄もだ。
 郊廟とは、郊外にもうけた大規模な廟を指す。高祖はじめ代々の皇帝、皇后、妃嬪の眠る場所である。姻戚でもなければ、仮の措置であろうと他家を招きはしない。
 つまり明啓は、姻戚同様の待遇を三家に示したのだ。
「お、恐れながら、陛下……その……」
「今この場で、罪と則を撤回する。三家は自由だ」
 なにかが、音を立てて崩れていくのを感じた。
 きっと、伯父や従兄も同じように感じているだろう。
 今、たった今、二百年続く頸木が外れたのだ。
「ありがたいお言葉でございます。なんとお礼を申し上げてよいか……」
 伯父は、涙ぐみながら深く頭を下げた。
「改めて、江家の異能を継ぐ者の協力を仰ぎたい。康国には――いや、国だけではないな。私にも、彼女が必要なのだ。翠玉には知恵もあり、呪詛に立ち向かうにも果敢。どれほど励まされているか知れない。今しばらく、姪御を預からせてもらう」
 明啓は拱手の礼を示し、立ち上がった。
 あとを追おうとした翠玉を、伯父が「翠玉」と名を呼んで引きとめる。
(さん)()(さい)(せん)も、()(しん)(さい)も、一日一度だけだ。守っているだろうな?」
「もちろんです。気は()きますが、守っております」
 伯父に手招きされ、翠玉は耳を寄せる。
 そして、伯父は姪だけに聞こえるように囁いた。
「必ず守れ。代償は大きいぞ。――人でいられなくなる」
 ぎょっとした。
 江家だけに伝わる占いは、一日に一度だけ。繰り返し聞かされ、当然のものだと理解してきた。だが、使い過ぎた代償など、聞いた覚えはない。
「人でいられなくなる? ど、どういうことです?」
「決まりさえ守ればいい。一日一度だ」
 破るつもりはないが、代償は知っておきたい。なおも問おうとしたところで、断念せざるを得なくなる。
「へ、陛下……!」
 明啓が、翠玉の片腕をつかみ、ぐい、と自分の肩に回させたのだ。
「肩を貸す。こちらは俺が支えるから、そちらの手で杖をつけば楽だろう」
 ぐっと身体が持ち上がり、たしかに足は楽になった。だが、心の負担は大きい。
「恐れ多い! そこまでしていただかなくとも……」
「無理は禁物だ。足の怪我は、長引かせない方がいい」
 どきどきと心臓が跳ねっぱなしだ。
 この忙しない鼓動が、明啓に伝わってしまうのではないか、と不安でならない。
(こんなところ見られたら、誤解をされそう!)
 振り返れば、伯父は「でかした」と、従兄は「がんばれよ」と、口を小さく動かして言っていた。
(やっぱり……絶対誤解している! 人の気も知らないで!)
 だが、誤解をとく暇がない。聞かなかったことにして、忘れるしかなかった。
 馬車の前にたどりつくと、抱えるように乗せられた。
 もう、あれこれと抗議する気力もない。されるがままだ。
 真っ赤になっているであろう頬を隠したくて、下を向いたまま「ありがとうございました」と礼を伝える。
「遅くなってすまなかった。先に劉家に行っていたのだ。あちらも廟は焼かれたが、幸い――と言うのははばかられるが、怪我人はでなかった」
「それはなによりの幸いです。……まさか、陛下にお越しいただけるとは思っていませんでした。気落ちしていた伯父も、おかげで励まされたようです」
「俺の失態だ。この座にいる内に、彼らに――貴女にも直接詫びておきたかった」
 明啓は、仮の皇帝。十日の間に呪いが解ければ、弟がその場に戻る。
 翠玉は伏せていた顔を上げた。
 今のうち。今しかない。感謝の言葉も、今のうちに伝えるべきだ。
呪詛が解ければ、明啓とは二度と会えなくなる。それは望ましい未来だが、一抹の寂しさを感じずにはいられない。
「明啓様。心より感謝申し上げます。廟の周りの建物の軒から、水が滴っておりました。見張りの兵士が、延焼から守ってくれたのでしょう。廟が焼けたのは痛恨ですが、伯父を含め、近隣の住民たちに被害が及ばなかったのは、ご配慮のお陰です」
 言い終えると同時に、馬車がゆっくりと動き出した。
「いや、俺の力が及ばなかった。失態は失態だ」
「まだ負けてはおりません。次は、未来の話をいたしましょう」
「……この馬車に乗ったからには、あの作戦に協力してもらえるのだな?」
 これからはじまるのは、皇帝の寵姫を装い、敵を挑発する――という、相当な覚悟の要る作戦である。
「はい。覚悟はできております」
 翠玉は、明啓の目をまっすぐに見て答えた。
 すでに雪辱は成った。罪と則から解放されたのだ。
 あのまま、伯父のもとに留まる道もあったように思う。 だが、できなかった。
 呪いは、まだ城内に存在している。そして三家を襲った者もつきとめねば、枕を高くして眠れる夜はこないのだ。
 父祖のため。自分たち江家の者のため。二百年後の子孫のためにも。翠玉は、戦わねばならない。
 それが、異能を最後に留めた者の務めだ。
「俺は、幸運な男だな。貴女は、いつも俺に希望を見せてくれる」
 笑顔で、明啓は言った。
 その屈託のない明るさに、翠玉も笑みを返す。
「こちらこそ。明啓様は幸運の(かたまり)のようなお方です」
 言葉に嘘はない。この出会いは、幸運そのものだ。
「あと十日だ。――よろしく頼む」
「はい。よろしくお願いいたします」
 長い夜は、すでに明けている。
 戦いの幕は、新たに上がったのだ。