作業を終えた李花と共に、翠玉は紅雲殿から退出した。
まだ、三夫人のうち、ひとりを訪ね終えただけだというのに、どっと疲れた。
ちょうど夕食がはじまる時間だったようで、行列がこちらに向かってくる。
(徐夫人の食事? ……すごい行列)
列は、二十人に近い数だ。山盛りの甘い菓子に、長い列で届く食事。まったくもって雲の上の暮らしである。
端に避けていたふたりは、行列を見送ってから、目を見あわせて深く息を吐いた。
「すまない。まったく気が回らなかった! どうも融通がきかなくていかん。昔からそうなんだ」
李花の謝罪に、翠玉は首を横に振った。
「いえ、こちらこそ無茶な振り方をしてしまいました。ごめんなさい」
「貴女は、本当によく知恵が回るな。私には到底できない芸当だ。おとなしく護符を貼ってまわるとしよう。性にあっている」
護符は、紅雲殿の内部だけでなく、その南側にある双蝶苑にも貼る必要がある。
李花は、護符を貼る道具が入れた竹籠を、ポン、と叩いた。
「では、お願いいたします。私、急いで斉照殿に報告せねば。まさか、おふたりのどちらかと面識がおありだったとは、予想していませんでした」
「あぁ、話は聞いていた。急いだ方がいい。――では、のちほど」
翠玉は斉照殿へ。李花は双蝶苑へ。ふたりは道を分かった。
――徐夫人は、皇太子時代の双子の、どちらかに会っている。
明啓なのか、洪進なのか。
双子はよく似ており、父親でさえ見分けがつかなかったそうだ。
しかし、型通りの挨拶と、雑談では条件が違う。
ふとした仕草、話し方、話題、物の見方。そして笑い方。恋する娘ならば、他の誰より違いに敏感なはずだ。
彼女には双子の見分けがつく、という可能性を考える必要があるだろう。
(早くお知らせして、たしかめておいた方がいい)
二百年の呪いを前提に、双子をひとりの皇太子として育てるなど、そもそも薄氷を踏むが如き危うさである。ヒビの入った箇所を知らせぬわけにはいかない。
(今は一蓮托生だ)
頼みの綱の明啓が躓けば、翠玉だけでなく、李花ももろとも倒れる。
斉照殿の階段を、息を切らせて上がっていく。
裏に回って部屋に入れば、卓に食事の用意がしてあった。だが、報告が先だ。
ひとまず頭と顔の黒布を外す。髪は、朝に整えてもらったまま形を保っている。黒い袍から、桜色の袍に着替えれば、すっかり斉照殿の女官の姿に戻った。
髪の乱れを直しながら、部屋を飛び出す。
「あ!」
部屋を出てすぐ、清巴と鉢あわせになった。
さすがは宮仕えだけあって、清巴は声を上げずに驚いていた。
「お戻りでしたか。明啓様が、お食事が終わりましたら、翠玉様から直接報告をお聞きになりたいとおおせです」
徐夫人の件の報告は、清巴にするつもりでいた。だが、呼ばれているならば、明啓に直接伝えるのが筋だろう。
「すぐで構いません。急ぎご報告すべきことがございます」
では、と清巴が先に歩き出す。
昨日と同じ、書画骨董のある部屋に向かうのかと思えば、対の青い壺の間の扉を開けた。
(中庭? どうして中庭に……あぁ、明啓様は、桜簾堂にいらっしゃるのね)
中庭の渡り廊下を通り、桜簾堂の前に立つ。
「……大丈夫、なのですか? その、三家の私が入っても」
桜簾堂には、三家の天敵とも言うべき、祈護衛が常駐しているはずた。
扉は開いたが、次の一歩は躊躇わざるを得ない。
「人払いは済ませてあります。私が、ここで見張りをしておりますので、ご安心を」
清巴がそう言うならば、安全だと信じるしかない。
恐る恐る、淡い紅色の簾をくぐった。
(あ……よかった。おふたりだけだ)
内部にいるのが、明啓と洪進だけだとわかって、翠玉はホッと胸を撫で下ろした。
