翠玉を乗せた馬車が、琴都のはずれにある江家の廟に到着したのは、夜の白みはじめる頃だった。
焼け跡に伯父の姿を見つけ、杖で足を庇いながら近づく。
「伯父上! ご無事ですか!?」
「翠玉! お前、どうしてここに……天錦城にいるんじゃなかったのか?」
翠玉と子欽は、住んでいた長屋を襲われている。同様に、江家の廟も危ういとの判断で、見張りの兵士を数名つけた、と清巴から聞いていた。その際、翠玉が天錦城で働いていることも含め、さしつかえのない程度の事情を説明したそうだ。
目で探すまでもなく、すぐそこで従兄が焼け跡の片づけをしていた。ふたりとも無事だ。怪我をした様子もない。
(あぁ、よかった)
廟の横にある、少し傾いた家も無事だ。雨も降っていないのに、軒からは水がポタポタと垂れていた。
ふたりが無事であったのは幸いだが――廟は形を留めていない。それと聞かねば廟の跡だとさえわからないほどに。
父祖の魂の名を記した宝牌は、木製だ。燃やされれば、ひとたまりもない。
最も古い宝牌には、六百年前の先祖の名が記されていた。
宇国を建てた関氏の要請を受け、二千里を越えて琴都まで来た先祖の魂が――族誅の憂き目にあってさえ保たれてきた祈りの場が――無残にも消えてしまった。
「どうして……どうして、こんなことに……あんまりです」
「私にもわからんよ。まったくわからん。もう、潮時かもしれないな」
伯父は、崩れた塀に腰を下ろした。憔悴は深い。
気落ちするのも当然だ。六百年、続いた祈りが途絶えた。新たに廟を建て直すにも金が要る。食べていくので精いっぱいな暮らしから、これ以上切り詰められるものなどないというのに。
「……潮時? なんのお話ですか?」
「琴都を――いや、この国を出よう。これ以上続ければ。命まで失うぞ。お前が死ねば、江家の異能は絶えてしまう」
翠玉は、慌てて「いけません」と伯父の提案を止めた。
「宮廷の方から、お聞きになったはずです。二百年、三家が宋家を呪い続けてきた、と信じる者が宮廷にいます。冤罪を晴らさねば」
「いいんだ。もう、いい。我らの二百年は、踏みにじられた。どこぞに腰を落ち着けて、新たな廟を構えるとしよう。南がいい。南に行こう。康国さえ出れば、もう人に謗られることもない。お前も嫁ぎ、子をなし――」
翠玉は、ぐっと拳を握りしめた。
たしかに負け戦続きだ。作戦は不発。汚名だけが増し、洪進も目を覚まさない。その上、廟まで焼かれた。
だが、まだ翠玉は諦めてはいない。
「伯父上、私は南には行きません。それに、継母上の葬儀の際にも申し上げましたが、私は生涯、独り身を貫く所存です」
伯父の、生気を失った目が、力を取り戻して翠玉を見た。
「翠玉、お前……どこまで勝手なことを言うのだ! 子欽の件でも好きにさせてやったというのに! 江家の異能を継ぐのは、お前しかいないのだぞ!? 目を覚ませ。そもそも、宋家に騙されたのではないのか? お前が天錦城に行かなければ、こんな目にはあわずに済んだ!」
江家の雪辱を果たそうとした。それだけだ。
二百年もの間、踏みつけられてきた。その足を避けられたら――そう思った。
ただ穏やかな暮らしを求めただけ。そう多くを望んだつもりはない。
それなのに――この惨状はどうだ。
おかしいのは、そちらか、こちらか。問うまでもない。
「おとなしくさえしていれば、被害はなかった、とでもおっしゃるのですか? まさか。そんなものは幻想です。二百年もの間、我々はおとなしくしていたではありませんか! この上もなく!」
「だから、逃げるしかない、と言っているだろう! 江家の血は絶やさせんぞ。首に縄をつけてでも、お前を南に連れていく」
「私は逃げません。呪詛を暴き、得た報酬で廟を必ず建て直します」
「翠玉! 黙って言うことを聞け!」
伯父に言わせれば、頑固者の姪だろう。
翠玉にとっては、石頭の伯父だ。
「今しかないのです、伯父上。江家の異能が、世の役に立つ唯一の機です!」
異能は、父子、母子のみでしか遺伝しない。
江家に次の異能が生まれるとすれば、翠玉の子以外に存在し得ないのだ。翠玉にその意思がない以上、江家の異能は絶える。
絶える前に、この異能をもって罪と則から解放されたい。今こそ好機だ。
「お前が子をなせば、絶えずに済むではないか!」
「異能などなければ、江家は二百年も耐えずに済みました! こんな力は、ない方がいいのです! 私は、私の子に異能など背負わせたくはありません!」
互いに、一歩も譲らず対峙する。
そこに――馬車が到着した。
降りてきたのは、背の高い、濃紺の袍を着た青年――明啓である。
(明啓様! どうして、こんな所に!?)
