明けて、五月二十七日。
三夕の鐘が、遠くで聞こえる。
華々娘子の黒装束を身にまとった翠玉は、紅雲殿にいた。
頭から布を被る姿はいつもと同じ。ただ、今は顔の下半分も布で隠している。斉照殿の女官とは、別の存在として接触したかったのだ。
「啓進様がいらしたの。本物よ! そこの庭にいらしたの。ちらりと目が――嘘じゃないわ。本当なの。月明かりの下にお姿が見えた。……あぁ、夢のよう……貴女のお陰よ、華々娘子」
喜色満面で翠玉を迎えたのは、紅色の袍の徐夫人である。
(お美しい方だ)
後ろ姿さえ女神のようだと思ったが、間近で見れば、いっそう思う。
ふっくらとした頬と、杏仁型の目。艶やかな髪。すらりと背が高く、百人が百人、美しい、と称えるだろう。袍の見事さも相まって、美術品でも見ている気分だ。
耳の上辺りに飾った大きな花の飾りなど、誰しもに似合うものではない。
彼女の好みなのか、調度品も、大ぶりな花の意匠が多いようだ。
焚かれている香りまで、心なしか華やぎを感じさせた。
「お知らせした甲斐がございました」
翠玉は、黒布の下で笑みを浮かべる。
――占師を装って、夫人たちの殿に入り込む。
――護符を貼り、その変化で蟲の在処を絞り込む。
それが翠玉の作戦である。
皇帝の即位から加冠の儀まで、一ヶ月以上の間がある。婚儀はさらにそのあとだ。この空白期間の無聊を慰めるべく、斉照殿の意思で派遣された占師――として、翠玉はここにいる。清巴が間に立っての紹介なので、疑われてはいないはずだ。
「でも、心配だわ。啓進様は、なにやらお悩みのご様子だったの。それはそうよね。先帝陛下の急なご崩御で、さぞお心を痛めておいででしょう。私がお傍で支えてさしあげられたらいいのに……」
ほぅ、と悩ましい吐息を、徐夫人はもらした。
中庭に面した客間の窓際の、円い卓をはさんでふたりは座っている。
こぶりな庭に植えられた紅色の牡丹は、殿の雰囲気にも、その主にもよく似あっていた。
「徐夫人の優しいお気持ち、必ずや陛下にも伝わりましょう」
「そうだといいけれど。入宮のその日に、斉照殿でのお食事に招いていただいたきりよ。あの時は、私、緊張でなにも喋れなくて……あぁ、これ、実家から送られてきたお菓子なの。どうぞ、召し上がれ」
卓の上に、どん、と置かれているのは、脚つきの大きな皿だ。
山のように盛られているのは、真白い雪に似た干菓子であった。
「これは……」
「ご存じ? 雪糕というの」
徐夫人が、控えていた侍女に目をやれば、若い侍女は「米と蓮の実、上等な白い砂糖で作った菓子でございます」と説明をした。
わざわざ上等、と言うからには、相当に上等なのだろう。実際、これほど白い砂糖を、翠玉は見たことがない。
「いえ。私、はじめて目にいたしました。まことに、雪のようでございますね」
「遠慮しないで、どうぞ。父が言うの。丈夫な子を産むには、滋養が大事だって。気が早すぎると思わない?」
ふふふ、と徐夫人は愛らしく笑った。
後宮の女性の役割はただひとつ。次代に皇帝の血を継ぐこと。
先帝の遺児の中で、男子はひとり――実際はふたりだが――のみ。あとの十人は皇女ばかりだ。
(気が早い、とはおっしゃるけれど、急ぐご実家の気持ちもわかる)
新皇帝に、まだ子はいない。世継ぎ誕生を、康国全体が待ち望んでいる。
その強い望みが、皇帝の加冠にあわせて輿入れするはずの三人の姫君を、予定を前倒しにしてまで入宮させた。
清巴の話では、立后も、この三人のうちのひとりと目されているらしい。
後継ぎ。そして、皇后の位。
その両方を、喉から手の出るほど求めているのは、夫人たちの実家も同じだろう。
(弱味につけこむのは気が引けるけれど……それもこれも、未来のご夫君のためです。お許しを!)
