柳の間に、女が立っていた。
複雑に結い上げた髪や、首を傾けるとしゃらりと揺れる、繊細な髪飾り。高貴さが一目でわかる。なにより、薄暗がりでも映える、その白い袍。白鴻殿の主以外にはいないだろう。
(周夫人だ)
ふたりは、とっさに膝をついて頭を下げた。周夫人の殿に護符を貼るのは、明日の予定だ。ここで悪印象を与えるわけにはいかない。
「私の父は、左僕射です」
突然の言葉に、李花がこちらを見た。意味がわからず、戸惑っているのだろう。
察するに――周夫人は、不満を述べている。
徐夫人や、姜夫人よりも、実家の当主の地位が高い。本来ならば、自分の殿をまっさきに訪ねるのが筋であろう――と。
「お目にかかれて光栄でございます」
李花も「光栄でございます」と重ねた。
「面を上げなさい。……そなたは、占いをするとか」
ゆっくりと周夫人は柳の間を歩きはじめた。
顔を上げて辺りを見れば、侍女の姿もない。ひとりで庭まで来たらしい。
すらりと長い手足の、上品な目鼻立ちの姫君だ。すっきりと切れ長の目や、理知的な高い鼻などは、北の人らしい特徴である。
「はい。市井の占師でございます。おうかがいが遅くなり、申し訳ございません。占いによりますと、東より訪ねるが吉と出ましたゆえ、順にうかがっておりました」
「東から……そう。占いの結果なのね」
「しかしながら、明日のお訪ねも、遠慮すべきかと迷っておりました。いかに斉照殿からのご依頼とはいえ、尊い周家の姫君のお目汚しになっては申し訳ない、と。それがこのようなところで拝謁いただき、感無量でございます」
やや機嫌が上向いたらしい。周夫人は扇子を出し、ゆるゆるとあおぎはじめた。
「構わないわ。ただの戯れだもの。それで? 糸を指に結ぶのね?」
周夫人の耳にまで、占いの手法は届いているらしい。
(まったくもって、筒抜けだ)
後宮とは、本当に恐ろしい場所だ。
「左様でございます。しかしながら、この占いは日に一度しか行えませぬ。明日のお慰みになりましたら幸いです。」
「……いいでしょう。陛下の魂胆はわかっておりますから」
周夫人の扇子の動きが、パタパタと小刻みになる。
「と、申しますと……」
「加冠の前に、もうひとり夫人をお迎えになるのでしょう? 誰であろうと敵ではないが、我らの機嫌をとろうという陛下の姿勢は評価します」
もうひとりの夫人とは――初耳である。
(急にややこしくなってきた)
三人の夫人だけで手一杯なのに、さらにひとり増えるらしい。
(婚儀の前……となると、加冠前? あと十日余りしかないのに?)
翠玉は驚き、かつ呆れた。
仮にも翠玉は呪詛解除の協力者だ。清巴なり女官なりが、そうと教えてくれてもよさそうなものである。
それとも、斉照殿の面々より、周夫人の耳が早いのだろうか。
「では、明日、おうかがいさせていただきます」
「翡翠の指環――いえ、それも芸がないわね。もう少し、気のきいたものを用意しておきましょう」
なにからなにまで、すっかり筒抜けである。
くるり、と周夫人は踵を返した。翻る白い袍は、薄暗さの中でも鮮やかだ。
さらさらと衣ずれの音を立て、周夫人が去っていく。
ふたりは、音が消えたのを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。
「助かった。……貴女は、きっと舌から先に生まれたのだろう」
やはり、後宮は怖い。ふたりは目を見あわせ、言葉にせずに感想を共有した。
李花が竹籠を抱えるのを待ち、庭を出る。
「そんなことはありませんよ。綱渡りでした」
「融通のきかぬ私が、貴女と組めたのは幸いだ」
月明かりと、まばらな灯篭の灯りの下で、ふたりは微笑みあった。
「こちらこそ。李花さんと組めて幸いです。――そういえば、もうひとつの家の末裔は見つからなかったのでしょうか」
人の耳を警戒して、翠玉は三家、とも、陶家、とも言わなかった。
李花は、一度「もうひとつ?」と聞いてから、今度はすぐに理解したようだ。
「清巴さんが調べたが、もうひとつの家は絶えたか、少なくとも康国内にはいないようだと言っていた。廟も消えていたそうだ」
江家も、廟を継げる男子は未婚の従兄ひとりしかいない。李花にも弟がふたりいるだけ。今の貧しい暮らしでは、いつ絶えてもおかしくない状況だ。
(二百年は長い)
むしろ罪と則を課されながら、二百年続いた江家と劉家が幸運なのかもしれない。
ふと思った。陶家が続いていて、異能を留めた娘がいたならば――と。
(三人がそろって、宋家の皇帝を救うべく力をあわせられたかもしれない)
裁定者も、守護者も、その称号に相応しい異能を留めている。
執行者の末裔は、どんな異能を持っていたのだろう。
ふと空を見上げれば、月心殿の屋根に、明るい月がかかっていた。
――火だ。
遠く、声が聞こえる。
宦官が数人、慌てて走っていく。
ふたりはそろって、足をぴたりと止めた。