影武者とはいえ皇帝が、琴都の外れまで来るとは思っていなかった。
翠玉の狼狽をよそに、明啓はゆっくりと近づいてくる。
「貴方が、江家の当主か?」
「は、はい。左様でございます」
翠玉は、伯父に「皇帝陛下です」と耳打ちした。
伯父も従兄も、悲鳴のような声を上げ、その場に平伏する。
「宋啓進だ。此度のこと、遺憾に思う」
翠玉も膝をつこうとしたが「足に悪い」と止められた。
「……よ、よもや、皇帝陛下にお越しいただけるとは……恐悦至極に存じます」
「三家の末裔を狙う者がいると把握していながら、廟を守り切れなかった。許せ。下手人に、心当たりはあるか?」
明啓の言葉に、いっそう伯父は頭を下げた。
「心当たりなど、まったくございません。恥ずかしながら、廟を守る以外は、倅が城外へ小柴を拾いに行き、私は鶏小屋の掃除で糊口をしのぐ日々。酒も飲みません。賭博もいたしません。恨みを買うような行いは、ひとつも」
伯父の言葉は、嘘ではない。
その日食べるので精いっぱい。恨みを買う機会さえないのだ。
「あるのは、二百年の因縁のみか」
「二百年の因縁ならば、呂氏が――」
伯父の口から飛び出した姓に、翠玉は目を丸くした。
「呂氏を知っているのか?」
明啓は、伯父の前に片膝をついて問うた。
(呂氏? 祈護衛の衛長は、呂氏だ)
にわかに、翠玉の鼓動は跳ね上がった。
焼け跡に伯父の姿を見つけ、杖で足を庇いながら近づく。
「伯父上! ご無事ですか!?」
「翠玉! お前、どうしてここに……天錦城にいるんじゃなかったのか?」
翠玉と子欽は、住んでいた長屋を襲われている。同様に、江家の廟も危ういとの判断で、見張りの兵士を数名つけた、と清巴から聞いていた。その際、翠玉が天錦城で働いていることも含め、さしつかえのない程度の事情を説明したそうだ。
目で探すまでもなく、すぐそこで従兄が焼け跡の片づけをしていた。ふたりとも無事だ。怪我をした様子もない。
(あぁ、よかった)
廟の横にある、少し傾いた家も無事だ。雨も降っていないのに、軒からは水がポタポタと垂れていた。
ふたりが無事であったのは幸いだが――廟は形を留めていない。それと聞かねば廟の跡だとさえわからないほどに。
父祖の魂の名を記した宝牌は、木製だ。燃やされれば、ひとたまりもない。
最も古い宝牌には、六百年前の先祖の名が記されていた。
宇国を建てた関氏の要請を受け、二千里を越えて琴都まで来た先祖の魂が――族誅の憂き目にあってさえ保たれてきた祈りの場が――無残にも消えてしまった。
「どうして……どうして、こんなことに……あんまりです」
「私にもわからんよ。まったくわからん。もう、潮時かもしれないな」
伯父は、崩れた塀に腰を下ろした。憔悴は深い。
気落ちするのも当然だ。六百年、続いた祈りが途絶えた。新たに廟を建て直すにも金が要る。食べていくので精いっぱいな暮らしから、これ以上切り詰められるものなどないというのに。
「……潮時? なんのお話ですか?」
「琴都を――いや、この国を出よう。これ以上続ければ。命まで失うぞ。お前が死ねば、江家の異能は絶えてしまう」
翠玉は、慌てて「いけません」と伯父の提案を止めた。
「宮廷の方から、お聞きになったはずです。二百年、三家が宋家を呪い続けてきた、と信じる者が宮廷にいます。冤罪を晴らさねば」
「いいんだ。もう、いい。我らの二百年は、踏みにじられた。どこぞに腰を落ち着けて、新たな廟を構えるとしよう。南がいい。南に行こう。康国さえ出れば、もう人に謗られることもない。お前も嫁ぎ、子をなし――」
翠玉は、ぐっと拳を握りしめた。
