翠玉と李花は、扉の前に椅子を置いて座り、息を殺して耳をそばだてている。
「足労だったな。呂衛長」
「は。内城で騒ぎを起こしましたこと、深くお詫び申し上げます」
 扉の向こうにいるのは、あの護符を焼いていた女のようだ。凛とした美声である。
「この際だ。腹を割って話したい。――こちらのやり方も急であったからな。反発は覚悟の上だった。しかし、後宮内での許可なき火焚きは、死罪が相当だぞ」
「非常時でございました。先帝陛下であれば、お認めくださったことと思います。恐れながら、明啓様のなさりようでは、洪進様をお守りできませぬ。三家の娘たちが夫人の殿に貼ったのは、呪符でございます。急ぎ取り除く必要がございました」
 悪びれる様子もなく、呂衛長は答える。
「彼女たちは、俺が秘かに招いた。衛長は、誰の口から彼女たちの存在を聞いた?」
「陛下が(たぶら)かされるのを看過しかねる者たちが、教えてくれました」
 ふぅ、と明啓はため息をついた。
「……なるほど。斉照殿に、複数人いたわけか」
 呂衛長は否定しなかった。翠玉も、そこで察せざるを得ない。やはり、斉照殿から情報が漏れていたようだ。
「洪進様の呪いを解くには、三家皆殺し以外に道はございません。三家の邪な誘いを退け、なにとぞ、正しきご判断を!」
 ごん、と音がした。呂衛長が平伏して頭を床につけたらしい。
 なにとぞ――と繰り返す必死さが、心底恐ろしい。
「物心ついた頃から、三家の呪いが三十三番目の子を殺す――と繰り返し、繰り返し聞かされてきた。俺も、弟も、父でさえ、呪いに人生を支配されてきた」
「三家の呪いは禍々しいのでございます。先帝陛下はご理解くださいました」
「結論から言おう。――三家に罪はない。洪進を襲っているのは、別種の呪いだ」
「我ら呂一族は、二百年にわたり宋家にお仕えして参りました。なにゆえ我らの言をお疑いになられるのか、わかりかねます。やはり、三家の小娘どもに――」
 翠玉と李花は、どちらからともなく、互いの手を握りあっていた。
「違う。誑かされたのではない。これは、俺自身の判断だ。――これを読んでくれ」
 なにかを、明啓が渡したようだ。
 カラリ、と音がしたので、竹簡だろう。
「これは、三家の呪詛に関する資料でございます。これが、なにか?」
 また、カラリ、と音がする。
(あの竹簡か)
 三家の呪いが、いかにはじまったかについて書かれた、あの竹簡だ。
「これを読めばわかるだろう。三家皆殺しは、高祖の遺志に反するばかりか、国をも危うくする。角が生えているだの、洞窟で呪詛を行うだの、人の肉を食べるだのと、法螺話はもうたくさんだ。どちらが疫鬼か、考えてみろ。邸に押し入り、罪と則を背負って謙虚に生きる者を殺害しようとした。これが疫鬼の仕業でなくて、なんだというのだ」
「お、お待ちください。わ、我らは決してそのような……野蛮な真似はいたしません。いえ、もちろん、ご許可をいただければ、正義の鉄槌を振るうに迷いはございませんが、お許しもないのにそのような真似は、決していたしません」
 声が、動揺している。
 扉の向こうの呂衛長の顔は見えないが、額に冷や汗が浮く様が想像できた。
「関与していない……と言い張るのか?」
「もちろんでございます。我らの総数は二十一名のみ。人殺しを雇うような力はございません。不可能でございます」
 呂衛長は、震える声で「不可能です」と繰り返した。
「三家のふたりも、そう言った。――呪詛は不可能だと。そして、潔白を証明するために、宋家の城まで赴き、力と知恵を尽くしている。彼女たちはひとつひとつ理を示し、それらを疑う余地はなかった」
「三家の者でございますよ? 忌むべき異能の――異形の者です! 人を簡単に誑かし、意のままに操っているのでしょう」
 スラスラとなめらかに悪口雑言が流れていく。その言葉ひとつひとつが鋭利で、皮膚を破るほどに痛い。
 翠玉は、ぐっと唇を引き結んで耐えた。
「では、証を見せてくれ。洪進を襲った呪詛が、たしかに三家の呪いだと、祈護衛の力で示してもらいたい。先帝は厚く祈護衛を信頼し、多くを任せたが、私は違うぞ。証を示さぬ限り、宋家が祈護衛を信頼することは永遠にない」
 呼吸を躊躇うほどに、寝室は静かになる。
 長い沈黙ののち、
「三家は……悪です。悪そのもの。滅ぼすしかありません」
 また呂衛長は、三家への憎悪を口にした。
「謹慎は、六月九日の夜明けまでとする。それまでに三家襲撃の件を自ら明らかにせよ。これは二百年の忠誠に対しての温情だ。できぬとあれば、大逆罪に問う」
 呂衛長は、返事らしき音を発していたが、聞き取れなかった。
 衛兵が、呂衛長を連れていったようだ。足音が遠ざかっていく。