牀に横たわる洪進と、牀に突っ伏している明啓。
以前と変わらず、苦しげに眠る洪進の横で、明啓は転寝をしているようだ。
(……お疲れに違いない)
双子の弟とはいえ、他人の身代わりを半月以上続けて、疲れぬはずがない。
明啓は、戦っている。
自分たちの理不尽な運命と。そして、弟を蝕む呪いとも。
「……あぁ、すまない。来てくれたのか」
すぐに、明啓は転寝から目覚めた。
ふっと明啓が笑んだが、疲労のにじむ顔が痛々しい。
「お休みのところ、申し訳ありません」
「いや、ここに呼んだのは私だ。――それで、徐夫人の部屋に護符は貼れたのか?」
「はい。殿内に快く貼らせてくださいました。今は、李花が庭で作業中です」
「紅雲殿と、双蝶苑だな」
明啓が少し得意げに言うので、翠玉は「ご名答です」と言って微笑んだ。
「お疲れのところ恐縮ですが――お伝えしたいことがあり、急ぎ戻って参りました。その前に、ひとつ。少しだけ、お時間をくださいませ」
「なんだ? 言ってくれ」
翠玉は、その場に膝をついた。
「私は、江家の占師です。占いの内容は余人にもらさぬのが掟。ですが、明かさねば洪進様は救えませぬ。掟の唯一の例外は、お仕えする方に必要な場合のみです」
「聞かせてくれ」
翠玉の表情の硬さから、明啓も話の種類を察したようだ。
「父は、鉱山で死にました。継母の腹には子が宿ったとわかって……危険を承知で鉱山に入ったのです。その継母も、腹の子も、病で死にました。私の知る限り、私の一族の者は、満腹になるまで物を食べたこともありません。それでも、一族は宋家に逆らうことなく、罪を償うと言い続けていました」
「……そうか。痛ましいことだ」
「どれほど貧しても、礼儀や学問を怠るな、と父は言っていました。待っていたのです。いつか罪を赦される日がくると。――私は違います。飢えも貧しさも、宋家が強いたものだと思ってきました。この罪と則の下で、宋家には仕えられません。ですから――私は、明啓様にお仕えしたい。貴方ならば信じられます。――わずか十日余りではございますが、私、江翠玉は宋明啓様にお仕えいたします」
作法に従い、翠玉は拱手をして深々と頭を下げた。
衣ずれの音がする。明啓が、翠玉の前で膝をついたのがわかった。
驚いて顔を上げれば、ひたと目があう。
「私は、弟の影に過ぎぬ。仕えるならば、弟に」
「いいえ。三家を赦すとお約束くださったのは、明啓様です。他のどなたでもございません」
長屋まで来たのも、賊から救ってくれたのも、子欽の安全を確保したのも、すべて明啓だ。三家を罪と則から解放すると約束したのも彼だけである。
「……俺に、仕えてくれるというのか。影でしかない俺に」
「他の方にはお仕えできません」
きっぱりと翠玉は言った。
この宮廷の人間で信頼できるのはただひとり、明啓だけだ。
「わかった。わずかな間だが、貴女の忠誠を受けよう。光栄に思う」
明啓は、大きくうなずいた。
だが、まだ目の高さはさほど変わらない。
「こういう時は、こちらが跪くものでございましょう?」
たまりかねて、翠玉は訴えた。
「いや、これでいい。宇国の祖は、二千里の旅を経て異能の三家を厚遇で召し抱えたそうではないか。私も倣おう。貴女に、敬意と感謝を決して忘れぬと約束する。望む褒賞も与えよう。――どうか、弟を……私の半身を助けてくれ」
その言葉の真摯さに、翠玉は胸打たれる。
敬意と感謝。そんな言葉を、宋家の人間にかけられる日がこようとは。
父に、祖父に、伝えたい。二百年の忍耐には、意味があったと。
涙をこらえ、翠玉は「ご報告します」と膝をついたまま、本題に入った。