心の中で謝罪するうちに、茶が運ばれてきた。
翠玉は「いただきます」と会釈し、顔を隠す黒布を持ち上げ、雪糕を一口かじる。
甘い。とてつもなく、甘い。
ほろりと口の中で崩れれば、いっそう甘さが広がった。
下町暮らしで口に入るのは、薄い粥と、肉包だけだ。菓子の類など、父の葬儀で、豆沙餡の饅頭ひとつを、子欽と分けあったのが最後である。継母の葬儀では、供える菓子もなかった。
「おいしゅうございます」
思わず、笑みがこぼれる。
強い甘さを、少し苦みのある茶で流す。なんとも贅沢だ。
「それで、占いって、なにがわかるの?」
徐夫人は、雪糕を口に運びつつ、のんびりと問うた。
「お生まれになった日の、二十四の大星と、四十八の小星の位置から、その方の運勢を読み解きます。人生は大きく、春、夏、秋、冬と――」
「そういうのはいいの。今は夏のはじめでしょう? 冬の話など聞きたくないわ」
徐夫人は袖で隠した手を、くさいものでも避けるように振った。
五月下旬。季節は初夏である。
占術において、夏の区切りは、加冠、あるいは結婚だ。
偶然ながら、今はどちらの意味においても初夏といえる。
「では、どのような占いをお好みですか?」
「そんなこと、とうにわかっているでしょう?」
徐夫人は、柔らかに笑みつつ、目を細めた。
華やかで明るい美貌から、いら立ちが感じ取れる。
「もちろんでございます。ですが――個々の望みというのは、存外、ひとつのようでひとつではありません」
いら立ちは伝わってくる。だが、翠玉は、口調も態度も変えなかった。
「啓進様に、一日も早くお会いしたい。……それ以外ないわ」
ひとつのようで、ひとつではない。
似た境遇の者が、誰しも同じ望みを持つとは限らない。人の数だけ望みはある。
異能を継ぐ三家出身の、翠玉と李花でさえ望みは違う。
呪詛を解き、冤罪を晴らす。一致しているのは目の前の一事だけ。呪詛が解けた瞬間から、もう向かう方向が違っている。そして、歩き出すのはまったく別の道。その後、隔たりは大きくなる一方だ。
翠玉は、罪と則から解放されればそれでいい。欲しいのは、穏やかな暮らしだ。子欽が郷試に受かれば、養子の口も見つかるだろう。あとは我が身を死ぬまで養えれば御の字である。
李花は、名誉を回復させるべく入宮を望んでいる。下町と後宮は、その距離以上に大きな隔たりがある。翠玉と李花の人生が、交わることはない。
望みが近しいのは、今、この一瞬だけだ。
夫人たちも同じである。
今でこそ、皇帝の愛を早く得たい、という一点に集約されている。
愛を得たい。子を得たい。寺には入りたくない。実家を盛り立てたい。皇后になりたい。他の夫人らに負けたくない。――似ているが、それぞれに違う。
望みの精度を上げるのは、江家の占いの基本である。
「徐夫人のお望みと、未来へ導くものがわかる占いがございます。いかがですか?」
「要らない。私の望みは啓進様――愛する人と添い遂げること。それだけよ」
きっぱりと徐夫人は言い切って、また雪糕を頬張った。
先ほどから、ずっと口が動いている、もう四つめだ。
(困ったな。絹糸を結べれば、多少の手がかりになるかと思ったのに)
しかし、ここで無理を通せば、すべて台無しになってしまう。
正面から入れぬ時は、早々に裏へ回るのが吉だ。
「では――まじないを」
翠玉は、懐から護符を出した。
侍女たちの間から、小さな声が上がる。
「これで、陛下にお会いできるのね?」
「はい。大変よく効きますが――代わりに多少、煩雑な手続きが要ります」
「別に構わないわ」
「護符を房の四方に貼らせていただきます。それと双蝶苑にも。一日、二日と経ちますと、この護符に変化が現れるのです」
「……変化? 護符が、どうなれば陛下にお会いできるの?」
顔が近づく。華やいだ香りが、ふっと濃くなった。
「秘中の秘ゆえ、明かせませぬ。ですが、この変化を読み解きますと、次にお会いできる日がわかります」
「……わかるの? 本当に?」
「はい。念のために――もうひと手間。この糸を指に結んでいただけますか?」
徐夫人は警戒を表情に示した。
「なんのために?」
「用いる呪文が変わるのです」
あくまでも笑顔で、翠玉は適当な嘘をついた。
(お許しを!)
気は咎めるが、ここが勝負だ。
なにせ頼りの明啓は、後宮に疎い上に、そもそも日中は外城にいる。
今も桜簾堂で、ひとり苦しむ洪進の姿を思えば、躊躇うわけにはいかない。
(少しでも、たくさんの情報がほしい)
翠玉は、絹糸を懐から出し、スッと引いて鋏で切る。