たしかに負け戦続きだ。作戦は不発。汚名だけが増し、洪進も目を覚まさない。その上、廟まで焼かれた。
だが、まだ翠玉は諦めてはいない。
「伯父上、私は南には行きません。それに、継母上の葬儀の際にも申し上げましたが、私は生涯、独り身を貫く所存です」
伯父の、生気を失った目が、力を取り戻して翠玉を見た。
「翠玉、お前……どこまで勝手なことを言うのだ! 子欽の件でも好きにさせてやったというのに! 江家の異能を継ぐのは、お前しかいないのだぞ!? 目を覚ませ。そもそも、宋家に騙されたのではないのか? お前が天錦城に行かなければ、こんな目にはあわずに済んだ!」
江家の雪辱を果たそうとした。それだけだ。
二百年もの間、踏みつけられてきた。その足を避けられたら――そう思った。
ただ穏やかな暮らしを求めただけ。そう多くを望んだつもりはない。
それなのに――この惨状はどうだ。
おかしいのは、そちらか、こちらか。問うまでもない。
「おとなしくさえしていれば、被害はなかった、とでもおっしゃるのですか? まさか。そんなものは幻想です。二百年もの間、我々はおとなしくしていたではありませんか! この上もなく!」
「だから、逃げるしかない、と言っているだろう! 江家の血は絶やさせんぞ。首に縄をつけてでも、お前を南に連れていく」
「私は逃げません。呪詛を暴き、得た報酬で廟を必ず建て直します」
「翠玉! 黙って言うことを聞け!」
伯父に言わせれば、頑固者の姪だろう。
翠玉にとっては、石頭の伯父だ。
「今しかないのです、伯父上。江家の異能が、世の役に立つ唯一の機です!」
異能は、父子、母子のみでしか遺伝しない。
江家に次の異能が生まれるとすれば、翠玉の子以外に存在し得ないのだ。翠玉にその意思がない以上、江家の異能は絶える。
絶える前に、この異能をもって罪と則から解放されたい。今こそ好機だ。
「お前が子をなせば、絶えずに済むではないか!」
「異能などなければ、江家は二百年も耐えずに済みました! こんな力は、ない方がいいのです! 私は、私の子に異能など背負わせたくはありません!」
互いに、一歩も譲らず対峙する。
そこに――馬車が到着した。
降りてきたのは、背の高い、濃紺の袍を着た青年――明啓である。
(明啓様! どうして、こんな所に!?)
影武者とはいえ皇帝が、琴都の外れまで来るとは思っていなかった。
翠玉の狼狽をよそに、明啓はゆっくりと近づいてくる。
「貴方が、江家の当主か?」
「は、はい。左様でございます」
翠玉は、伯父に「皇帝陛下です」と耳打ちした。
伯父も従兄も、悲鳴のような声を上げ、その場に平伏する。
「宋啓進だ。此度のこと、遺憾に思う」
翠玉も膝をつこうとしたが「足に悪い」と止められた。
「……よ、よもや、皇帝陛下にお越しいただけるとは……恐悦至極に存じます」
「三家の末裔を狙う者がいると把握していながら、廟を守り切れなかった。許せ。下手人に、心当たりはあるか?」
明啓の言葉に、いっそう伯父は頭を下げた。
「心当たりなど、まったくございません。恥ずかしながら、廟を守る以外は、倅が城外へ小柴を拾いに行き、私は鶏小屋の掃除で糊口をしのぐ日々。酒も飲みません。賭博もいたしません。恨みを買うような行いは、ひとつも」
伯父の言葉は、嘘ではない。
その日食べるので精いっぱい。恨みを買う機会さえないのだ。
「あるのは、二百年の因縁のみか」
「二百年の因縁ならば、呂氏が――」
伯父の口から飛び出した姓に、翠玉は目を丸くした。
「呂氏を知っているのか?」
明啓は、伯父の前に片膝をついて問うた。
(呂氏? 祈護衛の衛長は、呂氏だ)
にわかに、翠玉の鼓動は跳ね上がった。